2月第2週 尾崎喜八の隅田川河畔の生家へ


尾崎喜八は隅田川の河口付近、京橋区で生まれた。父親は回漕問屋を営み、隅田川を後ろに控える鉄砲州の河岸通りに店を構えていた。
尾崎喜八は、そこで感性を養われ、また山への憧れを抱くことにもなった。
 
尾崎喜八は隅田川のことをこう書いている。

 隅田川の水のひろがりと鴎(かもめ)の群れ、晴れた日の房総半島と東京湾の沖の雲、石垣のあいだを出入りする蟹や船虫、そこに咲いている少しばかりの草の花・・・・・そういうものへの愛情が後になって私を博物学や地理学や、気象学へと引きつけた・・・・・
(中略)
隅田川の水が日光に照りかえす鉄砲州の家の離家(はなれ)の濡れ縁が、言わば幼い私の読書のための止木(とまりぎ)だった。
( 『音楽への愛と感謝』 )

それでは尾崎喜八の隅田川河畔の生家のあたりの現状を見てみよう!
というのは大義名分で、尾崎喜八の生家は今はないだけでなく、周囲の町の様子もすっかり変わっているらしい。
本音のところは、尾崎夫人が愛用していた梅花亭の菓子がどんなものか食べてみようというのをいちばんの楽しみに出かけた。

● 梅花亭は尾崎さんご愛用
東京都中央区新川2-1-4(旧霊岸島) tel. 03-3551-4660・4039
地下鉄日比谷線・東西線茅場町から3分


地下鉄に乗って茅場町から歩くのがいちばん楽そうなのだが、それでは広い位置関係、距離感がわからないかなと考えて、東京駅から歩いた。大きなコレドの脇を通って永代通りを永代橋に向かって歩き、地下鉄の茅場町駅を過ぎ、亀島川にかかる霊岸橋を渡って右に折れる。
亀島川を背に並ぶ建物の1つが梅花亭だった。
こじんまりした和菓子屋さん。
初めてなのでいろいろ食べてみようと買ってみた。

もなかの常識を破った厚手で梅型の「梅もなか」(下右)。
初めて和菓子を釜で焼いたという「亜墨利加饅頭」(下中)。
六代目中村達三郎が創案したという「佛蘭西饅頭」(下左)。
など。
梅花亭の菓子、亜墨利加饅頭など

1850年に創業したという古い店だが、あたらしいものをつくりだす姿勢が伝統らしい。
今ではどれもびっくりするほど新しいとか珍しいとかではなくなっているが、どれもいい味をしていた。

尾崎喜八は京橋の生家を離れて、杉並や上野毛(かみのげ)に暮らしたのだが、尾崎夫人の實子(みつこ)さんは、お客様があると梅花亭まで足を運んだという。幸田玉が来客を迎えるのに柳橋まででかけて用意したというのと同じ心配りだし、また松本さんも僕のために住まいから遠い菓子屋に行ってくださったのだった。

「ごちそうする」というのは、ただ珍奇なもの、豪華なものを供することをいうのではなく、あちこちを回って心づくしのものを用意することなのだと教えられたことがある。駆けまわり走りまわるから「ご馳走」というと。
尾崎實子、幸田玉(そして松本弘子さん)の人の迎え方をみて、あらためて、なるほどと納得する。

          ◇          ◇

蝋梅忌の日に、尾崎喜八の娘・栄子さんに生家の位置をお尋ねした。
紙に地図をかきながら、「ここが白木屋、神社があって、そこから近く。その先は芸者の置屋がいくつもあって、永代橋になる」というように説明された。

白木屋デパートは東急になり、その東急デパートももうない。

神社は小さくて、探し当てるまでにらせん形に遠回りしてしまった。
ビルの谷間にある新川大神宮は中央区新川1-8-17。
1945年3月9日の空襲で焼け、1952年に再建されたが、そのときの寄進者の名前がでているのを見て驚いた。
アサヒ、サッポロ、キリン、サントリーなど、競争関係のビール会社がずらりと並んでいる。
大関、菊正宗、月桂冠、沢の鶴など日本酒関係もあり、ほかに、メルシャンや宝酒造があり、キッコーマン、ヤマサ、ヒゲタなどの醤油メーカーも並んでいる。
尾崎喜八の父は回漕問屋だったというのは、こういう商売のものを運んでいたのだろうかと推測する。
新川大神宮は、今はビルに埋もれるようにあるけれど、かつて新酒が上方から船で入ると、まずこの大神宮に献上し、それから商われたというから、由緒あるお宮だ。

小さいけれど、近づいてみると素敵なお宮だった。
黒い鳥居をくぐると、赤い階段の先に、グレイの社殿があり、銀色の扉が開いていて、緑の屋根がのっている。
最小限のパーツを組み合わせただけの、積み木のような単純な形態がさっぱりして明快。
おさえた色調もいいセンスだと思う。
戦争からまもない時期、もう50年以上も前に、どういう人がデザインしたのだろう。
新川大神宮

          ◇          ◇

梅花亭から、霊岸橋から逆の方向に歩いていくと亀島橋があった。
亀島橋は東京駅八重洲口からまっすぐつながっていて、もう1本、中央大橋を越えると佃島になる。このあたりでは、橋を渡ることは珍しくないからほとんど意識しないが、かつて霊岸島といわれたとおり、新川付近も本来は島で、東京湾に浮かんでいる。

神島橋の下を亀島川が流れていく先を見ると、佃島の北端の数本のタワーが並んでいる。 亀島川の先に佃島のタワーが見える

永代橋からの佃島の眺め これは永代橋からの佃島の眺め。亀島川は右から流れこんでいる。

          ◇          ◇

尾崎喜八は秩父に憧れていた詩人だが、直接に秩父を詩のことばにしたことはなかったようだ。でも秩父を歩いたときにとった写真があるというので、鎌倉にある尾崎栄子さんのお住まいに伺ったことがある。北鎌倉の駅で降り、あじさいで有名な明月院にある尾崎喜八の墓にお参りしてから行った。

乾板で撮影したのを紙に焼いてある。
秩父では、武甲山、二子山、志賀坂峠からの山中地溝帯などを写している。
詩人とはいいながら、科学的素養の深い人だから、撮影日時、場所、レンズや絞りまで、データを正確に記録してある。

1枚とくに気になったのが、「昭和7.10.16 秩父郡三田川村一反地(みたがわむら いつたじ) 河原沢ノ民家」という写真。
特徴のある家が写っているし、三田川村=現・小鹿野(おがの)町には、親しいアーティスト、守屋行彬(もりやこうりん)さんも暮らしているから、遊びに行きながら、探してみようかと思いついた。
尾崎喜八が乾板で撮影した小鹿野町の蚕農家

実地調査に行く前に守屋さんに写真を送って見てもらうと、70年以上も前で、いくら山間地帯とはいっても家も道の様子も変わってるから、なかなか探し出すのはたいへんだろうと返事があった。
守屋さんはアトリエを求めて小鹿野に移った方なので、秩父生まれ・秩父育ちの浦島明久さんにも写真を送ってみた。すると、「その近くに大河原正直さんという知り合いがいて、きいたらすぐに見つけだしてくれた」と知らせをもらった。見当をつけながら道を歩いて捜しまわろうと思っていたので、拍子抜けするくらいだった。

その家に今もお住まいの方と連絡がとれて、守屋行彬さんと一緒に伺った。
所在がわかってみれば、守屋さんが飼っているチベタンテリアの散歩コースだった!というほどの近くだった。
写真に写っている養蚕の空気抜きのための高窓は1960年頃台風で壊れ、トタン屋根になっていた。
目印になるだろうと思っていた石垣は、やはり尾崎の写真のとおりにあった。
左のほうに写っている小屋は、「弓引き場」で、かつて祖父や近隣のたくさんの人が弓を引いていたという。
山歩きの途中で目を留め、当時貴重だった乾板を1枚つかって尾崎喜八に写真をとる気にさせるほどの家だから、このあたりの中心になる格式の高い家だった。
古い時代にどこから来て、どういうふうにこの地で暮らしてきたか、地方史を学ぶような話をお聞きすることができた。

この家の前の道を下ると赤平川が流れていて、赤平川はやがて皆野町で荒川に合流する。
荒川の下流、隅田川畔に生まれた詩人が残した1枚の写真のおかげで、70年も経て、ささやかながらおもしろい発見と出会いがあった。

( この家にお住まいの方の意向で、お名前や現況の写真などは掲載しません。)

参考:

  • 『音楽への愛と感謝』 尾崎喜八 平凡社 2001
  • 『花咲ける孤独 評伝・尾崎喜八』 重本恵津子 潮出版社 1995
  • 『夏の最後の薔薇 詩人尾崎喜八の妻實子の生涯』 重本恵津子 レイライン 2004
  • 『詩人・尾崎喜八と秩父(2)』 渡辺恭伸 埼玉県立自然史博物館友の会「みんなの自然史」 第55号 2005
  • 尾崎喜八文学館 http://kihachi.at.infoseek.co.jp/ 
  • 守屋行彬&ひろみ http://www.geocities.jp/arte_moriya/index.html