8月第4週 氷屋捜し


幸田露伴が寄居を抜けて秩父に旅をしたのは、1898年(明治31年)年の真夏の8月のことだった。
島田屋に泊まったあと、長善寺の鐘楼門(しゅろうもん)門を眺めたりしてから寄居に入った。(7月第2週)
熊谷をでてからひなびた道を歩いてきたが、寄居はにぎわった街で店も多い。そこでひと休みして氷を注文する。

熊谷より大宮郷に至る道の中にて第一の賑わしきところなりとぞ。さればにや氷売る店など涼しげによろずを取りなして都めかしたるもあり。とある店に入り、氷に喉(のんど)の渇(かわき)を癒(いや)して、この氷いずくより来るぞと問えば、荒川にて作るなりという。隅田川の水といえば黄ばみ濁りて清からぬものと思い馴(な)れたれど、水上にて水晶のようなる氷をさえ出すかと今更の如くに、源の汚れたる川も少く、生れだちより悪き人の鮮(すくな)かるべきを思う。

          ◇          ◇

露伴はどこで氷を飲んだろうか。
寄居に住む人に話をきくと、今でも2つの氷屋さんがあるという。

■ 大黒屋
(寄居町桜沢482-1 tel.048-581-0121 )

島田屋、長善寺のほうから歩いてきて、先にあるのが大黒屋。秩父に向かう街道が東武東上線の踏切を渡るすぐ手前にある。(もちろん鉄道は露伴が歩いた当時はなかった。)
若い店主に伺うと、明治のころから営業しているから、露伴が寄った可能性はあるが、確定のしようはないという。宿なら宿帳に記録が残ることもあるが、当時、有名人が寄ったからといって写真をとったり、色紙にサインをもらったりということもなかったろうから、確定する証拠はない。

店の外観が大胆でおもしろい。
これまでも何度も前を通り過ぎていたときには気づかなかったが、あらためて店の前の空き地から店の全体を眺めると、どっしりと独特な構えをしている。
わりと新しいのだが、明治以来の由緒を伝えて、古い店の屋根の三角形を張りつけてある。
「大黒屋」の看板も厚い木の1枚板。
右下に見える白と黒のなまこ壁は、そう見せた塗装だけだが、白を基調にがっしりとした外観が、楼閣の入口のようだ。

大黒屋の外観
大黒屋の拡大写真

今はところてんなども扱っている。
のぼりがでていて、のれんもかかっているが、氷もところてんも別の飲食店などに卸すだけで、ここでは口にできない。
鋳物の胴体の横に手回しハンドルがついた懐かしい削り機が何台も並んでいて、祭や縁日のときに貸し出しの需要があるという。

■ 新井冷蔵庫
(寄居町寄居839-2 tel.048-581-0068 )

街道を少し先に進み、東上線の踏切を渡ると、新井冷蔵庫がある。
歩いて1分ほどの近い距離に2つの同業の店がある。
こちらも明治時代から営業している歴史のある店だった。

ひと昔前の商家ふうの建物で、間に作業用の通路を挟んで、蔵がある。
蔵はつたにおおわれて、古びた歴史を感じさせる。
今なら冷凍庫の温度管理はコンピュータ仕掛けでしてそうだけど、蔵の内外を貫く金属管には、いかにも経験がものをいう手作業が必要そうなバルブやメータが組みこまれている。
氷が主力の時期から、肉屋さんの食肉も預かっていた時期があり、その後、肉屋さんでも自前の冷蔵庫をもつようになり、今は蔵の全部は使っていないという。

新井冷蔵庫の蔵
新井冷蔵庫の店舗

軒先に、水色の波の上に大きな赤い「氷」の字を記した氷旗がさがっているが、やはりここで飲めるわけではない。
しばらく前には、夏にはかき氷をだしていたというが、今は身内の子ども達が遊びにきたときにつくるくらいだという。
削り機を貸し出しているのも大黒屋と同じ。

新井冷蔵庫は、今は秩父に向かう街道からわずかに内に移っているが、露伴が歩いた当時は、どちらの店も街道沿いにあった。
それで、どちらの店にも露伴が寄った可能性はある。
店の奥に眠っている古い物の中から、露伴に関わる何かしらの証拠物件が現れるというようなことでも起きないかぎり、今ではどちらとも特定はできないし、今はない別の店だった可能性もゼロではない。

          ◇          ◇

荒川で氷をとれたろうか。

露伴は、濁った隅田川の水に比べて、上流の荒川では「水晶のようなる氷」をだすと喜んでいるのだが、流れる川で氷を作れるものだろうか。
いい天然氷は空気を含まないもので、長い時間をかけ、手間をかけて作るものらしい。奥まった池のようなところで、凍った面の上に少しずつ水を加えていき、落ち葉などを取り除いて作っていく様子をテレビで見たことがある。
川の凍っているのは、冬のフランクフルトで見たことがある。街の中心部を流れる、かなりの川幅の川の、かなりの部分が凍っていたのだが、でこぼこ、ごつごつ、しわしわだった。

大黒屋でも新井冷蔵庫でも、明治の頃の確かなことはわからない。聞いて知っている範囲では、大正か、昭和の初めころには、軽井沢から氷を運んでいたという。
鉄道で寄居駅まで運び、馬車で店まで運んで、蔵に保管した。
「荒川にて作るなり」というのは、池状の製氷場があって、そこに加えていく水に荒川の水を使っていたということかもしれない。

          ◇          ◇

露伴が飲んだ氷はどんなものだったろうか?

露伴の文章は、
  氷に喉(のんど)の渇(かわき)を癒(いや)して、
というだけで、氷がどのようなものだったかはわからない。
今どきだとかき氷が思い浮かぶのだが、当時もそうだろうか。

枕草子には削った氷がでてくる。
あてなるもの。…削り氷(けづりひ)にあまずら入れて、あたらしき金椀(かなまり)に入れたる。
(39段)
削った氷に、葛から煎じてつくった甘い汁をかけて、新しい金属製の器に入れたのは上品でいい。

1882年(明治15年)には博物学者のエドワード・S・モースが、かき氷を食べたことを記している。
名古屋城を見て、夜、水路から四日市に入る。
石の傾斜面に上陸した我々は、何等かの祭礼が行われつつあることを知った。河岸には氷を売る小さな小舎がけが立ち並び、我々も床几(しょうぎ)に坐って数回氷を飲んだ。氷は鉋(かんな)で削るので、鉋はひっくりかえしに固定してある。その鉋の上で一塊の氷を前後に動かすと、下にある皿が、いわば鉋屑ともいう可きものを受け、それに砂糖少量を加え、粉茶で香をつけるのだが、非常に滋味ある小菓で、我々が子供の時雪でつくった、アイスクリームに近いものである。
モースは日本各地を旅して、関心をもったものにはスケッチを残しているが、この場面についてはスケッチはない。
露伴が寄居で氷を飲んだのは、それから16年後のこと。
その間には、氷を削る機械が作られてはいたようだが、広く使われるようになるのはもっとあとのことらしい。露伴が飲んだのが、枕草子のころからの削った氷なのか、近代の、機械でかいた氷なのかも、寄居の2つの店の奥から明治のころの削り機でもでてこない限り確定できない。

*[8月第1週]に熊谷の石上寺でパフォーマンスのイベントがあったことを記したが、モースは1879(明治12)年に、その境内にある熊谷乙中教院というところでダーウィンの進化論をテーマに講演している。埼玉県内で外国人の講演会が開催されたのはこれが初めてという。

          ◇          ◇

露伴の歩いた跡をたどっている。
氷のことでは、暑いけれど夏に探しにいけば、どこかでその氷にありつけるかもしれないという楽しみがあった。でも、氷屋さんが今も2軒あるのに、今は店先で氷をかいて売っているわけではない。
そもそも寄居町内では、夏になっても祭のとき以外、かき氷を飲ませてくれる店がないのだった。
「露伴の氷」なんて名づけて、味わいのある氷を楽しめるようになるといいと思う。

露伴一行は、島田屋に泊まり、長善寺を通り[7月第2週]、寄居に入って氷を飲み、象ケ鼻の景勝を眺めてから[4月第3週]、秩父に向かった。

参考:

  • 『知々夫紀行』 幸田露伴 「山の旅 明治・大正篇」近藤信行編 岩波文庫 2003
  • 『日本その日その日 3』 E.S.モース 石川欣一訳 平凡社東洋文庫179 1971
  • 『埼玉の明治百年(上)』 毎日新聞社浦和支局編 1966
  • 『建築家捜し』 磯崎新 岩波現代文庫 2005 (内容は関係ないのだけど、タイトルをまねました...)