芳賀町総合情報館図書館−青木繁がいた町


宇都宮方面をひとまわりした。目的は、
・グラント将軍が日光見物にあわせて立ち寄った大オ商舎のことを知るために石井河岸菊池記念歴史館に行く。
・画家・山本鼎の軽井沢の別荘には、のちに画家・荒井寛方も住んだ。その生地にある「さくら市ミュージアム−荒井寛方記念館」に行く。
・帰り道に、夭折の画家・青木繁ゆかりの芳賀町にできた新しい図書館に寄った。

□ 石井河岸菊池記念歴史館
宇都宮市石井町2287 tel. 028-661-8303
http://www5.hp-ez.com/hp/ishiikasi/top

信州の画家・山本鼎は、高崎の実業家・井上房一郎が文化活動への関心をもつのに大きな影響を与えた。2人の出会いは双方の別荘が軽井沢で隣り合わせにあったことによる。山本鼎の別荘は、富岡製糸工場長・大久保佐一が山本鼎のためにアトリエとして用意したものだった。それは横浜の三渓園から、元・アメリカ大統領のグラント将軍が来日したおり立ち寄ったゆかりの建物を移築したものだという。
宇都宮市の東方、鬼怒川の近くにある大オ商舎にもグラント将軍が日光に行ったおりに訪れている。(大オ商舎は官営の富岡製糸場設立の前年の1871年にできた私営の製糸場)
この歴史館は、大オ商舎があったあたりを含め、鬼怒川の水運基地の1つ石井河岸の記録の保存・研究・公開をされている。

大オ商舎にあった建築は、3件が横浜の三渓園に移築されているが、すべて現存しない。
神社は戦災で失われる。
待春軒は戦後に焼失。
寒月庵は静岡・伊豆山の旅館、桃李境にさらに移築された。(桃李境は廃業し、跡地に会員制リゾートホテル「東急ハーヴェストクラブ熱海伊豆山&VIALA」が作られ、2011年7月から会員募集が始まっている。)

三渓園でグラント将軍が立ち寄った(宿泊した?)建物がどのようなものか、戦災にあった三渓園では記録を確認できないが、待春軒などとあわせて大オ商舎から運ばれた材料が使われた可能性はありうる。
(大阪から三渓園に運んだ建材が所沢で使われた例が三渓園で把握されている。)
軽井沢に三渓園から移築された別荘は現存していて、僕は現地に行って見て、外観の写真も撮ってある。玄関付近の板の刻み方が独特で特徴あるものに僕には思える。大オ商舎の建物を描いた図でもあって、そこに同じ板の刻み方がある−なんていうつながりが見つかる偶然を期待したのだが、そんな図はなく、三渓園に運び出した物資がどんなものだったかという記録もない。
『ものづくりにかけた先人の想い−栃木の近代産業と交通の発達』(栃木県立文書館 2007)に、大オ商舎の場内配置図があるのを見せていただいた。
もとは『宇都宮市史 第8巻』にある資料が転載されている。
でもこれは簡単な配置図で、神社や待春軒がどこにあったかさえ記されていない。
これ以上、大オ商舎−三渓園−軽井沢の関係をたどることはできないようだ。

それはそれとして、僕にはそもそもグラント将軍が日光に行ったときに大オ商舎に寄ったことが不思議だった。ここは宇都宮市街から東に5キロほど離れているし、今の交通感覚でいえば、JR東北線からも旧・国道4号からもそれている。
グラント将軍は1879年に来た。1885年に開通する鉄道はまだないから、鉄道を基準に考えるのは理に合わないとしても、旧・日光街道からにしても、わざわざ遠回りしたように見える。
歴史館の菊池芳夫館長に教えていただいたのは、この歴史館の前の道は、もと水戸街道で、水戸から笠間へ行く重要な道だったとのこと。
今は田園地帯をゆるやかに通っている田舎道にしか見えないし、しかも歴史館のすぐ先で鬼怒川の土手に突き当たっている。
でも、かつては北方からの米などがここで集結し、船で江戸に運ばれる重要な物流拠点で、だから石井河岸というものがあった。
菊池館長によれば、大オ商舎の製品はフィラデルフィアの万博に出品され金賞をとっているから、グラントは直接見たか、評判を知ったかで、ここに寄ったのではないかと言われる。
重要な産業拠点だし、当時の幹線にも位置していて、わざわざ遠回りという感覚ではなかったようだ。

歴史館は菊池家の中の蔵を使って資料を公開している。
菊池家は、かつては街道に沿って河岸にも近いここで旅籠を営んでいた。
菓子も作って売るようになり、広い敷地のうち街道に面した側(今は庭にしている)に売店を設けて繁盛していたという。
このあたりの家にはそれぞれ屋号があるが、菊池家は「菓子屋」。
曾祖父がこのあたりの長をされたこともあり、写真を見るとひげを生やして威厳がある。

案内していただいて、鬼怒川左岸(東)に渡り、大オ商舎の跡地を見に行った。
今はよくある北関東のありふれた田園風景で、広い畑地に住宅が点在している。
水路の曲がり具合がわずかに当時の地形を示しているほかは、大オ商舎に関わる具体的なものは何も残っていない。電柱や水路など境界にあるものを示して、それらの内側が大オ商舎だったと説明されるのだが、頭の中でCG画像のように商舎の様子を組み立て思い浮かべるしかない。

おおしましょうしゃの跡

大オ商舎を創った川村迂叟(うそう)のご子孫が暮らす家にも伺って紹介していただいた。
平らな田園地帯に、樹木がこんもりと集中する島のような部分があり、堀に囲まれている。城跡かと思うような眺めだが、昔から個人の土地とのこと。
広い敷地の中にちょっとした森があり、畑がある。
こういう風景、こういう土地の持ちよう、こういう歴史があるのかと新鮮な驚きを覚えた。
井上房一郎をたどっていると実に多様な世界が開けて驚かされることがいくつもあったが、また新たな風景を見、人に会い、歴史を知ることになった。

● 茶豆館(さばんかん)

15kmほど北のさくら市ミュージアムに向かう。
昼を過ぎたのに、車で走っていると、レストランなどないまま、どんどんミュージアムに近づいてしまう。がまんして宇都宮に戻る途中で探すしかないかと諦めかけたとき、もうミュージアムにほとんど着いて最後に左折した角がレストランだった。
客と店の人が楽しそうに話している。
のどかな雰囲気でいい感じだった。

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□ さくら市ミュージアム−荒井寛方記念館
栃木県さくら市氏家1297 tel. 028-682-7123
http://www.city.tochigi-sakura.lg.jp/site/sakura-museum/

軽井沢の山本鼎(1882-1946)がアトリエにした別荘は、のち内村鑑三(1861-1930)、その後に荒井寛方(1878-1945)の別荘となった。
たまたま石井河岸菊池記念歴史館から北に15kmほど行くと荒井寛方の出身地、旧・氏家町に、その作品を収めたミュージアムがある。

富岡製糸工場長・大久保佐一が山本鼎にアトリエとして別荘を建てたことはいくつかの資料に記載がある。ただし所有関係は不明で、山本鼎に使用させたとしても、その後の経過をみると所有権を譲ったのではないと思われる。
『やまぼうし 星野温泉のあゆみ・・・』(星野嘉助著 星野温泉刊 1972)には、ついで内村鑑三が別荘を使うようになった頃のことが記されている。
内村鑑三が星野温泉に住んだ5号別荘は旅館の座敷に近く、騒がしくて迷惑なことがあった。ところが12号別荘はグラント将軍ゆかりの別荘で、内村鑑三はアメリカ嫌いだが、グラント将軍は好き。それで位置的に静かでもある12号に移り住んだとある。
この12号別荘が山本鼎がアトリエに使った別荘のことになる。
内村鑑三は1930年に亡くなるまでの毎年夏過ごしたという。
山本鼎がいつこの別荘を離れ、内村鑑三が移り住んだのがいつのことかはわからない。

荒井寛方と別荘については、荒井寛方記念館が刊行した画集の年譜に記載がある。
1931 聖徳記念絵画館の壁画制作のため、原三渓の斡旋で群馬の富岡製糸場に赴く
1933 壁画完成 『富岡製糸場行啓図』下図は母校の氏家小に寄贈
 〃 軽井沢にアトリエを持つ 以降、毎年院展への出品作をこのアトリエで描く
荒井寛方が軽井沢に縁をもつのは、富岡製糸場−原三渓のつながりによることが推測される。
この「アトリエを持つ」とあるのが、所有権まで得ていたかどうかは、山本鼎、内村鑑三の例と同様に定かではない。
荒井寛方が書き残したものなどに別荘についてふれていないか、学芸員の大木礼子さんに伺ったが、今確認できる資料にはないとのことだった。
荒井寛方がいつまでその別荘を「持つ」状態でいたかも不明で、今はおそらく無関係と思われる個人所有になっている。

