精華大学図書館-老舎のSFをめぐって


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1 発端-老舎のSF
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図書館が登場するSF小説を集めたホームページに行き着いたことがあって、中国の作家、老舎の『猫城記』(びょうじょうき)という作品がリストされていて驚いた。中国民衆のことをリアリズムで書いた作家だと思っていたから、SFがあるなんて意外だった。
でも桃源郷だとか、胡蝶の夢だとかの伝統がある国だから、そうした夢幻的世界のことならいかにもありそうだとも思えた。

読んでみようと図書館の蔵書状況を検索すると、埼玉県内の図書館を網羅した横断検索で調べても全滅。
古本市場を見ると、文庫本なのに1万円程度して、手がだせない。
あれこれ検索していると、表紙のイラスト写真が現れ、SFの装画を数多く手がけている角田純男が描いた不気味な猫人間がこちらを見つめている。とてもインパクトがあり、物覚えの悪い僕でもこの表紙は書店で見た覚えがあった。買っておくのだった。
県立図書館で、県外の図書館から取り寄せる手配をしてもらって、鳥取県立図書館の蔵書がはるばる届いた。

読んでみると、飛行機で火星に着くのだから、古典的夢幻世界ではなく、やはりSFだった。でもあとは科学的空想表現はほとんどなくて、猫の国に仮託した中国社会の風刺になる。

あわせて老舎について関わりがあることなど読み直したりしていると、いくつか記憶に思い違いがあったことに気がつき、忘れていたことを思い出し、今さら知ったことがあった。

→「図書館が出てくるSFリスト

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2 年表的整理
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関わりがある人と事項を整理しておくと次のとおり。

人物:
老舎(ろうしゃ 1898-1966)
巴金(ばきん 1904-2005)

井上房一郎(1898-1993)
井上靖(1907-1991)
市川誠(1912-1999)
水上勉(1919-2004)
開高健(1930-1989)
有吉佐和子(1931-1984)
中野美代子(1933- )

できごと:
(下線-著作の初発表年 *印-僕の中国旅行)
1931 『家』巴金
1932-33 『猫城記』老舎
1957 『茶館』老舎 
1965春 老舎、文学代表団の団長として来日 
1965 (上の老舎来日よりあと)小泉譲、人民大会堂で偶然老舎に会う。
1966-1976 文化大革命
1966.7.10 巴金、人民大会堂のベトナム人民の抗米闘争支援大会で老舎に会う。
1966.8.24 老舎の死
1967 『こおろぎの壺』水上勉
1975 『壺』井上靖 
1976 周恩来、毛沢東、死去。華国鋒、四人組を逮捕。
1977 鄧小平が復活。中国共産党が文革の終結宣言。
1977 『悪魔のいない文学-中国の小説と絵画』中野美代子
*1978.3月 日中友好の訪中団 精華大学図書館を訪れる。
1978年3月号文藝春秋 『玉、砕ける』開高健
1978.6月 老舎の名誉を回復する遺骨安置式
1979-80 『老舎同志を追慕する』巴金
1980 『猫城記』老舎 稲葉昭二訳 サンリオSF文庫 刊行される
1983.9月 『茶館』公演 北京人民芸術劇院 
1983.12月 『莫談国事-話劇「茶館」とその周囲』 小泉譲 
*1984 台湾旅行
*1989.5/27-30 香港旅行
1989.6.4 天安門事件
*2009 大連旅行

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3 老舎の来日についての日本人作家の文章
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老舎は文化大革命の初期の1966年に、殺害か自殺かで亡くなったが、その前年、文学代表団の団長として来日したことがある。桜の時期をはさんで、3月末から4月初めだった。
2人の日本人作家が、このとき老舎に会ったことを書いている。
水上勉の『こおろぎの壺』は、老舎の死の翌1967年に発表された。
井上靖の『壺』は1975年で、まだ文化大革命終息前であり、老舎の名誉回復前であった。

来日したあと、帰路、香港に寄ったことが、開高健の『玉、砕ける』に書かれている。文化大革命終息後で、老舎の名誉回復より前の、1978年3月の文藝春秋に掲載された。
僕が老舎を意識したのは、発表の順とは違って、開高健の『玉、砕ける』が最初だった。老舎の名は、中国文学史の知識としてあったくらいだが、具体的なイメージがわいたのは開高健の小説によってだった。

開高健『玉、砕ける』では、開高健が香港に寄ることがあるたび友人と会っていたことが書かれている。その友人は何をしている人か定かでないが、深い知識、教養があり、老舎が来日後、帰路に香港に寄った際には、新聞社から依頼されて、老舎が泊まるホテルでインタビューし、記事を書くことになった。
ところが会ってみると老舎の会話はどうもさえない、そこで、
 張は、老舎はもう作家として衰退しまったのではないかとさえ考えはじめた。ところがそのうちに老舎は田舎料理の話をはじめ、三時間にわたって滔々とよどみなく描写しつづけた。重慶か、成都か。どこかそのあたりの古い町には何百年と火を絶やしたことのない巨大な鉄釜があり、ネギ、白菜、芋、牛の頭、豚の足、何でもかでもかたっぱしからほうりこんでぐらぐらと煮たてる。客はそのまわりに群がって柄杓で汲みだし、椀に盛って食べ、料金は椀の数できめることになっている。ただそれだけのことを、老舎は、何を煮るか、どんな泡がたつか、汁はどんな味がするか、一人あたり何杯ぐらい食べられるものか、徹底的に、三時間にわたって、微細、生彩をきわめて語り、語り終ると部屋に消えた。
 ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモアですよ。すっかり堪能してホテルを出ましたね。家へ帰っても寝て忘れてしまうのが惜しくて、酒を飲みましたな。

その後、その友人は老舎の死を知ったとき、すっかり打ちのめされていたことが記される。
僕が勘違いしていたように思うのは、老舎が文化大革命で迫害され、思うようにものを書けなくなっているが、筆の力は衰えていないことを語ることで示した、というように受けとめていたのだった。来日した1965年の時点では、文化大革命は公式に始まっていないから、老舎は長旅で疲れていたけれども、語り出すと内に秘めたたくわえと表現力は並外れたものであることを示したとみるのがまっとうに思える。

ただ、その年のうちに小泉譲は人民大会堂で偶然老舎に会い、そのとき老舎が言った言葉をいぶかしんでいる。
「今、新しく農村をテーマにした作品を描くために農村に入る準備をしています。農民を知るためには農村に下放して直接農民に学ばねばなりません」
 私は老舎ほどの作家が、なぜこんなことを言うのだろうと思った。
田舎料理のことを3時間もぶっとおしに徹底して語り尽くすほどの人が、今さら「農民に学びに農村に入る」と言うのは、文革開始後に知識人が農村に行かされたことの先触れのようでもある。すでにこの頃には老舎に圧力がかかっていたようにも思える。

文化大革命が公式に始まった年、1966年7月には、巴金が人民大会堂のベトナム人民の抗米闘争支援大会で老舎に会った。巴金は老舎をしばらく見かけていなかったので安心し、老舎も「どうか友人諸君に伝えてほしい、私は元気だから御心配なく、とね」と語った。
この会話は、この時には老舎が攻撃されていることが前提になっている。
しかしこの機会が巴金には老舎の見おさめになって、1966年8月24日には老舎は亡くなる。
殺害されたか自殺か、はっきりしないが、それまでの経過もよくわからないところがある。文化大革命が発動されてから、老舎の死まではとても短い。巴金を含め、知識人は迫害され、死者も多数でたのだが、老舎は早い時期から攻撃の対象になっていたふうで、この点からも、前年1965年の来日や香港に寄ったときには、すでに何かしらの迫害にあっていたようにも考えられる。

3人の作家が老舎のことを書いたのは、老舎の死が、文化大革命の暴力を受けた末のふつうでない死に方だったことに影響されたからと考えられる。
水上勉は死の翌年、井上靖は9年後、開高健は12年後。書き、発表するまでにそれぞれに時間があった。

老舎の死が殺害か自殺か、有吉佐和子が直接にそのことについて書いている。老舎の死後、老舎の妻と娘に会った際に、老舎が死んだときの様子を尋ねる。2人は自殺ではなかったと明言する。それでも有吉はその言葉を受け入れるのではなく、「老舎の死は、永遠の謎になるだろう。」と結論する。2人には自殺と認めたくない意志がうかがわれるし、死体の扱いも不自然に感じられる。でも、死因を特定する確証は何もない。
どちらにしても文化大革命で1人の作家が悲惨な死を迎え、日本人作家に重い印象を残したことは確かだ。

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4 精華大学図書館
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僕は1978年3月に中国に行った。1977年に鄧小平が復活し、中国共産党が文化大革命の集結宣言した翌年、まだ中国にふつうの観光旅行ができない時期だった。日中友好の組織に関わっていた友人に紹介され、訪中団に加わった。
当時はビザが必要だったが、僕のパスポートには前に韓国に行った出入国記録があることが問題になって、ビザがおりるのが他の人より遅くなった。特別な政治活動歴はあるわけではないのだが、韓国では大統領・朴正煕が独裁していて、翌1979年には在任中に暗殺されることになるというような、政治的に熱い季節ではあった。ようやく受け取ったパスポートのビザには、スタンプではなく、大使だか書記官だかが墨で書いた署名があった。

もと総評の議長で、当時は日中友好国民運動連絡会議議長の市川誠団長が率いる大訪中団で、人民大会堂で会見があり、人民日報にその記事がのるような公式訪問だった。
滞在中の3月6日には、全国人民代表大会があった。午前中、開催を祝して祝賀行進があり、訪中団も旗を持って参加した。日本でいえば「国会が開会したので祝ってパレードする」というようなもので、不思議な気がするが、大勢の人たちにまじって天安門前の広い通りを行進していると、気分が高揚してくる。
昼になり、いったんホテルに戻って食事する。
午後の視察先に向かうために街にでると、あふれるほどだった人はすっかり消えていた。みんな職場や家庭の日常生活に戻ったのだろう。動員された祝賀というものにうっすら違和感があった。

全国人民代表大会の開催を祝うパレード たぶん精華大学
天安門前のこんなパレードに参加した 旅行時の写真の並びから、これがたぶん精華大学

その午後に行ったのが精華大学で、図書館も見せてもらった。
そこで巴金の本を1冊見つけた。開架部分か閉架部分か、記憶が確かではないが、通常の閲覧用棚ではなく、書庫だったような印象がある。巴金は文化大革命で迫害された作家という程度の知識はあったから、その著書が破棄などされずにあることに安堵した。同行の通信社記者だったか、中国語系出版社の編集者だったかにも示して、現代中国では焚書まではなかったことを話した覚えがある。(もちろん全面的にそうだったかは、この1冊だけではわからない。)
旅行中持ち歩いた手帳をとりだしてみると、「巴金 67の次が78の貸出」とメモしてある。貸出カードにそうあったということだろう。文化大革命中が空白で、みごとに政治状況をうつしている。借り手がなかったのか、借りられるところに置かれていなかったのかはわからない。
書名をメモしなかったが、僕でもわかる代表作で、『家』だったと思う。

精華大学は北京における文革派の拠点の一つだったから、その非を伝え、拠点だったところも正常に戻っていることを見せるために視察先に選ばれていたかと思う。文化大革命は悲惨な動きだったが、拠点の大学の図書館でも、攻撃対象だった作家の著作が残っていることに、いくらかのすくいを感じた。

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5 『茶館』サンシャイン劇場
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老舎のことなど思って古い資料を見たりしているうちに、いつか見た『茶館』という芝居は老舎が書いたものだったかと、突然思い至った。
1983年9月に、北京人民芸術劇院の公演が池袋のサンシャイン劇場であった。
芝居では、誰かがセリフをしゃべったり、大きく動いたりしていて、でも他の役者は脇や後ろで静かにきいているだけというときがしばしばある。『茶館』では、そんなとき、動きがない役者もピッタリ決まっていて、すごいと思った強い印象がある。
どういう訓練をしてどういう演技をするとそういうことが可能なのか、未だにわからない。
客席に岸田今日子がいて、帰りの人ごみのなかには手塚治虫がいたという、しょうもないことも覚えているのだが、肝心のストーリーなど記憶に残っていない。老舎のことをあれこれ思っていて、今ごろ、あれは老舎の『茶館』だったかと思い出した。
熊谷図書館のレファレンスで調べてもらうとそのとおりだった。
さらに当時の劇評も探してもらって、小泉譲が人民大会堂で老舎に会ったという文章にも出会ったのだった。

