避暑地の出会い


1.御代田町立図書館(フレンドリー図書館)
2.軽井沢町立図書館
3.軽井沢高原文庫
4.村の古本屋 追分コロニー
* 山本鼎と井上房一郎の軽井沢の別荘

□ メルシャン軽井沢美術館「小さなルーブル」展in軽井沢

晴れているのに浅間の山頂だけが雲に覆われているのを眺めながら美術館に着く。
ルーブル美術館をコンパクトに凝縮したような、あるいはパロディにしたような展示をしていた。
ルーブルが所蔵する代表的名画を40%に縮めて印刷したミニチュアが並ぶと、小さくても、さすがルーブル!の豪華さ。
『モナリザ』は、実物大らしい大きさのものが床の敷物の上に置かれている。美術品運搬用のクレートから出されたところという設定で、絵の展示のために作業員が手にはめていた白い手袋もそばにある。
ユベール・ロベールの『廃墟となったルーブルのグランドギャラリーの想像図』は絵画だが、それを3次元の立体に作っている。
『借りくらしのアリエッティ』を東京都現代美術館に立体に作ったのと同じ種田陽平が演出した。
ワクワク、ウズウズする、とてもおもしろい展示だった。
(2011.11.6閉館)

■ 御代田町立図書館 フレンドリー図書館
長野県北佐久郡御代田町大字馬瀬口1901-1 tel. 0267-32-0800
http://library.town.miyota.nagano.jp/

メルシャン軽井沢美術館から細い道を隔てた隣に「エコールみよた」という複合館があり、浅間縄文ミュージアムや御代田町立図書館が入っている。
近ごろの日本の建築が、コンクリートやガラスなどの素材の組み合わせのままで、色の楽しみを放棄しているのを残念に思っているが、ここでは、マリリン・モンローの唇のような赤いソファや、辛子色のドアなど、色づかいが生き生きしている。
広いとはいえない館内に、児童書、参考図書/郷土資料、ヤングアダルトの区画などを設けたうえ、AV用のブースやたたみ室や対面朗読室を配置している。
平面図的にはうまく収めているが、実際の3次元の眺めとしては、やや窮屈に押し込んだ感じがする。照明器具がコチャコチャして、ややスッキリ感を損ねているのも惜しい。

● ハルニレテラス

星野温泉に新しくできた店舗群。
森の中の小道に沿って和洋中の食事の店や小物の店などが点在する。
ベーカリー&レストラン沢村で、ハルニレランチを食べた。1570円にcafe250円。
外の風が抜けるところで食べていて、暑くない。これでこそ避暑地の快適さ。

■ 軽井沢町立図書館
長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉2112-118 tel. 0267-42-3187
http://www.library-karuizawa.jp/

ゆるい短い坂を挙がると図書館が見えてきた。下から見上げるその屋根には、さらに上を向いたガラス窓が!
いったい、あそこはどうなってるのだろう?
軽井沢町立図書館の屋根には天に向かう窓

中に入って2階に上がれば、あの斜め上向き窓の下に行けるかと思ったが、見つからない。カウンターの職員に尋ねたら、「さあ、何でしょう?構造とかに興味がないもので...」と苦笑い。毎日のように通って、働いていて、ナゾに思ったことがないのかなあ、と不思議に思う。
そこから光を入れて劇的効果を狙った、というほどのことはなさそう。

書架は桜の木。カウンターと閲覧机は、ボーリング場のレーンに使われていたパインだという。こいういう使いまわしができるのか。

軽井沢は文学者をはじめ、文化人の滞在は多く、その結果の文化的蓄積は厚いところだが、図書館はわりとこじんまりしている。
ふと手にとった『槐多の歌へる』(村山槐多/著 山崎省三/編 アルス 1921)には、神田の中野書店の紙片が貼られていた。6000円。村山槐多は軽井沢の人ではないが、気合いのはいった収集のしかただ。(ん、個人から寄贈されたのかも...)

坂の下には、図書館(1976)と同じ設計者((株)三輪環境or三輪環境計画or三輪正弘環境造形研究所)による軽井沢町歴史民俗資料館(1980)がある。

□ 軽井沢高原文庫「文士と宿 軽井沢」展
  関連対談「おじいちゃん二代目星野嘉助を語る」
    星野佳路・矢代朝子

http://www.karuizawataliesin.com/kougen/kougen2004.html

高崎の実業家で、群馬の文化発展に大きな貢献をした井上房一郎の足跡を、しばらく前からたどっている。
井上が文化に関わることに決定的な影響を与えた画家・山本鼎との出会いの地が、星野温泉だった。
井上家は星野温泉に別荘を所有していた。
山本鼎は、富岡製糸場の場長の大久保佐一から星野温泉地内に別荘を贈られた。
2人は別荘に滞在中に知り合い、井上は深い影響を受け、山本鼎の勧めにしたがってフランスに留学まですることになった。
その後の井上房一郎の文化的活動の射程距離は長く、範囲は広かった。地方の1実業家とはいいながら、ジワジワと伝わる波及効果のようなことまで考えれば、井上房一郎がいなければ今の日本の文化状況がずいぶん変わっていたろうと思えるほどだ。
そんな人を誕生させることになった決定的な出会いの場としての星野温泉の別荘が、ずっと気にかかっていたが、あれこれ調べたりきいたりしても、なかなか確かなことがわからない。
2人が出会ったころの星野温泉の経営者、星野嘉助のことを孫が対談形式で語るという催しがあり、直接きけるかもしれないと期待してでかけた。

「文士と宿 軽井沢」という企画展にあわせた催しなのだが、対談の前にその展示を見ていて、ひとつの解説文に驚かされた。
「1920年ころ、富岡の実業家・大久保佐一が原富太郎所有の三渓園にあったグラント将軍ゆかりの洋館を星野に移築、山本鼎に提供」
とある。
これまで僕が見たいくつかの記述では、大久保佐一が山本鼎のために別荘を建てて贈ったとあり、新築だと思いこんでいた。
ところが移築で、しかも横浜の三渓園からだという。
疑問が解けるより、新たな謎がでてきてしまった。

対談は高原文庫の庭で行われた。関東平野は猛暑だが、さすがに軽井沢の木陰は涼しく、気分がいい。
ここでもう1つ、えっと驚かされたのは、矢代朝子さんの発言で、
「星野嘉助は内村鑑三に大きな精神的感化を受けたのだが、その内村はグラント将軍ゆかりの家に暮らしていた」
という。

対談終了後、質問の時間がとられたので、解説文にあった山本鼎と、対談ででた内村鑑三の「グラント将軍ゆかり」の家は、同じものか、また現存しているか尋ねた。
星野佳路さんより年長で、やはり星野一族のお一人の星野裕一さんが聴衆席にいらして、助け船の回答をされた。
「それは同じもので、山本鼎、内村鑑三、荒井寛方の順に使った。今もその別荘はあり、使われている」

山本鼎のアトリエはしばらく謎のままだったのに、今日はどんどん思いがけないことが現れてくる。裕福な実業家が、気に入った画家に簡素なアトリエを建ててあげただけのことと思っていたが、アトリエに関してもいろんなドラマがありそうになってきた。
思ってもみなかった「三渓園」だの、「グラント将軍」だのでてきて面食らったが、大久保佐一は原富太郎が経営する原合名会社の富岡製糸場長だったから、原富太郎が所有する三渓園から建物を移築することのつながりは想像できる。
それにしても、横浜から移築するのは、当時の物資輸送の事情からすれば、軽井沢近辺で材料を調達して建てるのよりたいへんではなかったろうか。
三渓園から移築したいきさつはどいういうことだったろう?
その建築がグラント将軍とどういうゆかりがあったろう?
井上房一郎と山本鼎の出会いについては、その事情にまでさかのぼる必要はないのだが、ちょっと気になる。

対談の終了後にその別荘に行ってみた。
「山本鼎の星野温泉の別荘」は、僕にとってはかなり長い期間、幻の存在だった。所在地はわからないし、現存する可能性も低いと思っていた。今も建つ旧・山本鼎の別荘を前にして、深い感慨だった。
(今は別な方が使用されているので、場所や写真は省略)

画面左はしにある黒い物体は星野さんのリュックで、どらえもんのポケットみたいに、祖父・嘉助ゆかりのモノを取り出しながら、懐かしい話をされた。 木陰の対談風景

幼なじみどうしの対談は親密でテンポがよくて、とても楽しかった。
軽井沢高原文庫の館長は加賀乙彦氏だが、僕は学生時代に本名・小木貞孝教授の精神医学の講義を受けたことがある。僕の専攻は違うが、横須賀の精神病院でアルバイトしていて、たまたま大学に心理学科があり、小説作品にひかれていた小木先生が担当されていたので受講した。
対談が始まる前にお見かけしたのでごあいさつした。もうずいぶん久しぶりだけれど、目元と口元のやさしい笑顔が昔のままで、懐かしかった。
長い疑問が解けたり、懐かしい笑顔に会えたり、人生の中でも特別という気がするよい日になった。

■ 村の古本屋 追分コロニー
http://www11.plala.or.jp/colony/

追分方向に戻って、古本屋に寄った。
軽井沢の文学史に欠かせない油屋旅館のすぐ前にある。
新築だが、木を多用していて、少し時間がたてば、この地に昔からあったようになじんでしまいそう。
コーヒーで一休みし、いくつか本を買う。
古本屋の追分コロニー

晩ご飯用に、佐久ic間近のおぎのやで「峠の釜めし」を買って帰る。

(2010.9月 no.41)
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参考

  • 山本鼎の別荘について、今日わかったこと
    ・ 大久保佐一が三渓園から移築した建物を山本鼎に贈り、のち荒井寛方、内村鑑三が使った。
    ・ 別荘は現存し、別人が使っている。

  • ナゾが残ったこと
    1 三渓園の記録に、星野温泉に移築した建物の記録があるか?

    『日本の庭園美7 三渓園』 集英社 1989
    『日本名建築写真選集 第13巻 三渓園』伊藤ていじ他編 新潮社 1993
    『原善三郎と富太郎と三渓園』 勝浦吉雄 「立正大学地域研究センター年報 第19号(1995年)」 立正大学地域研究センター編 1996

    −いずれにも記載がない

    2 「グラント将軍ゆかりの洋館」とはどういうゆかりか
    『グラント将軍日本訪問記 (新異国叢書)』  ジョン・ラッセル・ヤング著 宮永孝訳 雄松堂書店 1983
    −グラント将軍は長崎に来航して過ごしたあと、横浜港経由で東京に向かった。三渓園に寄った記録はないし、時間的余裕もなかったと考えられる。
    ほかに関連しそうな建物、宿についても記載がない。

    『米国大統領グラント来遊一件』毛筆 15冊 外務省外交史料館
    →調べに行った状況については[松竹大谷図書館・外務省外交史料館]

    3 三渓園から洋館を移築したのは何年か?(資料により相違がある)

    『やまぼうし 星野温泉のあゆみ』 星野嘉助 (株)星野温泉 1972
    星野温泉年表(p104)には
    1920 三渓園より洋館移築
    1921 芸術自由教育講習会開催

    『井上房一郎論序説』熊倉浩靖「パトロンと芸術家」群馬県立近代美術館・高崎市立美術館 1998 (p16)
    「星野温泉にある井上家の別荘のすぐ近くに山本鼎のアトリエができたからである。房一郎21歳、山本鼎37歳のことであった。山本のアトリエは、当時原合名会社富岡製糸場長だった大久保佐一から贈られたものだが、その縁故で、母・戸ウの実家青木家縁続きの富岡町長古澤小三郎の肖像を山本が描いたことも、房一郎との縁を深めたものと見られる。」
    −井上房一郎は1898年5月生まれだから、1919年になる
    (巻末の年表にも、1919年の項に、このころ山本鼎の別荘ができ、知遇をえたとある)


    『夜あけの星 自由大学/自由画/農民美術を築いた人たち』 小崎軍司 造形社 1975 (p51)
    「山本は前年夏(=1918年)軽井沢の星野温泉で『温泉路』の仕上げに励んでいたとき知りあった群馬県富岡製糸場の大久保場長に気にいられ、星野に山荘を建ててもらった。」


    『夢多き先覚の画家−山本鼎評伝』 小崎軍司 信濃路 1979
    1917(t6) 富岡製糸場の場長の大久保佐一、山本鼎に、星野温泉地内にアトリエを建てて提供すると約束
    1918(t7) 星野温泉地内に贈られたアトリエで、妻(北原白秋の妹)と夏を過ごした


    『鼎と槐多』 窪島誠一郎 信濃毎日新聞社 1999
    (1917.10の記述のあとに)(p137)
    大久保からアトリエを建てたので使ってほしいと手紙がきた
    その年の秋からずっと星野温泉に逗留して制作


    * 1919年には別荘が移築され、山本鼎が使ったとするのが妥当に思える。
    1921年2月20-24日には、井上房一郎が主導して、高崎で自由画教育の展覧会と講演会が開催されている。
    1920年夏に知り合って、翌年早々に、今までなかった事業を立ち上げるのはほとんど不可能に思える。
  • 井上房一郎と山本鼎の別荘について
    [避暑地の出会い] 2010.09 no.41
    [松竹大谷図書館・外務省外交史料館] 2010.10 no.46
    [少林山達磨文庫(仏教図書館)] 2010.12 no.55
    [神奈川県立図書館・横浜市中央図書館] 2011.05 no.65
    [芳賀町総合情報館図書館] 2011.11 no.85
    [外務省外交史料館(2)] 2011.11 no.86
    [詩人・尾崎喜八の第38回蝋梅忌]2012.2 no.90
    [代官山蔦屋書店とヒルサイドライブラリー「目利きが語る"私の10冊"」平良敬一] 2012.2 no.93
  • 上記の調査結果をまとめたPDFファイル 511kb。
    [井上房一郎と山本鼎の出会い−軽井沢・星野温泉の別荘−]
  • 井上房一郎をめぐる旅の全般について
    [ 山を歩いて美術館へ ]