4月第3週 幸田露伴が歩いた象ケ鼻は扇の要


岩波文庫の『山の旅 明治・大正篇』を読んでいたら、幸田露伴の『知々夫紀行』という文章がおさめられていた。
露伴は友人と1898年(明治31年)8月に、熊谷から秩父に向かう途中で寄居を通った。
露伴は、荒川下流の隅田川に近い寺島村に住んでいたので、上流の荒川に親しみをもっていて、寄居あたりの記述はかなり詳しい。

寄居の街の中心から少し行くと、川の音が聞こえてくる。そちらに向かってみると、小さい家があり、絶壁に張り出して展望席をしつらえてある。

こはおもしろしと走り寄りて見下せば、川は開きたる扇の二ツの親骨のように右より来りて折れて左に去り、我が立つところの真下の川原は、扇の蟹眼釘(かにめ)にも喩えつべし。ところの名を問えば象が鼻という。まことにその名空(むな)しからで、流れの下にあたりて長々と川中へ突き出でたる巌のさま、彼の普賢菩薩(ふげんぼさつ)の乗りもののおもかげに似たる(後略)

扇の「蟹眼釘」という言葉は、初めて目にしたが、扇の骨の根元を貫いて留めている部材が飛びだして見えている黒いポチポチを、うまい表現をするものだと思う。
要(かなめ)と蟹眼釘(かにめ)で、しゃれてもいるのだろうか。
荒川が右にほぼ90度に折れるところに、ちょうど象の鼻のように見える岩があって、特異な地形で、展望席が作られていたようだ。
このあたりの流れは昭和に入ると玉淀という景勝の地として知られるようになり、鮎釣り場にもなった。釣り好きの露伴だから、もし鮎が釣れるとなれば、試さずにはいられないところだったろう。

曇った日の午後、出かけてみた。寄居中心街より上流、国道140号と旧道が合流するあたりの南になる。
今も、なるほど川が大きく折れている眺めにかわりはなく、雄大に開けている。
でも、展望席の茶店はなくて、「扇の蟹眼釘」のあたりは草原になっている。
「象ケ鼻」は、露伴が歩いてから10年ほどして、1910年(明治43年)の洪水で削られて、みるからに象ケ鼻の形が損なわれたという。
(荒川は氾濫を繰り返す荒れた川だったが、1907年(明治40年)と1910年(同43年)の洪水はとくに被害が大きく、これにより荒川放水路の開削が決定された。)

ここからすぐ上流には、1964年(昭和39年)に玉淀ダムができて、ふだんの水量は少なくなっている。かつてはもっと流れの幅が広く、深く、ゆったりと流れていたのだろう。

象ヶ鼻遠景 象ヶ鼻対岸
左に見えている岩が、象の鼻に見立てられた大きな岩 対岸から見ると、水辺の岩が象の足みたい

川原から上がったところには公園が作られていて、「明治三七八年戦役記念碑」「英霊碑」「忠魂碑」などが建っている。
露伴の碑はない。

秩父を旅して帰り、『知々夫紀行』はこう結ばれている。

日なお高きに東京へ着き、我家のほとりに帰りつけば、秩父より流るる隅田川の水笑ましげに我が影を涵(ひた)せり。

秩父への旅は、ありきたりの数日の行楽ではなく、毎日暮らす隅田川畔の上流を訪れる、親しみの感情のこもったもので、十分に満ち足りた思いで帰ったことが伺われる。

参考:


『知々夫紀行』幸田露伴 「山の旅 明治・大正篇」近藤信行編 岩波文庫 2003 所収