4月第2週 河川敷のゴーストタウンで春のランチ


晴れた春の休日。
なのにあいかわらず気持ちの余裕がなくて、遠くにいく気もしないので、また近くの荒川河原に自転車でうらうらとでかけてみた。
かつて土手の内側に新川という村があったが、強制的に土手の外に移され、今は「幻の村」といわれている。最近注目する人たちがあり、エコミュージアムをつくるなどして、しばしば新聞に報道されたりしているので、見にいった。

といっても、僕も初めてではなくて、いつか自転車で村の中を走りすぎたことがある。
いつもは見晴らしがいいので土手の上の道を走るのだが、気まぐれに土手を内側に降りて走ってみた。細い道が軽く曲がりくねりながら続いているところどころに、こんもりした木のかたまりがいくつか点在している。何か雰囲気があり、ひかれる気分があって、またここをゆっくり走ってみようと思ったまま、それがいつごろのことだったか思いつかないくらい、かなりの年月がたってしまっていた。

江戸時代初期の1629年、荒川の瀬替えということがあって、(今でいう)元荒川を荒川本流から切り離して利根川に合流させ、銚子で太平洋に注ぐようにした。荒川本流は東京湾に注ぎ、江戸と関東中北部を結ぶ舟運の中心線となり、新川はその中継地として栄えた。
1883年に高崎線が開通すると舟運が衰え、かわって養蚕が盛んになったが、これもやがて衰退する。
河川敷内で洪水が多く、河川管理上の国の方針から、戦中から戦後にかけて、住民は半ば強制的に土手の外に住居を移さなくてはならなくなった。

どこか場所を見つけて食べるつもりで、コンビニで竹の子弁当を買った。
市域としては熊谷市だが、JR行田駅のあたりで土手の内側に降りていった。

墓がある。
寺はない。
マカロニウエスタンにでてくる墓みたいだ。
畠のなかを曲がってくる道がある。
画家・熊谷守一(1880 - 1977 )は、1947年に娘に先立たれ、『ヤキバノカエリ』という絵をかいている。新川の道を眺めると、子どもの遺骨をおさめた白い箱をもって、残った3人の親子が歩いて来そうな気がした。

新川.墓場 新川の道

曲がり角の石に腰かけて、弁当を食べた。
河川敷の開けた風景のなかに、密集した葉をまとわりつかせた数本の木の集まりが、ポツンポツンとある。防風林でもあり、洪水のときには、流されてくるものが家を直撃するのを防ぐ防水林でもあったかもしれない。
空にはひばりの声。足もとでは、ナズナにテントウムシが這っている。

熊谷の高校に通っていたころ、中間試験とか期末試験とかが終わって一区切りついた日には、土手まででて、下流に向かって歩いて帰ったことが幾度かある。10キロほどあって、2時間かかったと思う。のんびりとした解放感にひたって歩いた。
その頃まだ、この村には立ち去りがたく非合法のようにして暮らす人があったようだ。そんな村があり、そんな人が暮らすことはまるで知らずに歩き過ぎていた。

土手にゆるやかに並行する道を自転車でゆっくり走っていく。
どことなく家ごとの敷地に区切られていた跡が感じられる。
三叉路には寺の跡。

渡し船もあったというので川原近くまで行ってみたが、そんなことを偲ばせるものは残っていないようだ。
振り返ると、菜の花の向こうに、かつて家々を守っていたはずの木立の群れ。

住んでいた人が去って40年以上もたち、ここに暮らしたという家や生活の跡は明瞭には残っていない。でも人が置いていった思いが感じられる。不思議な一帯であり、僕はなぜか親和を覚える。

菜の花の向こうに新川村跡の木立 新川:海のような草に墓が沈む

(それで5月半ば、晴れて空気が乾燥して気持ちがいい休日があって、今度はお茶とおむすびを持ち、マクドナルドでハンバーガーを買って、またでかけてみた。
木々や葉の緑が濃くなっている。
前に気づかなかった墓があり、草に埋もれていた。SF映画−洪水につかった高層ビルのようだと思った。)

参考: