尾張本宮山・信貴山から博物館明治村


2-3  博物館明治村−夏目漱石の旧居ほか 



■ 森鴎外・夏目漱石住宅《旧東京都旧跡》

旧所在地 / 東京都文京区千駄木町
建設年代 / 明治20年(1887)頃

明治20年頃医学博士中島襄吉の新居として建てられた。
明治23年には森鴎外が借家して一年余りを過した。
明治36年から39年までは、夏目漱石が借りて住んでいて、たまたま明治の文豪2人が暮らした、由緒ある家となった。
ほかに有名人(?)では、漱石の猫も暮らしていて、「吾輩は猫である」は、ここで書かれた。
縁側には猫の置物が座布団に置かれて、庭を眺めて日向ぼっこをしている。


漱石は建築家になろうとも考えたくらいの人だった。

此方(こちら)が変人でも是非やって貰はなけらばならない仕事さへして居れば、自然と人が頭を下げて頼みに来るに違いない。さうすれば飯の喰外(くひはぐ)れはないから安心だと云ふのが、建築科を択んだ1つの理由。それと元来僕は美術的なことが好であるから、実用と共に建築を美術的にして見ようと思ったのが、もう1つの理由であった。 (『落第』夏目漱石 1906)

結局、文学を選ぶのだが、作家になってからも建築(家)と縁が多かった。
漱石の妻、鏡子の妹の時子は、建築家鈴木禎次と結婚している。鈴木は名古屋高等工業の建築学科の教授となった人。

明治期に日本近代建築を支えた辰野金吾の子、フランス文学者の辰野隆とも親交があった。胃病で、いけないことを知りながら甘いもの好きだった漱石は、当時、築地にあった精養軒で開かれた隆の結婚式に参列した。好物の南京豆を食べ過ぎて家に帰ってから体調を崩し、それがきっかけとなって1916年12月に亡くなった。
当然、結婚式には辰野金吾も出席していたはずだが、辰野金吾設計でいちばん有名な東京駅は、その2年前の1914年に世に現れていた。

(余談だけれど、東京・雑司ヶ谷霊園竹久夢二の墓参りに行ったことがある。夢二は、一時期スターだったのに、晩年は結核を病み、長野県の富士見高原療養所で失意のうちにひっそり亡くなった。墓も簡素なものだった。
たまたま近くに漱石の墓があった。反権威的精神の人だと思っていたので、大きくて立派に構えた墓の様子に意外な感じがしたものだった。)

「竹久夢二を埋む」 漱石と妻・鏡子の墓

 →[入笠山から (旧) 富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム



■ 本郷喜之床

旧所在地 / 東京都文京区本郷
建設年代 / 明治末年(1910)頃

2階は石川啄木(1886−1912)が1909年(明治42年)から東京ではじめて家族生活をした新居で、ここから東京朝日新聞に校正係として勤めていた。
1910年には、処女歌集「一握の砂」を出版している。
1911年、小石川に転居し、翌1912年には亡くなった。浅草等光寺の葬儀には漱石も参列した。

散髪屋というのは、もとは髪結いで、畳に座って、散髪や調髪をしていたのだろう。いつから散髪屋のスタイルが定着したのかわからないが、木の床、大きな鏡、ほかでは見慣れないデザインの椅子など、ハイカラな存在だったろうと思う。


■ 小泉八雲避暑の家

旧所在地 / 静岡県焼津市城之腰
建設年代 / 明治初年(1868)

作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン1850−1904)はギリシア生まれ。
父の国アイルランドで教育を受けたあと、1890年に来日した。
松江、熊本を経て、東京に移ると、夏を焼津で過ごすようになり、この家を宿とした。
当時は魚屋で、内部の片側に通り土間を通すなど、当時の町屋の典型的な形をしている。
明治村では駄菓子屋として営業中で、奥の部屋では、小泉八雲にちなんで妖怪が暮らしている。

弥山・出雲大社から手銭記念館・松江北堀美術館
+菊竹清訓・高松伸その他の島根のミュージアム



■ 幸田露伴住宅「蝸牛庵」

旧所在地 / 東京都墨田区東向島
建設年代 / 明治初年(1868)代

作家、幸田露伴(1867−1947)の住居。
幾度も住まいを変えたので、「蝸牛庵」(かぎゅうあん。かぎゅうは、カタツムリのこと。)といった。
その娘で、のちに物書きになる幸田文(こうだあや1904−1990)はこの家で生まれた。
幸田文は僕にとって気になる文章を書く人で、その意味で、ここであの人が生まれたのか−という感慨があった。
この玄関から出て行き、この玄関に帰ってきた...

