尾張本宮山・信貴山から博物館明治村


2-2  博物館明治村−帝国ホテル 





◇ 憧れの帝国ホテルでコロッケ


明治村は入鹿池の西側にそって、南北に長く、広い。入口は南よりにあり、帝国ホテルは北端にある。
昼ころ、帝国ホテルの前に着いた。
後ろは高い森で、SLの駅がある。
前は開けていて、いくつかの建造物を見渡す、広場の中心のような位置を占めている。
なだらかに傾斜する芝の斜面に、白いカサのついたテーブルと椅子が置かれている。
脇の小屋が売店になっていて、生ビール500円と、男爵コロッケ150円を買う。コロッケは明治の頃のレシピによるというもので、注文を受けてから、その場で揚げる。
椅子にかけて簡単なランチにする。
コロッケはパリパリとした歯ざわりで、中は熱い。
それに冷たいビール。
晴れているが、風があり、蒸し暑くはなく、快適。
ときおり突風が吹き、パンフレットが飛ばされて、芝生に落ちたのを拾いにいく。
いつか見に行きたいと思っていたところにようやく来られて、しかもこの絶妙な天候、ひと休みしながら口にするのに適度な食べ物、飲み物。
至福のとき。
珍しくもう1杯ビールをいこうか−という誘惑にかられたが、今夜、名古屋名物の手羽先を楽しみながらにとっておこうと、ひとまずおしまいにする。


ここ数年、井上房一郎という高崎の工務店経営者・高崎の文化建設者の跡を追っていて、ここにきた。
因果ばなしめいてしまうが−
井上は建築家アントニン・レーモンドと親交があり、高崎の群馬音楽センターや、今、高崎哲学堂として使われている井上旧邸は、レーモンドが設計したもの。
レーモンドは、フランク・ロイド・ライトが帝国ホテル建設にあたって、声をかけ、日本に連れてきた。
ライトは、帝国ホテル支配人・林愛作から設計を依頼された。ライトは日本美術に関心があり、浮世絵のコレクターでもあり、欧米で日本美術の取引を扱っていた山中商会の林と接点があった。
林愛作は、フェノロサが旅先のロンドンで急逝したときに、日本への遺骨の移葬を託されるほどに親しかった。
ライトが最初に師事した建築家ジョゼフ・ライマン・シルスビーもまた浮世絵のコレクターであり、またシルスビーはフェノロサのいとこでもあって、フェノロサとライトを結びつけた可能性もある。

いろいろなつながりがあって、東京にライト設計の帝国ホテルが現れたことになる。そしてレーモンドが日本に残って、高崎ほかに今も残る建築が作られ、そんなことを追いかけてきた僕が、レーモンドが日本に来るきっかけとなった帝国ホテル(の残された一部)を見にきている。


◇ 帝国ホテル以後

ここまでの人の動きも興味深いのだが、その後の、その人たちの歴史もそれぞれで、思いを誘う。

ライトは、帝国ホテルの設計を受けたころは、あまり仕事がない、低調な時期だったのだが、帝国ホテル以後、後半生の旺盛な設計活動期に入る。
ライトが帝国ホテルが実際にたちあがるとき、1919年に来日したのは、3度目の旅だったが、それぞれ別な女性を伴っていた。
このとき伴ったのはミリアム・ノエル。タリアセンで暮らしていた妻子を殺されたライトが失意のときに知り合った
設計・監理にあたって、帝国ホテル別館の一室に暮らしたのだが、ホテルの建設同様、ノエルとの感情生活も波乱つづきで、のちに離婚した。
1966年にライト館解体の方針が発表されると反対運動が起き、翌1967年に来日して保存を訴えたのは、その後、結婚した夫人、オルギヴァンナだった。
帝国ホテルは解体され、明治村に一部保存され、帝国ホテルと同時期に設計した旧山邑邸は、1974年に国の重要文化財に指定されている。

レーモンドは日本に住みつき、しばらくはライトのデザインの影響から脱っしきれなくて苦しんだが、日本に活動基盤を作っていった。
井上房一郎はレーモンドの建築を信頼し、自邸はレーモンドの設計に基づいたもので、今は高崎哲学堂として使われている。

林愛作は、工費がふくらみ、工期が遅れ、経営者とライトの間で窮地におちいり、帝国ホテル支配人を辞す。その後の人生は、山中商会や、新帝国ホテル建設に向けて活動していたころの輝きを取り戻すことがなかった。
林は、帝国ホテルの仕事を、当初は引き受ける気はなかったのだが、初代理事長・渋沢栄一の説得などを受けて、やむをえず引き受けていた。
受けた以上はホテルのありように高い理念をもち、ライトが日本で貴重な建築遺産を残すきっかけも作ったのに、報われないこととなった。
帝国ホテルの支配人をしていたころの林の写真は、短いひげをはやし、「ニューヨークの社交界に受けいれられた唯一の日本人」といわれたのが素直に納得されるような上品でダンディな様子をしている。手先が、アングルの絵に描かれる女性のように繊細でやさしい。こういう人がいい人生のままを全うできなかったことを惜しいと思う。

DOCOMOMO(ドコモモ)という近代建築を検証・保存する会の日本支部が、今も使われている重要な近代建築100を選んだが、ここで関係する人たちでは、次のものが選ばれている。

自由学園明日館/フランク・ロイド・ライト 1921年
山邑太左衛門邸/フランク・ロイド・ライト 1924年
東京女子大学/アントニン・レーモンド 1924年〜1938年
聖パウロ教会/アントニン・レーモンド 1934年
群馬音楽センター/アントニン・レーモンド 1961年
軽井沢新スタジオ/アントニン・レーモンド 1962年
南山大学/アントニン・レーモンド 1964年
秩父セメント第2工場/谷口吉郎+日建設計/1956年(第1期) 1958年(第2期)
日向別邸/ブルーノ・タウト+吉田鉄郎 1936年


◇ 大建築の細部に到るまでライト

帝国ホテルは、今は森を背にして、斜面の上部にある。
水平方向の広がりが際立っている。
もとは地上3階で、一部が6階まであったが、皇居に配慮して低く抑えたといわれる。
のちにアントニン・レーモンドが、高崎に群馬音楽センターを建てたとき、やはり高崎城に配慮し、構造上の苦心を重ねて低く抑えたのは、ライトの例を参考にしたのかもしれない。


外で帝国ホテルを眺めながら軽いランチをおえて、ようやく中に向かう。
池の淵をめぐり、「表象的の壺」を眺めながら、正面玄関からロビーに入る。
左にフロント。
今は右に売店が置かれ、左右の階段を上がると、上の階に喫茶室があり、池やその先の建物群を眺めながらティー・タイムを過ごせるようにできている。

大谷石の表情が、いちばん目についた。
遠い国の古代遺跡ような、異様と感じられる意匠が、すみずみまでこらしてある。
ライトは、これを都心の真ん中、国策迎賓用ホテルとして作ったのだった。

 東京広しといえども、日本人であれ、西洋人であれ、建築を理解したつもりで建った建物、あるいは、建築と名のつく代物、どちらでもよい、その1つだって真に日本に対する愛を表しているといい得る建物があるか。
 彼等は、何れも、まずい手本を、まずく真似た、まずいまがいものである。
(『新帝国ホテルと建築家の使命』フランク・ロイド・ライト 「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」明石信道から引用)

ライトは、日本文化を好み、敬意をもっていた。
ライトとしてもそれまでにない大型建築であるうえ、仕事に恵まれない時期が続いていて、このホテルを成功させて起死回生をはかろうという意欲もあったろう。
そうした全力投球がこうしたデザインになるということに、もう何度も写真で見たし、ようやく実物(の一部にしても)も見たのだが、やはりとまどいというか、すんなりなるほどと感じるようなものではなかった。

この時期のライトについて、レーモンドは、

ライトとともに働いた人は、誰も自分からデザインすることは許されなかった。末端の詳細にいたるまで、ライトの仕事であり、誰のものでもなかった。
ライトはデザインの想像力を無限にもち、窓枠も、家具も、木や石の彫刻も、絨毯もカーテンも、あらゆるもののデザインが枯れることなく泉のように、彼の手からほとばしりでた。
(「フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル」明石信道)

という。


ホテル内は、写真などで想像していたのと違って、重苦しい、暗い感じがなかったのが意外だった。
解体前の帝国ホテルを実測調査した明石信道は、帝国ホテルの「造形と装飾」に関する41項目というのをまとめているが、そのなかに、

15 空間相互の換気・採光・流通性を考えてか、各バルコニー、各隅とも「穴」か「スリット」か「透かし」によって、暗さと溜りから感ずる不快さを消滅させる設計であった。(同上)

とある。
大きな建築になると、目の届かないところ、何にもならない無駄なところが生じてしまいがちだが、ライトは、この大きな建築の、あらゆる細部にまで目配りしているようだった。


◇ ライトとタウト

ライトの帝国ホテルが建ってから10年後、ブルーノ・タウトが訪れている。タウトもまた、日本文化を敬愛する一方、西洋から入った文化の影響で日本各地の街の様子が乱れていくのを、「いかもの(キッチュ)」と批判した。
そのタウトの帝国ホテル評は厳しいものだった。

ホテルのなかは頭を押えつけられるような感じだ(この建築の外観もそうだが)。芸術的にはいかものだ。どこもかしこも大谷石ばかり。そのうえ到るところに凹凸があって埃の溜り場になっている(まったく非日本的だ)、仰々しい寺院気分−これが『芸術』なのだろうか。さまざまな階段はさながら迷路である、空間の使用はこのうえもなく非経済的だ。ライトに深い失望を感じる。
(『日本 タウトの日記 1933年』篠田英雄訳 岩波書店 1975)

しかし、2人とも、日本文化・日本建築を、讃美といっていいほど、高く評価していた。それも、ただ眺めて美しいというような評価ではなく、自身の建築理念に基づいてよいものと考えている。

まずライト。

 全く奇妙なことに、私は、この昔の日本の住まいが、私自身が作り上げようとしていた近代的な標準化の完全な例であることを知った。タタミは、きれいにするために外すことができ、すべて3フィートに6フィートである。家全体の形と大きさは、ともにこのタタミによって決まる。引き戸の間仕切りは、すべてタタミを単位とする基準線の上に来る。そして日本人は誰も、9帖、16帖、36帖の家と場合に応じて言っている。
 天井と屋根を支える柱は単純な四角の磨いた木であり、すべて、タタミの交点に立つ。
(『自伝−ある芸術の形成』フランク・ロイド・ライト 樋口清訳 中央公論美術出版 1988)

次にタウト。

 「このような建築を現代の概念で表現するとしたら、なんといえるでしょう」、私は同行の友人に訊ねた。そして結局これは機能的建築であり、あるいはまた合目的な建築ともいい得る、ということに一致した。全体の結構は、どの方面から見ても、そのいっさいの部分をあげて融通無碍に、部分および全体の実現すべき目的にかなっている。(中略)
 私はまえまえから、現代建築の発展はその最も重要な基礎を、機能に求めねばならぬと主張してきた。(中略)私は、桂離宮のこの旧い建築において、私が現代建築の重要な基礎として確立した理論が、間然するところなく実証されていることを知った。
(『日本美の再発見』ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波新書 1939)

ほかにも、日本に着いたときの風景の描写、日本文化への愛惜、明治以後に西洋文化にまどわされていることへの指摘など、2人が残した文章には、驚くほど共通点が多い。もともと自然を好む性向も似通っている。
それにもかかわらず、1人が全力を注いでデザインした設計が古代遺跡ふう、寺院ふうになり、もう1人はそれを拒否する。そこに建築家の個性が現れるということだろうか。




◇ 帝国ホテルのプール

東京で営業中でも見ることはできなかったのだが、プールが気になる。
図面を見ると、地階のど真ん中にある。
完成前から浸水したという記録があり、また明石の調査図面でも「水泳プール(未完)」となっている。
1923年、完成披露の直前に関東大震災が起きる。
「大正大震災震害及火害之研究」では、地下室水泳場の周囲の鉄筋コンクリート柱が挫折若しくは倒壊したとある。
浸水などで工事が遅れていたうえに、地震で修復が困難な被害をうけてしまったので、プールとしては一度も使われなかったということのようだ。ワインなどの貯蔵庫になっていたという。
帝国ホテル地下のプール転用ワイン庫が、どんな眺めのものだったのか、見てみたかった。

帝国ホテルの敷地は、江戸時代初期には日比谷入り江という海で、のち埋め立てられた。地盤は強固ではない。
ライトは、逆に深い杭を打たないで、船をつなぐような構造にした。小部分の建築物をジョイントで結び、地震が起きても大破壊がないようにする。
関東大震災では、いちおう有効だったわけだが、部分ごとに沈んでいくのは避けられない。
賓客を迎えるホテルとしては、実態は厳しいものだったようだ。
不同沈下、亀裂、雨漏り、床の傾斜、ドアや窓の開閉困難、廊下が波打つ。
当初設置した排気ファンは騒音が大きく、使用中止し、換気が不十分になる。 
熱源が電気処理で、パワー不足のため、客の到着の十数時間前にヒーターを入れなくてはならない。予約なしの客には間にあわない。
大谷石も、もともともろい石材だから、ひんぱんに修復・交換が必要になる。 
1966年、ライト館の解体と新館建設を発表すると、解体に反対する運動が起きた。ホテルとしては、不具合をあまりはっきりともいいにくいし、苦労したようだ。


◇ 消滅した帝国ホテル

ライト館がそっくり残ってホテルとしての営業を続けるということはありえないことではあったが、きれいに消滅しすぎたのではないかとも思う。
明治村に玄関部分を移築するだけでなく、元の地に一室でも残すとか、宴会場を復元するとか、なにかしら保存しておくべきだったのではないか。
あるいは博物館などに、家具や装飾を部分的にでも保存する手だてもあったのではないか。
営業的には、パーツの販売だけでも相当なビジネスができたかもしれないと思う。

都内では高級ホテルが次々に完成している。
帝国ホテルも、準国策迎賓施設としての位置づけ、ライト設計という正統性をなくしてしまって、数ある高級ホテルのなかの1つになってしまった。
ライトの設計した建築が一部でも残っていれば、差別化の有力な手がかりになったはずで、今になって、部屋やバーなどにライトのデザインを模している。
ライトが見たら、まがいものというか、よく自分のデザインを忘れずにいてくれるというか。

僕は残念ながら日比谷公園の前にあった帝国ホテルに行ったことがない。
ようやく実物の中に入ってはみたが、やはり元の場所にあるのと決定的に違う気がする。池も含めて正面玄関付近が移築されているが、背後にすべてをそなえていての入口だと思う。
どこかしら、薄い、つくりものめいた印象がある。実際に使われ、多くの国際的賓客が出入りしていた歴史のある建築のように感じられない。
「明治村の帝国ホテル」の眺めになじんでしまっているかという気さえする。
あらためて、人が使っていることで建築は生きているのだと思う。




◇ 参考

『自伝−ある芸術の形成』フランク・ロイド・ライト 樋口清訳 中央公論美術出版 1988
『自伝−ある芸術の展開』フランク・ロイド・ライト 樋口清訳 中央公論美術出版 2000
『GAグローバル・アーキテクチュアNo.53 <フランク・ロイド・ライト>帝国ホテル1915−22』 企画・撮影:二川幸夫 文:フランク・ロイド・ライト A.D.A.EDITA Tokyo Co.,Ltd 1980
『知られざるフランク・ロイド・ライト エドガー・ターフェル 谷川正己・谷川睦子訳 鹿島出版会 1992
『「帝国ホテル ライト館の幻影 孤高の建築家 遠藤新の生涯』 遠藤陶 廣済堂 1997
『帝国ホテル・ライト館の謎 天才建築家と日本人たち』 山口由美 集英社新書 2000
『「帝国ホテル」から見た現代史』 犬丸一郎 東京新聞出版局 2002
『フランク・ロイド・ライトの帝国ホテル』文:明石信道 写真:村井修 建築資料研究社 2004
『帝国ホテル百年の歩み』帝国ホテル 1990
『帝国ホテル百年史』帝国ホテル 1990
『漱石まちをゆく 建築家になろうとした作家』 若山滋 彰国社 2002
『NHK知るを楽しむ なんでも好奇心 漱石が歩いた東京』 日本放送出版協会 2005
『建築に生きる』谷口吉郎 日本経済新聞社 1974
『たてもの野外博物館探検』 広岡祐 JTB 2000

新宿エルタワー TOTO ス−パ−スペ−スプラザ『日本に残るライトの建築展 1994
セゾン美術館『ブル−ノ・タウト 1880−1938』 1994
伊勢丹美術館『フランク・ロイド・ライトと日本展』 1997
帝国ホテル『ライト 帝国ホテル図面展』 2001


◇ 略年表
1867 フランク・ロイド・ライト、アメリカ、ウィスコンシン州に生まれる
夏目漱石、幸田露伴、伊藤忠太もこの年に生まれた
1872 帝国ホテルの敷地はものと阿部播磨守屋敷。明治維新後、持ち主が移り、この年には、博覧会事務局に所属
1875 博覧会事務局が山下博物館を開設
1881 博物館が上野に移転。敷地の南側が鹿鳴館、北側の一部が、その後、帝国ホテルになる。
1883 鹿鳴館開業(コンドル設計)
1887 外務大臣井上馨、渋沢栄一らが外国の賓客のためのホテル建設に動く。理事長・渋沢栄一。
1890 帝国ホテル開業(コンドルの教え子、渡辺譲設計)
1893 シカゴでコロンビア万国博覧会開催。平等院鳳凰堂を模した日本館からライトは強い印象を受ける。
1894 帝国ホテルは地震で大きな被害を受ける。このころ営業不振が続く。
1897 フェノロサ来日、帝国ホテルに宿泊。
1899 日比谷公園造園のため、帝国ホテル前の旧江戸城外堀の埋め立て始まる。
1905 ライト、最初の夫人と最初の来日。日光、箱根など観光。浮世絵収集。 (金谷ホテル、富士屋ホテルのレジスターブックに記録)
1906 本館裏手に別館を新築
ライト、シカゴ美術館で浮世絵の展覧会を開催
1908 フェノロサ、旅先のロンドンで狭心症のため急逝。生前の希望に沿って遺骨を日本に移葬するため、山中商会ニューヨーク支店林愛作が奔走する。
1909 6/6渋沢栄一、帝国ホテル取締役会長を辞任。大倉喜八郎が後任。
7/16渋沢栄一 関西の実業家、松本重太郎あて、山中商会の林愛作を帝国ホテル支配人に就任するよう説得を依頼する書簡を送る
8/18林愛作、帝国ホテル支配人に着任
1911 林愛作、下田菊太郎に帝国ホテルの設計依頼。のち立ち消えになる。
シカゴの実業家・浮世絵収集家のフレデリック・W・グッキン、ライトに帝国ホテルの設計を勧める
1913 ライト、ママー・ボースウィック・チェニーと2度目の来日。(チェニーはライトに設計を依頼した施主の妻で、一時欧州の逃れていたこともある。)帝国ホテルの顧問建築家としての仕事をえようとしての来日とされる。
1914 タリアセンで、ライトの妻子が殺され、住居に放火される
1915 林愛作、渡米。(1915.12/11-1916.4/14)
(東京ステーションホテル開業)
1916 3/17林愛作、ライトと契約
正式契約前に、設計はすでに相当進んでいた。
アントニン・レーモンド夫妻、タリアセンに滞在。
ライト、来日(12月)。
1918 ライト、山邑邸を設計(現・淀川製鋼所迎賓館。芦屋市。)
1919 新ホテル建設起工(9月)。別館全焼(12月)。
12/31ライトとミリアム・ノエル、アントニン・レーモンド夫妻、来日。レーモンドは1921年2月ころまでライトの助手として帝国ホテルに関わる。
1920 愛知県知多郡西浦町樽水に煉瓦工場借り受ける。
 同年? 大谷石の採掘のため、栃木県河内郡城山村(宇都宮駅の北西約10km)の田下の越路と呼ばれる地の山林1町2反(約11,00u)を買い入れる。量的には十分だったが、最良質のものではなかった。
ライトの不調を案じて、母アンナ来日。それを怒ってミリアム・ノエルは帰国。
1921 2/8レーモンド、帝国ホテルの仕事を去る
1922 工費超過、工事遅延。
旧本館全焼(4月)。
4/20林愛作、支配人を辞任。
新支配人は山口正造。(山口は日光金谷ホテルの次男。1907年、箱根富士屋ホテルの長女・孝子の婿養子となったが、このときの媒酌人が渋沢栄一。箱根ホテル開業にあたり帝国ホテルとの兼務が困難になり、犬丸徹三に引き継ぐ。)
ライト帰国(7月)。
1923 犬丸徹三、支配人に就任(4月)。(犬丸は、長春ヤマトホテルなどにいたあと、ニューヨークのウォルドルフ・アストリアにいたとき、スカウトされた。)
9/1落成披露準備中に関東大震災発生
ライトはロサンゼルスにいて、9/13付け、大倉喜七郎からホテルが無事だったと知らせる電報を受け取る。
ライト、ミリアム・ノエルと結婚。
1924 ライト、ミリアム・ノエルと別居。(1927離婚成立)
1928 ライト、最後の妻、オルギヴァンナ・ラゾヴィッチ・ヒンデンバーグと結婚。
1933 上高地帝国ホテル開業
1934 帝国ホテル、燕岳(つばくろだけ)に燕山荘(えんざんそう)を開業
1936 ライト、カウフマン邸(落水荘)
1945 帝国ホテル、空襲を受け、一部を焼失(5/24)。
連合軍高官用宿舎として接収される。
1951 2/10林愛作、死去。6/29遠藤新、死去。
1952 帝国ホテル、自由営業再開
1959 4/9ライト、死去。死後、グッゲンハイム美術館竣工。
1966 帝国ホテル、新館建設構想を決定。ライト館解体に反対運動。
1967 10月、ライト夫人(オルギヴァンナ)、来日し、帝国ホテルに泊まる。保存を訴え、講演会で講演、剣木文部大臣、美濃部東京都知事と会見。 
11/15ライト館客室全面閉鎖。佐藤首相、訪米中のワシントンで会見し、保存に努力すると声明。
11/22帝国ホテルは、明治村スポンサー・名古屋鉄道に明治村への移築を依頼。明治村は確答を避ける。
12/1解体工事開始
12/26明治村谷口吉郎館長、首相と面談し、政府の協力があれば部分移築を受け入れると語る。
12/28明治村の建築委員会、帝国ホテルロビー及び前庭部分の移築受け入れを決定。
1968 1/27明治村の理事会、帝国ホテルの移築受け入れを正式決定。
2/15明治村への部材移送始まる。
2/25帝国ホテル・ライト館取り壊し完了。
1970 帝国ホテル、新本館竣工・開業
1977 上高地帝国ホテル改築竣工
1983 帝国ホテル、インペリアルタワー竣工開業


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