       ◇       ◇

井上房一郎の若い頃の事績をたどるとき、とくに1923年の関東大震災と、ブルーノ・タウトが日本にいた1933年から1936年を、僕は基準年として考えている。
当時の記録をたどっていると、その2つの時期に起きたことが当然しばしば現れる。それらをつないでいくと、時代を水平に見渡して、どんな時代だったかおぼろげにでも見えてくる思いがする。

荒井寛方は1923年には『涅槃』を描いている。大きな画面の中央に、亡くなる釈迦が横たわっている。ひっそりとした哀感が漂う。
関東大震災のあとに大震災を意識して描かれたのか、それより前に描かれたのかはわからないが、今見るといかにも大震災の年に似つかわしい絵に見える。

1934年の作品『仏誕』も展示されていた。
こちらは釈迦の誕生を祝って華やか。
六曲一双の屏風の全面に、明るく色とりどりの花びらが舞っている。
「散華」の儀式を、僕は松本幸四郎の東大寺での『勧進帳』1000回公演で初めて見た。段上に並んだ僧たちが、紙で作った花びらを撒いて祝い、無事を祈願する。その後小泉淳作さんの東大寺襖絵の奉納式でも見たが、あれが絵になるとこのように華やかな世界をつくるのかと見とれた。
→[荒川ゆらり 京亭−東大寺−勧進帳]
→[吉野山と東大寺の桜]


黄葉の日の新井寛方記念館

ミュージアムは勝山城址の公園にある。
鬼怒川を見おろす位置にあり、また城址には堀がめぐっていて、起伏のある道を上がったり下がったりしながらゆらゆら散歩していると気分がいい。
ここまでだいぶゆっくりしてしまった。
遅い秋の日はもう傾きかけている。
このあと大オ商舎のことをもう少し調べるために、宇都宮市街の図書館と博物館に寄ってみようかと思っていたのだが、混んだ市街に行く気をなくして、まだ新しい芳賀町の図書館に寄ることにした。
芳賀町に着くと、広い田園に取り巻かれて、図書館は町役場の向かい側にあった。

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■ 芳賀町総合情報館図書館
芳賀郡芳賀町祖母井1078 tel. 028-677-2525
http://www.town.haga.tochigi.jp/jouhoukan/index.html

僕にとって芳賀町は夭折の画家、青木繁が愛した福田たねの町として記憶している。青木繁はここに滞在したときに代表作のひとつ『わだつみのいろこの宮』を描いた。
『海の幸』(1904)には、裸の漁師に混じって福田たねをモデルにしたらしい白い顔が混じっている。千葉県の布良(めら)海岸の風景の想をえたもので、このとき熊谷の画家、森田恒友が同行している。
青木繁と福田たねの間にできた子ども幸彦は、のち尺八奏者、福田蘭童になった。ラジオで毎日流れた『笛吹童子』の主題歌は、哀調を帯びた独特なメロディーで、僕には子どものころの思い出に重なる。
芳賀町について思う浮かぶのは青木繁きりないが、いつか行ってみたいと思っていた。

図書館の郷土資料の棚に青木繁に関する本が幾冊かは並んでいるかと期待したのだが、本の背表紙の人名で目立つのは、栃木市生まれの田中一村とか、佐野市生まれの田中正造くらい。
下野新聞社刊の『栃木美術探訪』(2001)という本に、「天才画家のロマンス」という項目があって、青木繁と福田たねのことが簡単に紹介されていたくらい。
僕には思い入れがあるのだが、画家本人が出た町ではないから、図書館の資料としてはこんなものかと思う。

本はそれくらいだが、町役場とは反対側の出入り口に、『わだつみのいろこの宮』のガラス絵が嵌めてあった。微妙な色調もよくでていて、みごとなものだった。

入口に青木繁の「わだつみのいろこの宮」のガラス絵

ここは総合情報図書館と名乗って、博物館、文書館との複合施設で、博物館には福田たね資料がある。特別な企画展示のとき以外は公開されていなくて、許可をとらなくてはならない。ふと方向転換して来てしまったので、福田たねの資料は見損ねた。

2008年に開館したまだ新しい施設で、図書館は1階にある。
閲覧机や書架がゆったりと配置され、シックな色調と抑えめの照明で、落ち着いてなじめる、いい図書館だと思った。
石井河岸菊池記念歴史館でも荒井寛方記念館でも、見応えがあり来たかいがあった。
なお動き回った最後にこういう空間にひたれて、いい1日だった。

芳賀町総合情報館図書館の入口ロビー。天井が高く広々している。

(2011.11月 no.85)
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参考: