『大佛次郎から兄・野尻抱影へ 101通の手紙』展


■ 小泉淳作氏の告別式

2012年1月9日に亡くなられた小泉淳作さんの告別式が、1月18日に鎌倉の建長寺であった。
式場は重要文化財の法堂(はっとう)で、見上げると天井には小泉さんが描いた龍。
正面には小泉さんの写真が掲げられていて、ラフなカラーシャツを着てリラックスした感じの、いい写真だった。いかにも小泉さんらしい独特のはにかみがあって、カメラに向かってはっきり笑顔を見せているのではないが、表情に2%くらい笑みが含まれている。
天井の龍は、まん丸い目玉が小泉さんに似ていて、会場に座っていると小泉さんの4つの目玉に見おろされているかのようだった。

建長寺、小泉淳作氏の告別式

告別式は喪主(小泉さんの長女)、建長寺、建仁寺、東大寺の4者による式だった。
元NHKのアナウンサーの山根基世さんが司会をされた。
横河電気最高顧問が弔辞を述べる。
弔電が3通紹介された。
慶応大学仏文科以来の友、安岡章太郎氏からは、「小泉さようなら 僕もすぐ行くからな」という簡潔なもの。
元首相で絵と陶芸を教わっていた細川護煕氏は、わりと長い文章で、「もっと教えてもらいたいことがあった」という内容。
神奈川県知事からは、いかにもそれらしい公式弔電だった。
施主のほかに名を呼ばれて焼香されたのは、横河電気、日本経済新聞、六花亭など、小泉さんを支援された方たち。
美術関係では評論家の辻惟雄さん、元鎌倉の神奈川県立近代美術館長(今は世田谷美術館長)酒井忠康さん、聖武天皇と光明皇后の肖像を描くにあたって時代考証をされた猪熊兼勝京都橘大名誉教授など。

庭と月を眺めるために作られた得月楼に、お清めの席が用意がされていた。

建長寺、得月楼

建長寺のごあいさつでは、龍の天井画を描くことになったいきさつが紹介された、
境内を散歩していて画伯に会ったときに依頼したとのこと。
でも寺には経費がなくて、それでもできるならということで横河電機の支援を仰ぐことになる。
ひとことで絵を描く経費というが、文化財級の紙と墨を大量に使ううえ、完成後に天井にセットするのも足場を組んで大勢の作業員が関わるちょっとした工事になり、なまはんぱな額ではない。
龍の絵を描くために参考に京都へ行ったおり、建仁寺で食事をした。いきさつを話していたら建仁寺にも天井画がなく、こちらにもとなったという。

東大寺からは北河原公敬別当が来られていた。
東大寺では、聖武天皇と光明皇后の肖像のあと、本坊に襖絵も描かれた。
本坊はふだん使っている部屋なので、大事にするためにふだんは外しているが、今年も4月の2日間に公開するというお話しがあった。
その襖絵にハスの絵を描くのに、別当が栽培しているハスが役に立ったという。写真を用意して、ここにはこの写真の、というぐあいに使われたという。

喪主(長女)は、父の生涯を振り返る話をされた。
30代は生活のためにデザインの仕事をして、夜、絵を描くという生活だったという。交通事故で入院したことがあり、退院したときに「自分は絵をかくべき」と思い定めて昼も描くようになった。
40代にようやく目をかけてくれる人が現れた。
70代に建長寺と建仁寺の天井画を描いた。
80代に東大寺の襖絵を完成。
縁があって父はいい人生を送れたし、家族も恵まれたと感謝を述べられた。

小泉さんが昼も夜も通って食事をたよりにしていたという小町通りのバーのおかみ。
息子さんが小泉さんの娘さんと結婚された成城風月堂の経営者もごあいさつ。

一番星画廊の星忠伸さんは、厳しい自然のなかでの制作を支えてきたときの様子を話された。「中川一政と小泉淳作は私にとってかけがえのない人だった」と言われる。

六花亭の女性4人は、龍の図を北海道で描いたとき、小泉さんの世話をした人たち。
腰を屈めておびただしい数の桜の花びらを1枚1枚、それも何度も塗り重ねる作業をして、小泉さんは腰をいためて風呂に入れなくなっていたので、体を洗ってやるようなことまでされていた。
告別式とはいえ、画家としての小泉淳作は描くべきものを十分に達成したという思いが集まった人たちにほぼ共有されていて、あまり湿っぽい雰囲気はなかったのだが、身近で濃密に接していた六花亭の方たちは格別に思いが深かったようだ。
話し始めから涙目だったが、それでも明るい口調で思い出話をしているうち、ついこみあげてきて言葉に詰まっていた。
由緒ある寺に描く場を用意した寺も、多額の経費を負担した企業も立派だが、実際の制作を支えた人たちの苦労も忘れてはならないことと思う。

この日、式のあとにいただいたものは以下のとおり。
・小泉家からの「ご挨拶」状。
・喪主、東大寺、建仁寺、建長寺連名の「御礼」状。
・「散華」(光明皇后千二百五十年御遠忌記念=東大寺制作。香が入っていて、とてもよい香りがする)
・「建仁寺双龍図」(広げるととても大きな龍の天井画の複製画)
・「建長寺」(2010年刊行の冊子) 

■ 大佛次郎記念館『大佛次郎から兄・野尻抱影へ 101通の手紙』展

大船で横須賀線から根岸線に乗り換え、石川町で降りて、港の見える丘公園に行った。大佛次郎記念館で、鎌倉に住む大佛次郎が、世田谷・用賀に住む兄の野尻抱影にあてた手紙を展示する企画展を開催していた。

大佛次郎(本名野尻清彦1897-1973)と野尻抱影(本名野尻正英(まさふさ)1885-1977)は兄弟。
野尻抱影が12歳も年上で、しかも父が単身赴任で不在なため、大佛次郎にとっては父に代わる存在だった。世間で大作家として認められてからも兄への手紙は文章も文字も丁寧に書かれていた。

野尻抱影の娘さんの一人が鎌倉の元大佛次郎邸に暮らしている。
亡くなった小泉淳作さんの友人で、僕が初めてお会いしたのは長瀞のミュージアム一番星で小泉淳作さんを囲む会が開かれたときで、ご一緒に来られていてお目にかかった。
鎌倉の小泉さんのアトリエに一番星画廊の星忠伸さんと伺い、小泉さんの夜の散歩におつきあいして大佛次郎邸に寄り、その娘さんも加わって小町通り裏のバーに飲みに行ったこともある。
大佛次郎の手紙が記念館に寄贈されたいきさつについて、この展示にあわせて刊行された『おさらぎ選書 第19集』にこう説明されている。
 書簡は、野尻抱影のご遺族である堀内彦男氏(抱影の五女英子氏女婿)ご夫妻から大佛次郎生誕百年にあたる平成九年二月に、また、野尻政子氏(抱影の六女・大佛次郎養女)からも折にふれ当館での研究や展示に役立てるようにとご寄贈いただいた。

会場には、野尻抱影が使った天体望遠鏡も展示してあった。
口径4インチで、1938年製。
愛称は「ロング・トム」。
『宝島』にでてくる黄銅製の海賊砲の名前で、この冒険小説を円本に翻訳した印税で造ることができたことから名づけたという。

命をつぎこむようにして絵を描いた人、天体への憧れを抱き続けた人。鎌倉。横浜。奈良。京都。
帰る電車でいろんな思いがめぐった。

大佛次郎記念館は工事中 記念館は改修中で、クリストの作品のように梱包されていた。

(2012.1月 no.89)
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参考:

  • 『おさらぎ選書 第19集』大佛次郎記念館 2011