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6 巴金と井上房一郎
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精華大学で巴金の本を偶然見つけたが、その後も著作を読んだことはないので、今ごろになっていくつか目を通し、あわせて年譜などで生涯をたどっていて、僕にはちょっとした衝撃的なことがあった。
1904生まれの巴金は1927年留学先のパリで、サッコとヴァンゼッティのえん罪事件への抗議運動に参加し、翌年2人が処刑されるまで文通していたという。
僕は久しく高崎の実業家、井上房一郎と文化事業の関わりをたどっている。
1898年生まれの井上房一郎は、やはりパリに留学し、サッコとヴァンゼッティのえん罪事件への抗議デモに参加して逮捕されたことがある。
中国の作家と井上房一郎に、思いがけないところで接点があった。

→井上房一郎に関しては[山を歩いて美術館へ]

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7 その後の中国旅行
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1978年の中国旅行は僕の人生の転機になった。このとき知り合った人と友達になり、帰国後、その友人に誘われて一緒にでかけたときに知り合った女性と結婚した。中国旅行が縁の初めみたいなものだから、仲人を、中国旅行で僕らのグループの班長だった、大学でピアノを教える人にお願いした。
1984年にその妻と台湾に旅行し、この頃、子どもができた。
1989年には、小さな子どもを連れて3人で香港に旅行した。5月末のことで、中国では自由を求める運動が盛り上がり、緊張が増している時期だった。香港内でも自由化を支持するデモにあちこちで出会った。ある夜には、競馬場で反対集会があり、ジャッキー・チェンも参加するというので、ジャッキーのファンの妻は行きたそうにソワソワしていた。
そして帰国後まもなく6月4日に天安門事件となった。香港で自由を支持してデモしていた人たちの願いもつぶされてしまった。

それから20年後の2009年には、子どもが独立して、また妻と2人で、すっかり様子がかわった中国に行った。
大連の自然史博物館で、職員に案内されて、石やら骨やらの展示をひととおり見終えたあと、ちょっと様子が違う部屋に案内された。玉や高級木材を使った工芸品が並んでいる。文化大革命で紅衛兵が金持ちの家から文物を略奪したが、文革終結後も返還先が不明なものなのだという。背丈をこえるほどの戸棚におさまるものひとそろいまるごとで30万円ほどだったか。気に入ったのがあるなら、1点ごとでも買えると、すっかり商売熱心な商人の様子に変身した職員が勧める。
文化大革命のころには、資本主義に近づく「走資派」は罪悪とされた。今は同じ思想、同じ体制のまま、暮らしの様子がすっかり変質している。時間が移り変わるとこのようなこともあるのか。

老舎は文学の代表団として来日するほどに中国では認知された作家だった。毛沢東を賛美する詩もある。そんな作家でさえ、文化大革命のごく早い時期に犠牲になった。本人には不当に思えたろうし、僕も理不尽なことだと思っていた。
でもこの機会に老舎のSF『猫城記』を読んでみると、革命があっても権力が交替するだけで人は幸福にならない、という批判、風刺が貫かれている。開高健の文章のなかでも、老舎の語ることは「ヒリヒリするような辛辣と観察眼とユーモア」だったという。
老舎への迫害と死を肯定するのではないが、『猫城記』を読んで、老舎は紅衛兵の行きがかり的攻撃にあったように見えるが、本質的に現代中国にはそぐわない、ともには生きにくい存在だったということが納得できた思いになった。
→[大連図書館-旧植民地では図書館が重視されていたこと]

(2010.4月 no.29)
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参考:

  • 『猫城記』老舎 稲葉昭二訳 サンリオSF文庫 1980
  • 『こおろぎの壺』水上勉全集第10巻 中央公論社 1976
    『壺』 「桃李記(小説集)」所収 井上靖 新潮社 1974
    『ロマネ・コンティ・一九三五年 開高健・六つの短篇小説』
      開高健 文藝春秋 1978 (玉、砕ける」文藝春秋1978.3)
  • 『リラの花散る頃 (発見と冒険の中国文学)巴金短篇集』 巴金 山口守訳 JICC出版局 1991
    『巴金 探索集』石上韶訳 1983
    『34 老舎同志を追慕する』 「巴金 探索集』石上たかし(音+召) 筑摩書房 1983
    『パトロンと芸術家-井上房一郎の世界-』群馬県立近代美術館・高崎市美術館編・発行 1998
  • 『莫談国事-話劇「茶館」とその周囲』 小泉譲 「月刊社会党」日本社会党中央本部機関紙局 1983.12
  • 『悪魔のいない文学-中国の小説と絵画』 中野美代子 朝日選書 1977
  • 『有吉佐和子の中国レポート』 有吉佐和子 新潮社 1979