→[大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ 2003 越後の夏/越後の冬



■ 西郷從道邸《重要文化財》

旧所在地 / 東京都目黒区上目黒
建設年代 / 明治10年(1877)代
設計/レスカス(?)

木造総二階建。西郷隆盛の弟西郷從道が東京上目黒の「西郷山」と呼ばれた屋敷内に建てたもの。
ガイドツアーの時間だったので、案内してもらった。
もと見晴らしのいい所にあったことを考慮して移築場所が選ばたとのことで、2階のバルコニーからの眺めが開けていて、気持ちがいい。
住まいは隣に別にあり、こちらはまったくの接客用。来客が泊まる部屋もあるのだが、鏡台に洗面器がおかれている。これで顔を洗う。
つまりトイレがないので、おまるも置いてあった。
長時間滞在するにはちょっとつらそう。

階段はそっくりフランスから輸入したものだという。優雅に現れたり、姿を消したり、長いドレスを来て上下するのがサマになるようにデザインされていて、こういうのを・・ド・ローブというのだそうだ。木製の手すりをひねるように成形する技術がなかったらしい。

ピアノの譜面台にローソクが2本立つようにできている。譜面がよく見えるように。でも、ロウが垂れそう。実際にロウを立て、火をつけて演奏したものだろうか?




■ 大井牛肉店

旧所在地 / 神戸市生田区元町
建設年代 / 明治20年(1887)頃

牛肉って文明開化っぽい。
2階の座敷で営業中なのだが、4000円と5000円の牛鍋のみで、一人旅で来て気楽にランチするには、やや高い。
(右の写真は、注文したのではなくて、サンプル。)

■ 日本赤十字社中央病院病棟

旧所在地 / 東京都渋谷区広尾
建設年代 / 明治23年(1890)
設計:片山東熊

この頃の入院患者用病室を見ると、簡素なベッドが広い間隔を置いて並んでいて、ゆったりしている。現代の(差額ベッドでない)病室は、なんだかせせこましい。
「衛生博覧会」と題して、医療器具などの展示もしてある。医療とか、病気とか、人体標本とかが、人の興味をひき、いわば「見せ物」として成り立つのは何故だろう?

カーレンベルク山からウィーンのミュージアムと建築/愚者の塔 病理・解剖学博物館


■ 金沢監獄中央看守所・監房

旧所在地 / 石川県金沢市小立野
建設年代 / 明治40年(1907)

中央に監視人が立ち、そこから廊下が多方向に放射状に延びていれば、効率的に収容者を見張ることができる−という「パノプティコン」といわれる近代監獄のモデルにしたがって作られている。
中央に八角形の看守所があり、そこから五つの舎房が放射状に配されている。(移築されているのは全てではない。)
独居房に入って犯罪者の境遇も想像してみることもできる。
全国にいくつか建築を集めた博物館があるが、多くは文化財的建築を対象にしていて、監獄を移築している目配りがさすがだと思う。
ほかに前橋刑務所も移築されている。



■ 半田東湯

旧所在地 / 愛知県半田市亀崎町
建設年代 / 明治末年(1910)頃

知多半島の港町亀崎にあった、間口3間のこじんまりとした湯屋。
今は足湯が楽しめるようにできていた。
長く歩き回ってきたあとなので、靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、椅子に座って足先を湯につけると、足が深呼吸する思いがして、心地よい。


■ 聖ヨハネ教会堂《重要文化財》

旧所在地 / 京都市下京区河原町通五條
建設年代 / 明治40年(1907)
設計/ J.M.ガーディナー

明治末期には京都・河原町通りにこんな教会があったのか、と驚かされる。
総体の基盤部分と、6角形の筒状部分と、とんがり屋根の部分の大きさ(高さ)の比例関係がなんだか非現実的建物のようでおもしろい。
赤茶色のれんがと、白いしっくいの対比もあざやか。
実際に結婚式をあげられるというのがすごい。
園内に3つの教会があり、どれもOKだという。建物は使ってこそ。


■ 大明寺聖パウロ教会堂

旧所在地 / 長崎県西彼杵郡伊王島町
建設年代 / 明治12年(1879)

これはすごいビックリ建築だった。
外観は地元農家風。
中に入るとゴシック様式。
明治に入り、キリシタン禁制の時代が終わったのに、こういうつくりをした発想に驚かされる。
正面祭壇の脇に、マリア像が闇に浮かび上がるような具合に作られている。建物の裏手に回ると、そのマリア像を設置するために、壁面がふくらんでいるのだった。できあがった建築内に像を置いたのではなく、はじめからこの像をこのように置くために作ってある。
ビックリ建築といっても、簡単な思いつきでできてはいない。
長崎の少し先の島にあった教会堂だが、信仰の歴史、建築の歴史とも深い。




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