12月第4週 幸田露伴の五重塔、幸田文の三重塔 


春から寄居を起点として荒川をいったりきたりしていたが、なかでも秩父に行く途中に寄居に立ち寄り文章に残した幸田露伴の足跡は、幾度かたどってみた。
 [ 4月第3週 幸田露伴が歩いた象ケ鼻は扇の要]
 [ 4月第4週 露伴の家はカタツムリハウス]
 [ 5月第3週 荷風のかつ丼を食べて、露伴最後の地へ]
 [ 7月第2週 露伴の宿]
 [ 10月第3週 路地の2−谷中に露伴の五重塔跡を訪ねる]
また娘の幸田文(1904〜1990)にも関わりがあった。
 [ 8月第3週 幸田文に導かれて信濃川へ−越後妻有アートトリエンナーレ]

今年はいつもの年にもまして妻に苦労をかけたので、年の暮れにどこかに行こうと誘うと、ぜひ一度奈良ホテルに泊まってみたいというので、奈良にでかけることにした。
奈良には幸田文が再建に尽力した法輪寺の三重塔があり、幸田露伴の五重塔をめぐって、幸田文の三重塔でしめくくることになった。

■ 法輪寺(ほうりんじ)
奈良県生駒郡斑鳩町三井1570 tel. 0745-75-2686
http://www1.kcn.ne.jp/~horinji/

三重塔は、1944年に落雷により焼失した。
法隆寺五重塔、法起寺三重塔、法輪寺三重塔とが、斑鳩三塔といわれ、斑鳩地方の景観を特徴づけていたのだが、その1つが失われた。最大最古の三重塔として明治時代から国宝指定を受けていたが、それも解除された。

当時の住職・井ノ上慶覚は塔の再建資金を集めるためのため各地で講演活動を行っていたが、1965年、東京・岩波書店で幸田文と出会う。
父・露伴が『五重塔』を書き、その五重塔が心中のとばっちりの放火で炎上したとき、幸田文は見知らぬ人から電話で知らされ、炎上する塔を見に行っている。
そういう素地があるところに、法輪寺の塔の消失のことをきく。
谷中の五重塔と同様、住職が語る奈良の塔の最後もみごとなものだったようだ。
塔は身をよじて、堪えるかにみえてたゆたい、揺らぎつつ、ゆらぎつつ、ついに堪えずどおっと倒れだした、と話された。
(『法輪寺の塔』幸田文全集第19巻 岩波書店 1996)
幸田文が法輪寺の塔の再建に関わるようになっていくのは、ほとんど必然の結びつきに思えるほどで、再建に尽力する人たちに加わると、再建工事中には一時、斑鳩町に仮住まいまでして、工事の進展を見守った。

1975年に塔は再建された。「父は紙の上に文字で塔を組み立てたが、私は実際に総檜で建てた塔を夢みた」と語っている。
(『幸田文さん 露伴の「五重塔」と不思議な縁』朝日新聞 1972.12.9)

     ◇     ◇

奈良での最終日、法隆寺、中宮寺を見てから、法輪寺に向かうと、斑鳩の里の田園風景のなかに法輪寺の三重塔が見えてきた。
奈良は屋根の美しさのまち、塔が空に突き立っているまち、だから建築と空の関係をみるまちだという印象を重ねて受けながら歩いてきたのだったが、ここも塔あってこその寺だと思った。塔が失われている間の、寺の人、里に暮らす人の欠落感が想像できるような気がした。

講堂に仏像、仏具が並んでいるのを拝見する。
中央に高さ4mもある十一面観音立像が立ち、独特なまなざしをしてこちらを見下ろされる。
その左に、この寺の本尊である薬師如来坐像がある。飛鳥時代、樟(くす)材の一木造(いちぼくづくり)で、止利仏師の作と伝わる。ちょっと形に異様な感じがある、凝縮した力がこもり、ひきこまれた。
法隆寺の大宝蔵院にあった百済観音はすばらしいものだが、博物館的展示で、本来の祈りの対象であったことを忘れそうになり、美術作品とか文化財とかになってしまう。
法隆寺金堂の仏像は、前に懐中電灯が置かれていて、金網ごしに照らしてみてぼんやりと見えるのだけで、これはまた感動が薄い。
法輪寺の講堂は昭和の再建で、無骨な建物だが、そこに置かれた仏像は、美術作品にもならず、暗くてうすぼんやりきり見えないのでもなく、ちょうどいい具合で、はまってしまった。

法輪寺の三重塔

幸田文が法輪寺の三重塔の再建の話をはじめて聞いたのは1965年、65歳を目前にしたころだった。
塔の完成は1975年、75歳をこえていた。
家族などが疲れをいやすように誘ったのが静岡県・安部川上流の梅ヶ島温泉で、その奥にまで行ってみたときに「大谷崩れ」に圧倒される。
五重塔は、人が作ったものに人が火をつけた。
三重塔は、人が作ったものを自然が焼いた。
今度は、自然が作ったものが自然に崩れていくのにひかれて、各地の「崩れ」を見てあるく旅にでることになった。塔の再建がすんでゆっくりするどころか、高齢で訪れるにはもっと厳しい自然のなかに向かっていく。
創造と破壊の重なりにひかれるのは、生きものの恵みと氾濫の災いをもたらす隅田川畔に育った感性が底にあるからのように思える。

     ◇     ◇

法輪寺を出て、法起寺のバス停でバスを待った。
寺の近くまでは歩いて行かなかったが、やはり塔の姿が美しい。
JR奈良駅まででて、駅と線路を高架化工事中の作業場に近い「なら100年会館」を見た。

建築家・磯崎新の日本的形態への思考が、こんな異様なボリュームの建築になった。壁と屋根の境がなく、一面をおおっているのはたいへんな数の瓦。窓がほとんどない。 なら100年会館 磯崎新設計

暮で休館していて中には入れないので、外を一回りし、快速電車で京都にでて、新幹線で帰った。

■ 東大寺
奈良県奈良市雑司町406-1 tel. 0742-22-5511
http://www.todaiji.or.jp/

奈良でも見ごたえのあるものがたくさんあったが、2つだけ。
1つは久しぶりに行った東大寺。修学旅行以来だろうか。

大仏殿は大きいが、大きすぎてスケール感がわからない。ひと目で見渡せるので、かえって圧倒的に大きいという感じがしない。扉の前にいる人の姿を注意してみて、比較して、ようやく大きさがわかる。実際に目にしているのに、想像力を働かせなくては大きさが実感できない不思議。 大きな東大寺・大仏殿

東大寺では、寺を創建した聖武天皇の没後1250年の記念行事が4月30日から5月6日にまでわたって行われた。これにあわせて、日本画家の小泉淳作さんが聖武天皇と光明皇后の肖像画を描いて奉納した。
この経費を負担したのが横河電気で、制作の段取りをしたのが東京・日本橋にある一番星画廊の星忠伸さんだった。
星さんは数年前に長瀞の荒川岸にある古い民家をつかってミュージアム長瀞一番星を運営されていた。そのころ僕は近くの「埼玉県立自然史博物館」(今は「埼玉県立自然の博物館」)に在職していて縁があり、展示されている名画を楽しみ、コンサートなどのイベントを楽しみ、博物館での事業に協賛していただくなど、たいへんお世話になった。
小泉淳作展が開催されたときには、講演会があり、話を伺ったりもした。
ミュージアムは運営が厳しく、惜しいことに3年ほどで閉館した。
その後、日本橋の画廊を訪ねたおり、東大寺に絵を奉納することをかねて聞いていたのだが、星さんがその下絵を床に広げて来客と打合せをされているところにいきあったことがある。
肖像画を描くには服や靴や髪型などの時代考証が必要で、正倉院の御物などを参考にしていたが、難しいことがたくさんある様子だった。
下絵にはきれいに線が描かれてあった。小泉さんの作品については、山や海や野菜など、ごつごつと粗い調子のものに見慣れていたので、すうっとひいた線を見て、こういう線もありなんだと印象に残った。
東大寺に奉納された絵は、短期間、奈良国立博物館で公開されたが、今は東大寺に納まってしまって、ふつうには見ることができない。下絵だけのぞいただけで、完成した絵を見る機会を逸した。写真でみると、端正に、上品に描かれていて、ますます僕が知っていた小泉作品からはイメージが遠い。さすがにこういうふうにもかけるのだと、こんな方にこんないい方をしては失礼な感想を抱いた。

