熊谷市立図書館−美術館も博物館もひっくるめて


2009年秋、熊谷市立熊谷図書館美術展示室では「開館30周年記念 森田恒友の表現〜洋画と日本画〜展」が開催されている。
森田恒友(1881-1933)は熊谷生まれの画家で、10月27日には、記念講演会「森田恒友の生涯と作品について」という講演があった。

講師は、恒友の孫にあたる森田恒之・国立民族学博物館名誉教授
孫とはいいながら、祖父・恒友に直接に会ったことはないのだが、恒友が使ったアトリエが子どものころの遊び場だったし、自宅にあった恒友の作品が展覧会などに出品されるときには搬出入に立ち会っていた。

講演では、身内ならではの内部情報もあるし、さらに詳細な事実探求もされている。こんな細部まで語っていたら時間が足りなくなるのではないかと思ったりしながら聴いていたのだが、終わってみれば、時代背景にも目配りし、近代美術史のなかに恒友がどういう位置にいたかも説明され、十分に一生を語られていた。穏やかに淡々と話されていたのだが、しっかり構成されていたわけで、まるで魔法にかけられたような気分にさえなった。

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休憩後は展示室に移動して、実際に絵を見ながらコメントされていく。

『島の井』1906:
東京美術学校在学中は青木繁の影響を大きく受けていたという、まさにそんな作品。画面中央に立つ女が、恒友が初めて好きになった女性であろうというような、絵を見ただけではわからない指摘がほかにもあって、やはりこうして聞いてこそと思う。

『午睡する看護婦』1907:
僕が埼玉県立近代美術館に在職した間にも、しばしば目にした作品。美術館ではかなりな数の恒友作品を持っているが、展示される頻度が多かった。
眠ってる看護婦さんは半分口を開いているし、僕にはかわいいとも色っぽいとも思えないのだが、森田恒之さんのお話でも、ほかの作家から言及されることの多かった作品だとのこと。

『ブルターニュ4』1915:
恒友はフランス留学中にセザンヌにひかれ、「日本への紹介者」といわれている。森田恒之さんが言われるのは、「雰囲気は似ている。面で構成する、抽象への萌芽といったセザンヌふうにはなっている。でも恒友の描き方は薄い。当時、日本人はふだんの暮らしでは、筆を使って墨で書いていた。その筆づかいがでてしまっている。」
なるほど、絵をよく見られているし、時代背景も視野に収めている。なるほどと気づかされた。
第1次大戦ころ洋画を学びに留学した画家たちの多くが日本画に方向を換えた、手先のマネだけでは対抗できない彼我の違いに気づかざるをえない時代状況だったことも指摘された。

晩年の水墨画:
小川芋錢に親しみ、茨城県牛久沼あたりをしばしば訪れ、描いた。荒川より利根川が好みだったようだ。

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僕はしばらく高崎の実業家、井上房一郎の足跡をたどっている。それで、1920年代から1930年代は、井上房一郎、レーモンド、タウトといった人たちの軌跡を軸に考えるようになっている。
井上房一郎が関わった2人の外国人建築家のひとり、アントニン・レーモンドは、フランク・ロイド・ライトの帝国ホテルの設計のメンバーとして来日したのだった。
その帝国ホテルは1923年、開業する日に、関東大震災に見舞われている。
1930年代の数年間、井上房一郎はナチスのドイツから逃れてきたブルーノ・タウトが日本で生活するための援助をしていた。

森田恒之さんのお話では、恒友は、関東大震災で生活が混乱し、大地震の衝撃もあり、スランプに陥ったという。気分転換の旅にでても、ほとんどスケッチ帳にかいていない。
1933年4月に恒友は千葉の病院で亡くなるが、翌5月にはタウトが敦賀港に着いている。

そんなふうに僕が関心を持ち続けてきたことと恒友とは時代が重なるのだが、何より直接に関わるのは山本鼎にある。
井上房一郎を文化に目を向けさせ、フランス留学まですることになる影響を与えたのは、信州の画家、山本鼎だった。恒友は東京美術学校で共に学び、1907年には、一緒に文学+美術誌『方寸』を創刊している。
熊谷図書館の展示室では、『方寸』も展示されていた。

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熊谷市立図書館は現在地に移り、美術展示室を持ってから30年になる。
図書館としての歴史はもっと古くて、概略は次のとおり。

1911(m44) 熊谷男子尋常高等小学校内に私立図書館が開館。館長はその小学校長。司書1名配置。
『熊谷市史』には熊谷にできた最初の図書館としてこう書いてある。不思議な図書館だ。私立図書館なのに、小学校長が館長になる。
町内に配られた広告の文章がおもしろい。
「(蔵書は三千冊あり)ヘソノ宿替スル程オモシロキモノアリ一読大知識ヲ得ル程有益ナルモノ沢山アリマス」

1912(m45) 「陣屋町に館舎を構築」して町立図書館と改称
1911年10月に一般公開が始まったのだが、翌年の4月にはこうなっている。
しっかり司書を配置していたということも考えあわせると、小学校内の図書館は町立図書館の正式開館前の仮オープンだったろうか。

1917(t6) 巡回文庫を開設
1926(t15) 熊谷寺境内に館舎を新築
1928(s3) 埼玉県知事より優良図書館として表彰
1929(s4) 文部省から優良図書館として表彰
1933(s8) 熊谷市立図書館と改称
1948(s23) 埼玉県立図書館分館を併置
1979(s54) 文化センター新築に伴い、センター内に図書館、美術展示室、郷土資料展示室がオープン

森田恒友は旧制熊谷中学校に通った。僕ははるか後輩にあたる新制熊谷高校に通った。その頃のある日、友人に誘われて熊谷寺境内にあった市立図書館に行ったことがある。長いテーブルにあわせて長い椅子があったように記憶している。椅子は、ほとんど細い棒のようなもので、ひどく安定が悪くて座りにくかった覚えがある。何だか落ち着かなくて、たしか一度行ったきりだった。実際その椅子はどんなものだったのか、その頃の内部の写真が残っていないものだろうか。

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つい最近、「日本のMLA=M(useum) , L(ibrary), A(rchives)連携の方向性を探るラウンドテーブル」という集まりに参加した。
この連携には、市民がそれぞれの資料を垣根なしに使えるようにするという目標がある。
議論はとても刺激がありおもしろかったが、実現には課題が多いことも見えてくる。
それでも、美術館に図書資料があるとか、図書館に美術的資料があるとか、各館にもともと複合的要素を抱えていることがしばしばある。そうした内なるMLA連携にはすぐにも取り組んでいけるのではないか。
図書館の資料保存の考え方、美術館の資料公開の考え方、司書や学芸員固有の職業倫理など、旧来のままのやり方に安住しないで、いいとこどりを目指していく。
そうした取り組みが各館の動きを活性化すれば、財源の圧縮や指定管理者制度への志向などに対抗することにもつながるだろういう意見があった。
熊谷では、図書館の図書館には美術展示室、郷土資料展示室があわせてあり、そうした方向性をもともと持っている。MLA連携の好例を示し、先導してくれるといいと思う。

(2009年10月 no.10)
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参考: