11月第2週
天竜川の人−本田宗一郎と秋野不矩と藤森照信 

ホンダ(本田技研工業株式会社)が荒川の町、寄居に新工場建設を予定している。
その創業者の本田宗一郎は、天竜川に沿った光明村(今は浜松市天竜地区)に生まれている。
画家の秋野不矩も、同じ天竜の生まれで、その美術館にいつか行きたいと思っていたのだが、ちょうど本田宗一郎の生誕100年記念の催しがある機会にあわせて出かけることにした。
天竜川は諏訪湖から遠州灘まで213km。浜松市天竜地区で平野部にでるから、荒川の寄居町と同じ地形条件にある。
秋野不矩美術館を設計した藤森照信は、天竜川の源流付近、諏訪生まれの人。

 本田宗一郎 1906 静岡県磐田郡光明村(現・浜松市)-1991 東京
 秋野不矩  1908 静岡県磐田郡二俣町(現:浜松市)-2001 京都
 藤森照信  1946 長野県諏訪-

■ 天竜川河口
天竜川の河口は、西が浜松市、東が磐田市になる。
地図を見ると、磐田側はほぼ直線なのだが、浜松側は鳥のくちばしのような形がせりだして、いったん川の流れを妨げるような具合になっている。地図ではそこに何も表示がなくて、いったいどうなってるんだろうと思っていた。
浜松駅前で借りたレンタカーでくちばしの根元についた。堤防の上が車道になっていて、見下ろすと砂地が先に細くなりながらのびていた。なるほどそれで「砂嘴」という言葉があるのかと納得した。
車を置いて先端まで歩いた。レンタカーで砂地に入って立ち往生するのをためらったのだが、4駆らしい車が後ろから追い越して行き、向こうからやって来もして、湿った砂に幾筋もの跡を残していく。
雨まじりで、風が強く、うっすら寒い。こんな日にこんなところに何をしに来てる人たちか不思議だったが、釣り竿を砂浜に立てているのが見えてきた。
くちばしの上(=北、川側)を歩いていって、先端近くでくちばしの下(南=海側)が見える地点にでると、サーファーがいた。
川からは海にゆったりと水が流れだし、海からは砂浜に波が打ちつけている。

有料の遠州大橋を100円払って対岸の磐田にも行ってみた。
水門と、風力発電の羽根と、灯台がある。
浜松側の砂嘴の先端に波が寄せて、砂浜をなめるようにして白い波頭をみせて折り返していく。
天竜川が遠州灘に流れこむ 磐田側からの風景。中央右の細い線が浜松側の砂嘴。水は手前が天竜川、向こうが太平洋。

● 大國屋
浜松市田町324-16 tel.053-452-0859

市街に戻ってレンタカーを返し、浜松駅より北に歩いていって、1914年創業という老舗の鰻屋さんに昼を食べに入った。
ひとくち食べたとき、「ウナギ!」という刺激がこなくて、物足りない感じがしたのだが、食べるほどにあっさりした味になじんできた。タレに過剰な甘さがなくて、鰻重にしてはご飯の量が多めだけれど、さっぱりと食べてしまった。

■ 浜松市茶室松韻亭
浜松市鹿谷町11-4 tel.053-473-4310

浜松城の公園に茶室が作られている。
広間のある大きな棟と、萩庵という小さな茶室がある。
設計は谷口吉郎。
荒川河口に行くと、谷口吉生設計の葛西臨海水族園と展望レストハウスがあるが、天竜川の河口では、そのおとうさんの名建築を見ることができる。
とはいうものの、この日、茶室は茶会で使用中で、見学できなかった。残念。
今度はきちんと予約して茶会を開いてしまおう。
かな。

浜松市茶室松韻亭のアプローチ 水が流れる庭もいいけれど、このアプローチもすてきだった。左の生け垣の向こう側から、右折−右折−左折して左の敷石にでて、カラッポの空間を眺めながら歩いてくる。(この写真は、広間と庭を背にしてとっている。)

● 尾張屋旅館
浜松市二俣町二俣1291 tel. 0539-25-4158


遠州鉄道の「遠州病院前」から乗車。終点の西鹿島から、すぐ二俣方面に向かうバスがあり、「秋野不矩美術館入口」停留所で降りると、近くに今夜泊まる予定の宿があった。
尾張屋旅館の玄関

江戸時代末期、1857年に開業した長い歴史のある宿。
2005年9月に商店街に火事があり、この宿も一部が焼けて宿としての存続を悩んだともいうが、改修して、2006年6月に再開した。
秋野不矩美術館の設計・建築にあたっては、秋野不矩や藤森照信もこの宿に泊まっていたという。
翌日が本田宗一郎の生誕100年記念事業で、それを主催する団体の1つ、ポンポンクラブのメンバーが団体で泊まっていて、盛況だった。

夕飯は紙に包んで焼いた鮎と野菜の味噌焼きに、地元の酒「花の舞」の生酒。
遠い距離をやってきて、いい酒といい料理で気持ちがふわっとしてくる。
しみじみとした開放感にひたる。
このお酒は秋野不矩も好んだものだという。

■ 夜の天竜二俣を散歩する

表通りには間口の狭い商店が並んでいる。路地を入っていくと小さな住宅が続いているなかにポツポツと居酒屋があって灯りがついている。静かだが、ときおり犬を散歩させる人に出会う。
夜の8時ころ、居酒屋のほかにも表通りにはまだ開いている店がいくつかあった。
宿の向かいの仏具屋。
レコードとCDの店。もう大規模なチェーン店きりになったのかと思っていたが、まだ個人商店がある。
本屋に入ってみるとエロ本がない。小さな本屋はそういう系統の本や雑誌でかろうじてもっているところが多いと思っていたので、これも意外だった。
パチンコ屋にはあいている椅子のほうが多くて、客は10人くらい。
古いつくりの宿屋がいくつかあるが、こちらは灯りがついていない。
十字路の角で鯛焼きの屋台が開いている。
その先に行くと茶屋があって、天竜は茶としいたけが名産だというような話を聞く。1袋ずつ買う。
戻ってくると鯛焼きの屋台はしまっていた。
歩いているのは犬の散歩の人くらいだったが、こんな時間まで開いている店は商売になるのだろうか。住まいと一体で大きな負担にならないから、街を暗くしないように開いているのかもしれない。
意外にバスの本数が多い。30分か40分かくらいの散歩のあいだに、右行きのバスと左行きのバス、1台ずつ見かけた。乗客はひとりもいなかった。
小さな建物が並ぶ細い通りを、大きなからっぽのバスが灯りをつけて走りぬけていくのが、『となりのトトロ』の猫バスのようだった。
独特な雰囲気があって、忘れがたい散歩になった。

■ 朝、二俣城址から天竜川を歩く

旅館の朝食前、まだ日も昇る前に、城跡に散歩に行った。
曲輪(くるわ)や堀の地形がデコボコとしているなかに、城の石垣の一部だけが残っている。
二俣城趾には石垣が残る

石垣にのぼると、眼下に天竜川が流れている。木が繁って狭い眺めになってしまっているのが惜しい。
室町末期、1501-03年ころの築城と推定されている。天竜川と二俣川に挟まれた堅固な城で、街道上の要衝に位置することから、武田信玄と徳川家康が激しく奪いあったという。
(川沿いで交通の要衝という城の立地、城跡の残りぐあいなど、寄居の鉢形城址と似たところがある。)
年月を経て、秋野不矩はこの近くの神社の宮司をしていた父の子として生まれたのだった。
歩いているうちに日が昇って真横から朝日がさしてきた。


河原に降りる。
漬物石くらいに大きな石がカラカラと堆積している。
天竜川の左岸で、流れは右からやってきて、左に流れていく。
左は、すぐ先でかなり急角度でさらに左に曲がっていく。流れの先が見えない。どんなふうだろうと歩いてみた。
天竜川の広い河原

浜松の天竜川河口のふくらみが気になったように、地図ではこのあたりは左につま先がある長靴のような形をしている。その長靴の先端を回り込むように歩いていることになる。
(このあたりも荒川の象ガ鼻付近を思わせる。)
秋野不矩の作品に『天竜川』と題したのがある。なすの先端のような土地が画面中央に垂れていて、ぐるりと川がUの字型に流れている。ここを描いたのかもしれない。
石の上は歩きにくい。先で崖のようにでもなり川原を歩けなくなって元に戻らなくてはだとイヤだなと思ったのだが、逆に川原が広くなって、橋が2本見えてきた。
手前が人と車の道で、かつては吊り橋だった。
その向こうに鉄道の橋があって、1両だけの電車が右に渡っていった。
正面に低い朝日がある。
車道に上がって、宿に戻った。

■ 秋野不矩美術館
浜松市二俣町二俣130 tel.0539-22-0315

二俣川にかかる橋を渡って坂道をのぼった丘の上にあった。坂から見上げると、崖面から立ち上がる木の壁が異様な表情をしている。
ピラミッド形の屋根、粗い手ざわりが残る壁。
土俗的で懐かしいような、でも思い出そうとしてみるとこれと思い当たるものがなくて、今まで見たことがないものだという気もして、妙な感じになる。
部分的には、はっきりと類似を感じるものがある。
厚く、手で固めた跡が残る土の壁は、越後妻有アートトリエンナーレの古郡弘の造形を思い出させる。
雨樋が突きだしていて、こちらはル・コルビュジェのロンシャンの礼拝堂の雨樋を原始的に木で作ってみたらしき、いたずら心がおかしい。
(尾張屋旅館のおかみによると、「藤森先生はこの下に水琴窟を作りたくて大きなかめまで用意したのに、地面が堅くて掘って埋められなかった」。)

秋野不矩美術館の入口付近の全景 雨樋は自然の木を利用している

靴を脱いでスリッパにはきかえて館内に入る。
ワラ入りモルタルの白っぽい壁と床。
杉の柱は、画家と設計者が山で選び、藤森建築でおなじみの南伸坊や林丈二らの縄文建築団が手作業で材に加工し、白いのが気になって黒く焦がしたという。斎藤義重の、黒い角材を組み合わせた造形のようになっている。

展示室にはスリッパも脱いで進む。
長方形の展示室には藤ゴザを敷いてある。
そこを抜けて正方形の展示室に入ると、マケドニア産の大理石が矩形に並んでいる。畳大で、薄いものを貼ってあるかのようにみえるが、6、7cmとかの厚みがあって、間を漆喰で埋めてある。
大理石はサイズもまちまち、縁も直線に仕上げていないので、大理石の床といってもカチっとした強すぎる印象がない。あえていえば、ちぎった和紙を並べて敷いたふう。
下には床暖房があって、冬でも冷たくないように配慮してある。
天井の中央に四角く天窓の穴があいている。北向きだけガラス窓になっていて、淡い自然光が入る。季節、時間、天候により、光の強さ、色合いが微妙にかわる。ジェームズ・タレルの光の装置のようだ。
床の中央に小さな円墳のように突起がある。秋野不矩と藤森照信が、天竜川で拾ってきた石を、美術館の完成と発展を祈念して床下に埋めてある。
やることがイチイチいいなあと思う。

しばらく床に座りこんで秋野不矩の絵を眺める。
『ガンガー』(1999年)は、川を数頭の牛が渡ってくる。
秋野不矩はインドに渡った当初、日本画の絵の具が手に入りにくいのでとまどったが、
インドの大地は赤土であるから黄土色だけは濃いのも淡いのもいくらでもある。私は学生に校庭をさして、あそこに黄土の絵の具がいっぱいあるから、あれで描こうと言って・・・・・・。 (『画文集 バウルの歌』 秋野不矩)
まさにそのようにして調達した絵の具で描いたかのように、大きな画面がほとんど茶色のバリエーションのみで占められている。わずかに水面に首から上だけのぞかせている10頭ほどの牛だけが黒い。
水と空と大気の区別がつかなくなっていて、この世界のなかに命が生きて動いているという鮮烈な感覚を喚起される。
細工も施さず、色も塗らない、簡素な木の額に収めてある。画面より外に目を向けると、塗った手作業の跡が残るモルタルの壁がある。壁から作品が際だってしまわなくて、すんなりとつながっている。ツルツルピカピカのフラットな壁に、装飾的な額に入れてあったら、作品の広さをそこねてしまうところだ。

長方形の展示室に、もう1つ同じ『ガンガー』と題した絵がある。こちらでは牛は向こうに渡っていく。それが2000年の作品で、2001年に作者は亡くなって向こうにいかれた、というと、話を読み過ぎになるかもしれないけれど。

(前から楽しみにしていた美術館だが、建築も作品も期待以上だった。ひとまとめに書いているが、1日目の夕方にも一度入館して閉館まで長居したうえ、2日目の開館時間には一番のりして、2日通った。)

          ◇          ◇

故郷に美術館を作るのにあたって、秋野不矩は、藤森照信の処女作、諏訪にある神長官守矢(じんちょうかんもりや)資料館を気に入り、旧天竜市に設計者として推薦した。
藤森照信は天竜川の水源地である諏訪湖のある長野県茅野市の生まれ。やはり川に感性がある人だった。
 卒業設計では,仙台市街を廃墟と化し,街の中央を流れる広瀬川に宇宙船のような橋をこつ然と架けるという作品を描いた。その頃,下宿が広瀬川近くにあり,一晩中本を読んでは,明け方にあきると河原を散歩するという毎日を送っていたんですが,都市に痛めつけられた川が日に日に弱っていくのがわかったんです。ところが当時は大気汚染ばかりが話題になって,川の汚染に関してはマスコミも黙殺状態。それで川と橋の再生をテーマにしたわけです。
(『私の仕事 65人の職業人の足跡』)

藤森照信が秋野不矩の美術館を設計することになり、初めて秋野の作品を見たのは隅田川にかかる永代橋の近くにあるギャラリーでだった。
 新作の展覧会を、不矩さんは私どもの「佐賀町エキジビットスペース」の空間で開きたいと、2年余り前に仰言った。不矩さんは、築後65年の古いビルディングの空間の豊かなアウラを一目で見抜かれたようだ。祈りのこめられた空間を不矩さんが描いていると始めに書いたが、それらの絵がどのような空間で見られることがふさわしいかまでを思う不矩さんの、強い意志を私は尊敬している。
 不矩さんはナヴァグラハの新作を、展示する壁面を念頭に制作された。ナヴァは9、グラハは惑星の意で、太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星の七曜星に2つの惑星が加わった神々が東京隅田川沿いの空間に舞い降りるのである。
(『不矩さんの空間』小池一子)

天竜川の水源近くに生まれ、川にひかれる設計者。
天竜川の中流に生まれ、インド乾燥した土地にひかれながら、川を描いた画家。
それに2人とも土が好き。
この画家とこの建築家の組み合わせは、このほかに考えられない、最良のものだったと思う。
(「佐賀町エキジビットスペース」は、1927年に米穀売買の市場として建てられた食糧ビルという近代洋風建築の一画をギャラリーにして、ディレクター小池一子が運営していた。1983-2000。)

          ◇          ◇

美術館では、この時期、2階のギャラリーで、「本田宗一郎遺品展」が開催されていた。
本田宗一郎は、秋野不矩より2年早く、1906年11月17日、当時の磐田郡光明村山東(やまひがし)に生まれた。秋野不矩の生地よりやや北になる。
本田宗一郎も天竜川の人で、1952年、カブF型のポスターでは、天竜川を背景に、バイクのかたわらに女性が立つデザインをつかった。
一線を引退後は絵をかくことも楽しみ、天竜川も描いている。

「遺品展」では、2つのものが目についた。
1つは、本田宗一郎の手の傷を図解した『私の手が語る』。
パネルに巨大な手が描かれ、いくつもの傷跡が示してあって、説明がついている。

 カッターで削った。
 ハンマーでつぶした。
 太いキリがここから入り、このへんに突きぬけた。

というような具合。かいてあるのは目立つ大きな傷だけで、小さい傷はもっとたくさんあったという。

 満足なのはこの小指だけ。
 べつに深い意味はない。

とうのが、夜遊びも盛んだった人についての、ちょっと皮肉ったユーモアがあって楽しい。
藤森照信は、自分で作りたがる建築家だが、本田宗一郎も美術館の建築に誘えば喜んで仲間に加わったのではないだろうか。

でもいかに優れた技術者であっても、トップが手に傷を作ることでバイクや自動車の製作をリードする時代は終わることになる。創業者ではあっても引き際も見事なものだったが、ひいたあとも人をひきつける明るい持ち味で、ホンダのため、社会のため、活躍しつづけた。

本田宗一郎の手の傷マップ 鮎の絵 やつでの葉の上に2匹の鮎

もう1つは『鮎』の絵。
本田宗一郎は東京・目白の1000坪の自邸の庭に川を作り、天竜川から運んだ鮎を放し、釣りながらご馳走するパーティーを開いていた。交友関係の広い人だったので、2日にわけて招いたという。
庭にあったやつでの木の葉に2匹の鮎を配した絵は、葉の緑と、鮎の鰓のあたりの黄色が対照して、いい味わいの絵になったいた。

(また尾張屋旅館のおかみの話では、「生家が数年前まで残っていたが、いたみがはげしく、解体された」。)


■ 浜松市天竜壬生ホール「本田宗一郎生誕100年記念式典」

午後、浜松市天竜壬生ホールで開かれた「本田宗一郎生誕100年記念式典」に行った。
「伝統芸能とコンテンポラリーダンスの共演」とミュージカル「SOICHIRO物語」には、驚かされ、圧倒された。
前者は、手作りの楽器というので、もう少し素朴なものを想像していたら、しっかり音のでるもので、素晴らしい演奏だった。
ミュージカルは、逆にこれがミュージカルかというような、どの場面も小道具を数個置いたくらいのさっぱりした舞台だった。
でも、ただ偉い人を賛美するような話ではなくて、夢をもってイキイキを向かっていくことの素晴らしさを素直に表現した構成もストーリーもよかった。
なかでも浜松でアート・スミスの飛行機ショーがあるので 1917年、10歳の宗一郎少年が、学校をサボり、親にも内緒で、大きすぎる自転車に乗って見に行くところがよかった。
遅くなって帰った宗一郎を、親は叱るのではなく、「いい経験をした」と。
じんとした。
夢をもつこと、追うこと、「やらまいか」のメッセ−ジがこもっている。
主演の2人(子役と青年役)の動きや笑顔にひきこまれて、どういう人がでてたのだろうと、あとでインターネットで探してみると、全員が公募だというので、あらためて驚いてしまった。
音楽も覚えやすくて、いい曲で、この日に2回の公演があったのだが、それだけでは惜しいようだった。

会場には本田さち夫人も来られていて、公演後、司会から紹介があり、立って一礼された。かなりの高齢だが、式典と公演をずっとご覧になり、お元気のようだった。

式典会場の外では、ホンダのバイクが並んでいて、元優勝レーサーがまたがってテレビのインタビューにこたえていたり、ASIMOが現れて人垣ができたり、にぎやかだった。

ASHIMOが現れて人垣ができる

参考:

  • 『俺の考え』 本田宗一郎 実業之日本社 1963
  • 『技術と格闘した男・本田宗一郎』 NHK取材班 日本放送出版協会 1992
  • 『本田宗一郎の真実』 軍司貞則 講談社 1995
  • 『ニワトリを殺すな』 ケビン・D・ワン 幻冬社 2003

  • 『画文集 バウルの歌』 秋野不矩 筑摩書房 1992
  • 『秋野不矩 インド』 京都書院 1992
  • 『秋野不矩展 文化勲章受章記念』 天竜市立秋野不矩美術館 2000
  • 『秋野不矩展−創造の軌跡』 毎日新聞社 2003

  • 『建築探偵本を伐る』 藤森照信 晶文社 2001
  • 『私の仕事 65人の職業人の足跡』 実業之日本社 2005
  • 『家をつくることは快楽である』 藤森照信 王国社 1998