寺には名画が残り、画家にも栄誉であり、名が残る。
でも絵の具も紙も表装も、そこらにあるようなものではなく、文化財みたいなものを使っている。金銭的にいえば、僕のようなつましい暮らしをしているものからは気が遠くなるような額のもので、その他あれこれの経費の総額になると、たった2枚の肖像画に、僕がまだローンを払い続けているような家なら何軒建つだろうというくらいのもの。
またそうした経費や材料の調達や、専門家を招いての時代考証など、制作に関わるたいへんな用意がいる。(時代考証は綿密にしたにもかかわらず、写真のような決定的な証拠が残っているのではないから、絵の完成後に批判があったという。)
横河電気や一番星画廊など、表に目立たない貢献も、もっと知られて記憶されるといいと思う。

■ 奈良ホテル
奈良市高畑町1096 tel.0742-26-3300
http://www.narahotel.co.jp/

1909年、辰野金吾(1853-1919)設計で、木造2階建て瓦葺きの、奈良の迎賓館に位置づけられるホテルが建った。
チェックインして2階の部屋に案内される。舞台装置のような階段を上がり、広い廊下を歩いて部屋に向かうだけで、うれしくなってしまった。それだけでもいいホテルだとわかる。
室内も天井が高い。設備は新しい質をそなえているにの、古めいた格調を失っていない。風呂が窮屈なのだけが難点だが、木造ホテルだから拡張できないのはしかたがない。
奈良にはたくさんの見どころがあるのに、妻はなによりも奈良ホテルに泊まりたいから奈良に行きたいというのだったが、それだけのことはある。しかもその期待は十分に叶えられた。

メインダイニングルーム三笠で興福寺の五重塔がライトアップされているのを眺めながら食事をした。
香ばしい鱸(すずき)のポワレ。
ステーキには甘い味付けをした編笠茸を添えてあって、肉の旨みを引きたてる。
デザートとコーヒーにいたるまで、すべてのものに満足した。

翌朝は、奈良名物の茶粥を味わい、ティールームでコーヒーを飲んだ。(右の写真)
売店に並ぶ奈良焼きのぐい飲みにも気に入ったのがあり、2つ買った。帰ってから、十分に満足した一夜を思い出しながらおいしく飲める。
建築も料理も人も、すべてに申し分がなかった。これまで有名な宿に泊まって、有名であることで落とし穴にはまっていると思える宿に行きあたり、不快に感じたことが幾度かある。ここでは全くそういうことがなかった。
難事が重なって新年が始まったのだけれど、いいホテルに泊まって、いい旅になり、いいしめくくりができた。

奈良ホテルの玄関 奈良ホテルのティールーム 朝日が入って明るい

参考:

  • 幸田文全集 岩波書店から
     『斑鳩の記』 別巻 2003
     『法輪寺の塔』 第19巻 1996
     『上野谷中』『塔』 第15巻 1996
  • 『建築における「日本的なもの」』 磯崎新 新潮社 2003
  • 『華厳』 華厳宗教学部 2006.7.15号
  • 『誰も知らない東大寺』 筒井寛秀 小学館 2006