大倉精神文化研究所図書館+神奈川大学図書館


1.大倉精神文化研究所図書館
2.神奈川大学図書館

東急東横線に乗り、大倉山駅から坂を上がって大倉山記念館に見学に行った。
次に東伯楽駅から、住宅が密集する丘の細い道をくねくね曲がり抜けて神奈川大学の図書館に向かった。

■ 大倉精神文化研究所図書館
神奈川県横浜市港北区大倉山2-10-1
・大倉山記念館 http://o-kurayama.com/
・(財)大倉精神文化研究所 
http://www.okuraken.or.jp/

世に「大倉」という偉人が2人いて、それぞれにゆかりの「大倉山」が2つあり、紛らわしい。

大倉邦彦(1882-1971)は、佐賀県神埼市出身。
大倉洋紙店の経営者であり、思想家でもあり、1937年から2期6年東洋大学学長もつとめた。
1932年に大倉精神文化研究所を開設。(同時に大倉精神文化研究所図書館が設けられた。)
このあたりの地名はもとは太尾町(ふとおちょう)で、1926年東横線開業時の駅名も「太尾」駅だった。
今、図書館がある周囲の横浜市営大倉山公園は、東京横浜電鉄が経営していた梅園で、大倉精神文化研究所の建設に伴い、梅園の観光開発も兼ねて1932年に大倉山駅と改称された。
かつてあった地名としての「太尾」も、その後「大倉山」に変えられて今はない。

大倉喜八郎(1837-1928)は、新潟県新発田市出身。
乾物店を経て銃砲店に転じ、日清・日露戦争で巨利を得て、大倉財閥を築いた。
大倉土木組(現・大成建設)、大倉商業学校(現・東京経済大学)を設立した。
東京の大倉集古館、ホテルオークラにもつながる。
大倉山としては、神戸の大倉山公園(神戸市立中央図書館の所在地)、札幌の大倉山ジャンプ競技場がある。
(余談だが、僕は詩人の尾崎喜八(1892-1974)に関わり研究会にも加わっているが、尾崎の名は大倉喜八郎にあやかって名づけられたという。)
「父親は当時大商人だった大倉喜八郎を尊敬しており、その名にあやかって長男を「喜八郎」と命名したのだが、区役所の戸籍係がうっかり「郎」を抜かしたので、「喜八」になってしまったという。」
『花咲ける孤独−評伝・尾崎喜八』重本恵津子 潮出版社 1995

大倉精神文化研究所図書館は、神奈川県内で早い時期の開館で、神奈川県図書館協会は1947年に大倉山で発会式が行われた。
(横浜市立中央図書館の前身である横浜市図書館は1921年に、神奈川県立図書館は1954年に設立されている。→[神奈川県立図書館・横浜市中央図書館])

戦後、1950年から1960年までは国立国会図書館の支部図書館となっていた。
研究所本館は1981年に横浜市へ寄贈され、横浜市大倉山記念館として運営されている。
図書館部分については、1988年から財団法人の大倉精神文化研究所の図書館として一般公開されている。

建物を設計したのは長野宇平治(1867-1937)。
銀行建築を多く手がけた建築家で、旧六十八銀行奈良支店( 現・南都銀行本 1926)だとか、旧日本銀行松江支店(現・カラコロ工房 1938)とか現存していて、いくつか見に行ったことがある。どれも古典的なまっとうな銀行だった。

大倉山では「東西文化の融合」を掲げた大倉邦彦の理想に設計者が深く共鳴して作ったらしい。何かと何かが複合しているらしいことはわかるのだが、全体としては異様な正面になっている。独特で一度見たら「あ、大倉山」とわかるくらいに強い個性がある。

家を建てるのには地鎮祭をしたり、寺や地院を建てるときは「鎮壇具」を敷地の中央に埋めたりするが、ここには「留魂碑」が本館中央にある。
「一、人が人として宇宙人生の正法に安住せん事を念願す」など、大倉邦彦が理想とした4項が刻んである。

大倉邦彦の思想に基づき、”精神文化”の図書館として、哲学・宗教・歴史・文学などの図書を所蔵している。
図書館内の書庫を見せていただいた。
建物の構造と一体化したアメリカ製の積層書架、書籍用のリフトに乾燥空気の送風機。
当時の最新式のものが備えられ、80年を経て使われていることに感銘を受ける。

建築や図書館史などに興味をもつ人のために、『大倉山と精神文化研究所』という資料が作られていた。A41枚両面刷りに、図書館の由来、歴史から現状、周辺地域の概況まで、基礎的事項が簡潔に網羅されている。必要十分な事項が明確に網羅されていて、明快さに快感を覚える。
どこの図書館でもこういうのがあるべきというお手本になるほどのものに思った。

「85年前の絵ハガキで訪ねる世界遺産」という所蔵資料による小さな企画展示があった。これもちょっとした見応えがあり楽しかった。

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■ 神奈川大学図書館
神奈川県横浜市神奈川区六角橋3-27-1
http://www.kanagawa-u.ac.jp/library/

あいかわらずユルユルと井上房一郎とタウト、レーモンドをたどっている。
1933年、ブルーノ・タウトは敦賀港に来日し、その夜、京都の下村邸に入った。
そこにヴォーリズがいたことと、ヴォーリズが設計した下村邸についての感想をタウトは日記に記している。
一方、ヴォーリズの側からタウトについて何か言及しているか、知りたいと思っていた。

ヴォーリズが起こした近江兄弟社発行の機関誌『湖畔の聲』のバックナンバーを見ようと、先日、国会図書館に行った。ところが、タウトがいた頃の数年は欠けていた。
『湖畔の聲』があることは事前に確認していたのだが、「国会図書館だから当然あるよね」と思いこんでいて、欠号があることを見落としていた。

なぜか神奈川大学では所蔵していて、埼玉県立図書館から予約をしておいて、今日、閲覧に行った。
ヴォーリズとタウトが会った1933年5月だけでなく、前後の時期にもなにかしら言及があるかもしれないと考えて、1930年代をとおして予約しておいた。
カウンターに伺うと、すでに該当資料はブックトラックにのせて用意していただいてあった。
かなりの量があるのを目にしたとき、ウッという感じだったが、片端から行くしかない!という感じでチェックする。
こういうときは、『パイルD-3の壁』の刑事コロンボみたいな気分になる。
月刊誌の『湖畔の聲』が、すべてきれいにコピーをとり、製本してあった。おかげで、もちろん丁寧には見るけれど、壊さないようにオッカナビックリというほど神経質にならずにすんだ。

記事には、ホウとかハアとかおもしろいことがいろいろあった。
でも、肝心のヴォーリズが書いた文章に、タウトはでてこなかった。(完全に見落としがないとはいいきれないが)。
アメリカからやってきた質素なクリスチャンの建築家ヴォーリズは、ソビエトに行き、ナチスを逃れてきた社会主義的で表現主義的な建築家タウトに、意義を認めなかったろうか。
自然への親しみ、簡素な生活態度、敬虔な精神的態度など、ヴォーリズとタウトは根っこのところで共通するとことがあるように思うのだが、時代が2人を近づけなかったのか。
タウトが深く精神的傾向があることと、ヴォーリズが熱心なクリスチャンであることとは、別なことだろうか。
荒唐無稽な仮定だが、タウトを迎えた日本の建築家たちが、タウトの引受先を高崎の井上房一郎ではなく、近江のヴォーリズに打診したらどうなっていたろう、ということも思ってみる。

見終えてカウンターに返すとき、国会図書館にもない『湖畔の聲』があってありがたかったとお礼を言った。
最近ヴォーリズに関心をもつ人が増えていて、国会図書館にないので閲覧者が多い。元の資料は古いから、傷めないように全巻コピーをとってあると教えられた。いちだんと感謝の思いが深まる。
なぜ神奈川大学に『湖畔の聲』が揃っているかは不明とのことだった。

神奈川大学には、1921年に澁澤敬三が始めた「アチック・ミューゼアム」の流れを継ぐ「日本常民文化研究所」がある。
こちらにはいつか機会をみてまた来てみようと思う。


港が見える丘公園に寄り道して、安藤忠雄が改修工事に関わった横浜地方気象台の公開部分を見学した。現存する気象台の中では3番目に古い1927年に建った建築で、公園と外人墓地の間にあった。僕は港の丘を下ってすぐのところに2年住んでいたが、気象台の存在は知らなかった。


(2010.11月 no.69)
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