2月第1週(2) 尾崎喜八と串田孫一が秩父へ


幸田露伴や宮沢賢治が荒川に沿って秩父に向かったが、詩人・尾崎喜八(1892-1974)も同様に秩父に旅をしたらしい。
尾崎喜八の『山の絵本』の岩波文庫版の解説に串田孫一(1915-2005)がこう書いている。

 昭和5年か6年。そう言われてみればその頃である。秩父へ向かう汽車の中で、偶然尾崎喜八という人に紹介されてから、昭和49年に亡くなるまで半世紀にもそう遠くない間のお付合が続いていた(後略)

尾崎喜八は、隅田川にかかる永代橋の近くの生まれ。当時はまだ視界をさえぎるほどの建物がなくて、遠くに見える秩父の山に憧れていた。

 生れて初めて山を見た記憶は5つの時にある。場所は東京も隅田川の河口に近い鉄砲州(てっぽうず)で、その頃「煉瓦」といっていた今の銀座の方角に、冬の日の暮れ、緑がかった金茶色の透明な夕映えの空を背景にして、西の地平に黒々と横たわっていた連山の影絵。それを秩父だと教えてくれたのは今は亡い私の父である。
(『山の絵本』 尾崎喜八 岩波文庫 1993から『秩父の牽く力』)

後年、尾崎は好んで山を歩くようになるのだが、その根は幼い頃眺めた秩父の山々の姿にあるようだ。

尾崎喜八は1974年の2月4日に亡くなった。
その日に近い2月の第1土曜日に、毎年、蝋梅忌が営まれている。
僕も数年前から縁があり参加している。今年は節分と重なり、寄居町の節分も気になるのだが、昨年も蝋梅忌に参加できずにいたので、今年は蝋梅忌に行った。

■ 蝋梅忌

蝋梅忌は、ここ数年、東京・四谷の駅前の主婦会館で開催されている。
尾崎喜八の長女・栄子さんのあいさつ。
ラジオ番組『自然のアルバム』の取材のために尾崎喜八と何度も旅をされた元NHK論説委員の伊藤和明さんの講演。
戦争協力詩を書いたことを悔いて一時隠棲していた長野県富士見町で縁があった方たちの近況報告。
新しく参加された方の自己紹介のあいさつなどがあった。

串田孫一は尾崎との最初の出会いについて、秩父に向かう汽車でだったと簡単に記しているだけで、どの路線の汽車か、またそれぞれの旅がどのようなものだったか、細部はわからない。
前に栄子さんにお尋ねしたことがあるが、父の旅のいちいちまではご存じではなかった。
串田孫一さんを訪ねるなら紹介しようといわれていながら、先延ばししているうちに2005年7月に串田さんが亡くなられてしまった。
伊藤和明さんにお話しすると、伊藤さんは尾崎と串田の出会いがいつだったか気にしてみたことがなかったふうで、調べてみようといわれた。
すでに公開されている尾崎と串田の文章からは、たぶん確かめようがなくて、あと可能性があるのは、串田孫一が残した日記か、(尾崎はまめに日記をつけていなかった)、串田に尾崎を紹介した人が記録を残しているかだと思う。
このあたりの事情がわかって、尾崎喜八と秩父方面のつながりがはっきりするといい。

     ◇     ◇

この日、例年蝋梅忌に参加されている松本弘子さんから子福餅をいただいた。
この『荒川ゆらり』が、幸田露伴・幸田文・食べ物のことにふれているのを見て、幸田文の娘、玉が、上坂冬子を迎えるときに梅花亭(ばいかてい)の菓子を用意していたと、上坂の文章にある、と教えられていた。
今日の集まりにあわせて、その現物を買いに行って用意され、お持ちいただいたのだった。
蝋梅忌に来てよかった!

この集まりの幹事役をされている野本元さんからは、尾崎喜八の夫人の實子(みつこ)さんが、客を迎えるときには梅花亭に菓子を買いに行ったとお聞きしていた。
では、幸田露伴と尾崎喜八に関心を持って読んだり歩いたりしてきたが、互いに別なこととしてだったのに、梅花亭の菓子という共通項があってつながってしまったことに、この日気がついた。

そういえば、幸田文は、隅田川下流の向島の生まれで、芸者置屋に女中で住み込んで『流れる』を書いたなんていうこともある。
尾崎喜八も、幸田文の生家からそう遠くない隅田川下流で育っている。ロマン・ロランと親交があり、クラシック音楽を好む、洋風趣味の人で、江戸情緒の文章なんか書かなかったが、でも実は、家業として隅田川の近くで船をつかって運送業を営んでいた商売柄、芸者とのつきあいが必須で、芸者あしらいが得意で、歌舞伎も大好き!という人だった。
幸田家と尾崎家は、生活圏、文化圏が重なっているから、菓子屋でつながっても不思議はない。

でも調べてみるとどうもおかしい、あれ?へんだな?と悩んだすえにわかったことは、2つの梅花亭があるのだった。

● 柳橋梅花亭(ばいかてい)は幸田さんご愛用
東京都台東区柳橋1-2-2 tel. 03-3851-8061

地図で見ると、JR総武線・都営浅草線の浅草橋駅から歩いて数分の距離。
神田川に架かる柳橋のすぐ近くにある。
神田川はすぐ先、両国橋の近くで隅田川に流れこむ。

上坂冬子が幸田文の娘、幸田玉を訪れたときのことを書いている。

 門を開けるのが約束より遅くなったのは、柳橋に行ってきたからだと最初に聞いたが、もてなしの菓子を買いに行ってきたのか。しかも、かつて母上が芸者置屋(おきや)の下働きとして住み込んだときの経験をまじえて書いた『流れる』の舞台となった土地をわざわざ訪ねて、母上ゆかりの梅花亭の「子福餅」を、求めてきたというのである。
 廊下を隔てたところに台所があるらしいが、茶菓が運ばれてくるまで物音ひとつしなかったのは、所作(しょさ)にきびしい祖父幸田露伴翁の躾のせいであろう。
(『この人、午後のもてなし』 上坂冬子 講談社 1998)

松本さんからいただいた子福餅は、蝋梅忌がすんで家に帰ってから、家族といただいた。
原材料は、砂糖と小豆と白玉粉だけ。小粒でしっとりとして素直な甘さでおいしかった。


「花より団子」そのままに「ロウバイより和菓子」になってしまったが、さらに尾崎さんご愛用のほうの梅花亭は次週に。

参考:

  • 『ミュージアムが人を結ぶ』 渡辺恭伸 さいたま川の博物館紀要第6号 2006
  • 『山の絵本』 尾崎喜八 岩波文庫 1993
  • 『この人、午後のもてなし』 上坂冬子 講談社 1998
  • 『新潮日本文学アルバム 幸田文』 新潮社 1995
  • 『<流れる>おぼえがき』 幸田文 経済往来社 1957
  • 『流れる・闘』 幸田文 新潮現代文学34 1980
    *『流れる』には最後に「著者のことば」が添えてあり、隅田川への思いを記している。

     小さいときから川を見ていた。水は流れたがって、とっとと走り下りていた。そのくせとまりたがりもして、たゆたい、渋り、淀み、でもまた流れていた。川には橋がかかっていた。人は橋が川の流れの上にかけられていることなど頓着(とんじゃく)なく、平気で渡って行った。私もそうした。橋はなんでもない。なんでもないけれど橋へかかると、なぜか心は一瞬ためらって、川上川下、この岸あの岸と眺めるのだ。
     水は流れるし、橋は通じるし、「流れる」とは題したけれど、橋手前のあの、ふとためらう心には強く惹かれている。