ヒアシンスハウス夢まつり−立原道造の図書館


第7回ヒアシンスハウス夢まつりin別所沼

□日時 2011.11.3(木)
□会場 さいたま市別所沼公園ヒアシンスハウス前 別所沼会館
□講演 司会/津村泰範
・「立原道造についての私見−その構築性」浅野言朗
・「立原道造の田園的建築観〜透視図に表現されたその建築観」種田元晴
□鼎談 浅野言朗+種田元晴+佐野哲史
□演奏など
・堀部宏二と今井伸治の屋外公開制作+泉邦宏のアルトサックスの演奏
・ダンスユニット「転々」の舞踏
・柳田明(トランペット)+柳田律子(ヴァイオリン)の演奏


立原道造(1914-1939)は、親しい友人がいる別所沼のほとりにヒアシンスハウスという小住居を建てたいとデッサンを残した。
立原を慕う人たちが実現に向けて動き出し、完成したのは、死後半世紀以上経た2004年だった。
それから毎年秋に「ヒアシンスハウス夢まつり」が開かれている。

講演会:

午後の講演の最初の浅野言朗さんは、立原と同じ、建築家で詩人。
・ 立原の詩は叙情的と思われているが、意識的な形式性をそなえて構築的である。
・ それは卒業設計「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」に見られるように距離感をもちつつ配列するという点で、詩と共通する。
持ち時間は短かったのだが、詳細な資料を用意され、説得力があった。

次の種田さんは、立原道造は透視図を基にして建築を構想したと見る。またそこから窺われることとして、東京大学建築科で立原の1学年下にいた丹下と比較して、丹下に都市志向、立原に田園志向を見る。

どちらも独自の視点があり、興味深く聴いた。

手描きの設計図:

会場には、立原が描いた大きな設計図面が2枚展示されていた。
立原の家族と親しかった方が所有していて、ふだんあまり公開される機会がない貴重なもの。印刷物=複製物でない「これ1点だけ」のものの魅惑にひかれた。
僕が立原道造に関心をもち、この集まりに前から参加してきた理由は、ブルーノ・タウトが東京大学でした講演を、その建築科にいた立原が聴いていたことによる。
そのブルーノ・タウトが描いた『生駒山嶺小都市計画案』を、東京大学工学・情報理工学図書館で閲覧したことがある。タウトの自筆の図面などあるとは思っていなかったので、初めてタウトの手の跡を見て、そのときもとても感慨が深かったことを思い出した。

展示されていた立原の図面は1936年の作で、図書館の設計図。
主要部は四角い箱型だが、微妙な曲線部をもつ塔が片方の端に付属している。
この図書館については設計を楽しんだ様子で、友人あての葉書にも簡単なスケッチを添えて伝えている。(『立原道造全集第4巻』にスケッチつきの葉書が複数掲載されている。)
閲覧室を描いた透視図は、柔らかな光が射しこむ様子が描かれ、淡い彩色も残っている。

図書館の時代:


この日に会場に展示されていた図書館の図面は1936年のものだった。
翌1937年、立原道造の建築学科の卒業設計は「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」だったが、その建築群の中にも図書館が含まれていた。
司会をされていた津村泰範さんの『続・昭和伏流建築史 立原道造から生田勉を軸として』によると、2年後、立原道造と親しかった生田勉の卒業設計も図書館であった。
この頃、建築家の関心が図書館に向かう理由が何かあったろうか?

東京市では、19館の市立図書館ができて一定の整備が進んだ段階の1923年に関東大震災が起き、12館を失い、他の館でも損害があった。1930年代にかけて再建築があり、地方でも図書館設置が進んでいて、図書館の新築への要請が社会的にあったといえそう。
一方で、戦争に向けた窮屈な動きもあり、図書館は「思想善導上必要ナル良書」の選定と奨励をするという方向性が示されるようになった時代でもあった。

ページ先頭へ
高原の理想都市:

繰り返しになるが、立原道造の建築学科の卒業設計は「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」だった(1937)。
僕には「高原のアーティストの居住区」あるいは「高原の理想都市」という発想がどこからきたかが気になる。
まったく立原道造の頭の中に独創的に思い浮かんだのか?
それとも何か機縁になる先例を見知っていたか?

ひとつ思い当たることとして、ブルーノ・タウトはアルプス建築ということを構想した建築家だった。
またタウトが来日して滞在中の1933年には、大阪電軌株式会社から委嘱されて奈良県の生駒山に新都市を作るための『生駒山嶺小都市計画案』を構想している。(計画は実現しなかった。)
タウトはその翌年の1934年に東京大学で連続講演をし、立原道造はそれを聴いている。
『立原道造全集第4巻』には、立原道造がその講演を聴いてまとめたノートが掲載されている。テキストとしてではなく、手書きのノートが写真版で載っている。左に小見出しや写真、右に詳細事項というふうに、ビジュアルに、把握しやすく、きれいに整理されている。浅野言朗さんが講演で指摘された「構築的な立原道造」ということが、このノートにも窺われてあらためて納得する。
しかし、残念ながら、ノートに記録された限りでは、アルプス建築も生駒山計画もふれられていない。僕の関心のもちようからすれば、立原道造のノートにタウトの山上都市計画があり、立原がそれに同意する立場のコメントでもあればピッタリ大正解なのだが。

もう1つ可能性としては、タウトが描いた設計図を東京大学で立原道造が直接見たかもしれないということがある。
その図面がなぜ今、東京大学の図書館にあるか、当の図書館でも不明という。
立原道造が在学中に東京大学にもたらされていたとすれば、立原道造がそれを見た可能性がゼロとはいえない。
とはいえ、関西の鉄道会社が依頼して作った図面が、翌年東京大学におさまるということは考えにくく、可能性はとても低い。

タウトからでないとするとどこからか?
日本でも江戸時代初期の光悦村の先例がある。
前掲書『続・昭和伏流建築史 立原道造から生田勉を軸として』には、芸術家村の先例として、ドイツのダルムシュタット(1899年開始)、柳宗悦の我孫子(1914年以後)、武者小路実篤の「新しき村」(1918年以後)などが挙げられている。

立原道造の卒業設計により近い時期では、竹久夢二が1930年に「榛名山美術研究所」を構想している。
1934年には「少林山建築工芸学校案」を、ブルーノ・タウトと、その滞日中の庇護者で高崎の実業家・井上房一郎とで作っている。
研究所や学校とはいえ、山中のアーティストの共同体という点で、立原の卒業制作と共通する志向がある。
(浅間山麓、榛名山、群馬県高崎郊外の少林山と、北関東から信州にかけての狭い範囲に集中しているのもおもしろい。)
しかし、夢二は、研究所建設のための資金を作ろうとして、1931年にアメリカと欧州に旅立つが、病を得て1933年帰国。1934年に夢が叶わず長野県富士見の療養所で寂しく亡くなっている。
ブルーノ・タウトと井上房一郎の「少林山建築工芸学校案」も実現しなかった。(戦後、井上房一郎は群馬県北部の山中に暮坂芸術区を手がけるが、完成して継続したとはいいがたい。)

立原道造の発想の起点は定かではないが、堀辰雄を訪れるなど軽井沢は親しい土地だから、別所沼にヒアシンスハウスを思い描いたように、軽井沢に芸術家コロニイを構想することは自然なことだったかもしれない。
それにしても、1930年代前半の時期に、山中に心地よい芸術家の共同体を作る計画がいくつか生まれていることは、時代の精神状況を反映しているように思う。
この頃、美術の領域では、シュールレアリスムの絵画が多く描かれていた。
まもなく時代は戦争に集中していき、夢や、幻想や、(図書館における精神の自由も)、居場所をなくしていった。
(このあとのこととして対比的に思い浮かぶのは、シュールレアリスムの絵を描いて拘留された福沢一郎は、釈放されたあと、ひとりで北関東の山中をさまよってスケッチにひたっていた。)

予期しないつながりの連続:

僕は埼玉県立近代美術館にいた頃、高崎の実業家・井上房一郎の文化への関わり方に興味を持った。
井上房一郎はナチスのドイツから逃れて来日したブルーノ・タウトの世話をした。
立原道造は、ブルーノ・タウトの講演を東京大学で聴いた。
立原道造が思い描いたヒアシンスハウスの活動について、埼玉県立近代美術館で一緒だった中村誠さんに教えられ、集まりに参加するようになった。
その後、僕は須田剋太研究会に参加した。須田剋太は1930−1942年にかけて、別所沼畔に画室を持ち、神保光太郎と親しんだ。
立原道造が、神保光太郎の住む別所沼にヒアシンスハウスを建てたいと思ってスケッチを描いたのは1937年から1938年にかけてで、須田剋太が近くに暮らした頃に重なる。

ヒアシンスハウスを実際に建てることを企てたメンバーのひとり坂本哲男さんは、僕がいた埼玉県立近代美術館の先輩にあたるが、もと群馬県立近代美術館にも在職したことがあり、井上房一郎とも縁が深かった。
今日の集まりで、須田剋太の研究会に加わったことを坂本哲男さんに話すと、最近の著書『異彩を放つ画家たち』に須田剋太のことも書いたと教えられた。
(1冊はあるはずと教えられた須原屋に集まりのあとに寄ってみたがないので、AMAZONで注文した。

まったく関連など思わずに関わり始めたことが、互いにつながりがあった−ということを、この頃、幾度も経験している。
上記した関連事項は、まだまだそこから枝が幾本も伸びていて、相関図を書かないと複雑な結びつきが把握できないほどに絡み合っている。
人生の不思議という気がする。
講演会と演奏を聴いたあとの懇親会は、いろいろな人が紹介され、楽しい集まりだった。立原道造が残したヒアシンスハウスのアイデアがこれほど多彩な人たちを集わせ、人生の幸福を感じさせていることも驚異的だと思う。

(2011.11 no.83)
ページ先頭へ

参考: