9月第3週 池波正太郎は浅草・待乳山の生まれ


寄居の京亭をとても気に入って文章に残した作家、池波正太郎浅草の待乳山(まつちやま)の近くで、1923年(大正12)1月に生まれた。
その年の9月には関東大震災が起きた。
池波一家は浦和に転居し、池波少年が6歳の年に都内に戻るまで暮らすこととなった。
浅草付近は大震災の被害が大きかったところで、防災のために待乳山は周囲をコンクリートの擁壁で固められてしまった。
(またこの震災では、秋ごとの荒川の出水にめげずに寺島村に暮らしていた幸田露伴一家も、井戸の水が濁って飲めなくなったので、ついに小石川に転居した。)

池波正太郎の生地は聖天町61番地というところで、その町名は待乳山聖天宮があることによる。
待乳山は、山とはいっても、浅草付近の平坦な地形のなかで、わずかにとびでた小さなこぶにすぎない。広い平地が広がる土地では、少しでも高いところは山と名づけているのを、信濃川の河口付近でも見たことがある。
待乳山は、下からはランドマークとして目立つし、上がれば展望が開けるから、有名な景勝地になっていた。
北斎広重が版画にし、永井荷風幸田露伴の文章にもでてくる。
落語では『崇徳院』という話があって、どちらも恋の経験のない美男・美女が上野の清水様(きよみずさま)で出会って重い恋の病に落ちる。
「清水堂は高台で眺めがいい、下に弁天様の池、湯島の天神に神田明神、左の方はってえと、聖天の森の待乳山」と語られる。(もちろん落語のことだからこれはあくまでオハナシで、上方落語ではこうづさん(高津神社のこと。仁徳天皇をまつる)が出会いの舞台になり、その境内の「絵馬堂の茶店から西を見はったら、道頓堀がひとめで見渡せま!」となる。)

縄文時代には、気候が暖かで、今よりずっと内陸部まで海が侵入していた。中沢新一の『アースダイバー』は、そのころの東京の地形が今の文化のありように及んでいることを見通した刺激的な視点の書で、待乳山も説明されている。

浅草にはそういう坂がいっさい無いのである。少し高くなっているのは、待乳山のあたりだけで、ここはもともと真土山と書いたぐらいだから、ほんものの土が盛り上がっていたところで、あとはほとんどが東京湾の海底に沈んでいた土地なのだ。遠浅の海だったようだ。

池波正太郎は絵をかくことを好んだ人で、建物がたてこんで待乳山の存在感が薄れたあとのことだが、隅田川からの待乳山の眺めを描いている。
1990年に亡くなり、雷門から西へ歩いて数分のところにある西浅草の西光寺に葬られている。




■ 待乳山聖天
(東京都台東区浅草7-4-1 tel.03-3674-2030 )
http://www.tctv.ne.jp/matuti/

浅草は何度か歩いているけれど、待乳山には行ったことがなかったので、でかけてみた。
出光美術館で、宗達・光琳・抱一の風神雷神図屏風がそろって展示されるという、たぶんこのあと生きてるうちには2度とないだろうという展覧会が開かれているのを見てから、浅草に回った。
雷門から浅草寺への雑踏を抜けて、さらに北に行くと、待乳山聖天宮にでた。
息が切れるほどでもない短い石段を上がると、本堂がある。

大根と巾着がシンボルで、健康と繁栄を意味している。あちこちにその図像が表現されているが、本堂に入ると、正面に生の大根がたくさん供えてあって、なんだか異様でおかしい。 待乳山聖天の大根

正月7日には、「聖天さまの大根まつり」があって、煮た大根がふるまわれるというから、来年の初詣には来てみようかと思う。
見上げると堅山南風(1887-1980年)の天井画があり、中央に龍、脇に蓮の花を撒く天女。
本堂の出入り口が自動ドアなのに驚いたが、いかにも現世的ごりやく重視の、浅草的ノリのようで、あまり違和感はない。
境内=山頂をひとまわりすると、確かに周囲の家やビルより高い地面にあることがわかる。それにしても、すぐ隣にあるビルの3階程度の高さしかない。
縁起によれば、推古3年(西暦595年)9月20日、浅草寺観世音ご出現の先ぶれとして一夜のうちに出現した霊山であるという。山なのに、できた日付がわかっている!

待乳山を下って、さらに北に行ってみると、今戸橋の柱があった。
永井荷風がこの柱を背景に写っている写真が印象に残っていたが、ここだったのかと、ようやく現地がわかった。
かつて山谷堀があって、少し先で隅田川に流れ込んでいた。さかのぼると遊郭・吉原に通じていた。今は堀は埋められ、橋は撤去され、細長い公園になっていた。
荒川の岸辺にでて、雷門方向に戻る。
今戸橋






● 並木藪蕎麦
(東京都台東区雷門2-11-9 tel.03-3841-1340 )

池波正太郎に『散歩のとき何か食べたくなって』というそそられるタイトルの本があり、そのなかからこの蕎麦屋に行ってみた。
雷門まで戻って、さらに雷門通りを南に渡ると、ビルにはさまれて小さな店があった。
池波正太郎は、浅草が欠かせない散歩コースになっているが、その理由は生まれ故郷というだけではないという。
並木藪蕎麦の店先

 六区の中の商店街に面した通りのほとんどが、自動車の通行をゆるしていないからである。(中略)だから、のんびりと商店のウインドウを見ながら歩けるし、たとえば、むかしの学生さんがよくしていたように、本を読みながらでも道を歩ける町なのだ。
 初冬の鴨なんばんが出はじめるころの、平日の午後の浅草へ行き、ちょっと客足の途絶えた時間の、並木の[藪]の入れ込みへすわって、ゆっくりと酒をのむ気分はたまらなくよい。
 その店構え、飾り気がなくて清潔な店内、むかしの東京をしのばせる蕎麦道具。(中略)そして、女中たちの接待もまた、ここは、むかしの東京を偲ばせるに足る。

1977年に出版された本の文章だが、雰囲気は今もかわらないようだった。
4人掛けのテーブルに相席になり、向かいの中年夫婦は穏やかでやさしそうな人たちで感じがいい。あとから来て左に座った男性は、まず酒を1本注文し、飲み終わるころにざるを追加していた。これが古い蕎麦屋の楽しみ方みたいなのだが、どうも約束どおりみたいなことをするのは気恥ずかしい。
で、ざる1枚だけ。裏返しのざる(凸面が上になる)に盛られてくる。やわらか、しっとりめのそば、つゆは手頃なこさ。少なめだが、まずまずの量があり、家に帰って夕飯にするまでのつなぎにはちょうどいいくらいだった。

          ◇          ◇

■ 歓喜院聖天堂
(埼玉県熊谷市妻沼1627 tel.048-588-1644 )
http://www.ksky.ne.jp/~shohden/index.html

待乳山聖天宮の大根を見て、8月はじめに行った妻沼の聖天様を思い出した。
旧・妻沼町は、利根川に沿っているが、2005年10月に熊谷市と合併した結果、熊谷は利根川と荒川の2つの大きな川に接する街になった。
聖天堂本殿は江戸時代の建築で、国の重要文化財に指定されている。
でも250年ほどのうちに傷みが生じ、色があせ、近くに住む人にも、うすぼんやりした、たいしたことはない建物だと思われている。
今は5年計画の修理中で、先月、改修中の現場を見せてもらえる機会があった。
材の使い方、職人の技のこめようなど、たいへんなもので、完成すれば極彩色の日光東照宮みたいに鮮やかな姿が現れるはずだ。
権現造り(ごんげんづくり)といって、拝殿−中殿−奥殿と連なっている、そのいちばん深部の奥殿に入る扉の上の壁に大根の絵があって、こんな重要な位置に大根なんだ!と驚いたものだった。

工事中の妻沼聖天本殿 騎崎屋のかき氷
左が工事中の本殿。覆いがとれるときには東照宮が現れる... リンゴのシロップ漬け入り「雪くま」

● 騎崎屋(きざきや)
(埼玉県熊谷市妻沼1513 tel.048-588-1665 )

その熊谷市は、夏、気温がとても高い。
東京都心のヒートアイランド現象によって暖められた熱と、フェーン現象によって暖められた秩父山地からの熱風が、熊谷あたりでぶつかるためと考えられている。(両方向の熱気が、荒川をつたってさかのぼり、かけおりている?)
熊谷では2005年から、それを逆手にとって、「あついぞ!熊谷」を打ち出した事業を実施している。開き直って、暑いほど盛り上がるのだという発想の転換で、その事業の1つに、かき氷「雪くま」があり、市内の10ほどの店で、それぞれ特徴をだしたかき氷を作っている。
妻沼の聖天様の境内にある茶店ふう「騎崎屋」では、リンゴのシロップ漬けをいれたのがあり、工事現場を見た帰りに、暑いのでためしてみた。
かき氷なんて久しぶり。
甘酸っぱいようなリンゴのブロックがいくつも入っていて、おいしかった。
値段が高いのが難かと思ったが(この店のうどんより高い)、落語ふうにオチをつければ、気温が高いのを盛り上げてるのだから、「高いほどいい」。

参考:

  • 『完本 池波正太郎大成』 別巻 講談社 2001
  • 『散歩のとき何か食べたくなって』 池波正太郎 新潮文庫 1981
  • 『崇徳院』 桂三木助 NHKサービスセンター 1990 CD
  • 『崇徳院』 桂春蝶 NHKサービスセンター 2002 CD
  • 『アースダイバー』 中沢新一 講談社 2005
  • 『永井荷風』 新潮日本文学アルバム23 新潮社 1985
  • [2009年1月第2週 待乳山大根まつり]