5月第3週 八高線に乗って高崎へ


寄居では3つの鉄道路線が交わっている。
都心の池袋からは東武線が北上して終点になっている。
荒川に沿って東西に走るのが秩父線。僕は長瀞の「自然の博物館」、寄居の「川の博物館」への通勤に使っていたことがあり、馴染みがある。
南北にはJR八高線が南の八王子と、北の高崎を結んでいる。
こちらにはほとんど乗ったことがなくて、いつか乗ってみたいと思っていた。

高崎の群馬音楽センターで群馬交響楽団の定期演奏会があるので行くことにした。
午後早い時間に雷があって、激しい雨が降った。
でも寄居駅から高崎行き八高線に乗るころには、また日射しが戻っていて、すがすがしい。

2両編成のワンマンカーで、単線。ちょうど寄居駅で上り下りが待ち合わせをしてから出発した。 寄居駅の八高線ホーム

わずかな起伏がある畑作地帯で、電車の窓から外を眺めると、雨に濡れた木々の葉が陽の光を反射してキラキラして輝いている。
初めて乗る線が、こういう風景のときだと、好印象で、なんだかうれしい。

右方向に赤城山が見えている。
埼玉県と群馬県の境あたりで神流川(かんながわ)を渡る。尾崎喜八が『神流川紀行』に記した川だ。
北藤岡駅を出ると烏川(からすがわ)を越える。この上流の碓氷川(うすいがわ)の近くにブルーノ・タウトは暮らしたのだった。

          ◇          ◇

群馬音楽センターには数回来ている。
数年来、高崎の実業家、井上房一郎の足跡をたどっているが、井上房一郎は人のくらしに欠かせないものの1つとして音楽があると考え、群馬交響楽団の設立をすすめてきた。その演奏会場が十分になかったことから、親しい建築家、アントニン・レーモンドが設計し、1961年にできた。戦後、まだ人々の暮らしが十分に回復していない時期にもかかわらず、市民からの大きな寄付があって実現し、前の庭に「昭和三十六年ときの高崎市民之を建つ」の碑が建っている。

NHKテレビ『ザ・ロード わたしの旅』の撮影では、建築物の最初の撮影地が群馬音楽センターだった。
そこに向かう前に、高崎駅西口の2階、歩道橋に続いていくあたりで畠山アナウンサーと初めて会うところを撮影した。
撮影の開始前に初対面のあいさつをして、それでは出会うシーンをとりましょうとやるのかと思ったら、本当に初対面のところから撮影するのだった。
僕やディレクター、カメラマン、音声担当、照明担当の5人は、高崎駅に先に着いて、場所を選んで、ここで会うことにしましょうなどと用意しておく。
畠山アナが新幹線で到着すると、いよいよカメラが動き出す。
僕は西口の外で待っていて、畠山アナをカメラが追いながら撮影してきて、出迎える僕と初対面にいたる、のだった。
(高崎で初対面し、群馬音楽センターを撮影し、高崎で1泊したあと軽井沢に移動したのだったが、撮影がすんだあとの編集段階で、流れをわかりやすくするために軽井沢−高崎の順になった。それで高崎での出会いのシーンはすっかりカットされた。でもこれくらいのカットはまだ穏やかなほう。)

通りを歩きながらも撮影した。
「この旅で何を見たいと思っていますか」
「井上房一郎が残したものが、どう残っているかを見たい。どういう方たちが残そうとされているか、話も伺いたい」みたいなことを話したのだが、それも全部カット。

カメラは遠くに構えているが、話していることがわかるように、表情を大写しで撮影する。
それがすんでから、歩いている様子を撮影するために、またいったん道を戻って、今度はとりとめもないことを話しながらなのだが、また同じ道を歩いていくところを撮り直す。
こういうとき、先にモハモハのついたマイクで近くから音を拾うわけにはいかないので、小さなマイクをあらかじめ体につけている。携帯電話ほどの発信機をズボンのうしろのポケットに入れ、そこから細い線が着ている服の下をとおって、首の下あたりの下着にマイクの先端をはりつけてある。1日の撮影の開始前につけると、その日の撮影終了までつけっぱなし。電池は1個でまる1日もつ。

群馬音楽センターの前庭に立つ「ときの高崎市民之を建つ」の碑で撮影。
音楽センターのことに限らず、高崎市民の志の高さを象徴する重みのある碑だと僕は思っている。
いよいよ撮影らしい撮影が始まったと、僕なりに意気込みもした。
でもこのシーンもカットされて、高崎での第1場面は、このあと群馬音楽センターの正面に立ったところからだった。
碑の前の撮影がすんだところで昼食にすることにして、車で移動して、 ガストに行った。

音楽センターに戻って撮影再開。
入口を入ったところで、堀口p二さんにお会いする。
堀口さんは、バイオリニストで、群馬交響楽団の創設期のたいへん貧しくて苦労が多かった時期からのメンバーだが、すでに引退されている。
レーモンドの展示室を見る。音楽センターの建築構想が大きくかわっていった過程が模型でよくわかる。

階段を上がって2階へ。
まだ若かった画家の石澤久夫さんが制作したフレスコ画を眺めたりしていると、中から楽器の音がきこえてくる。音合わせをしているようだ。

舞台に4人の演奏者がいて、きちんと照明もついている。
建築を見せていただくだけのつもりでいて、こんなことがあるなんて話は聞いてなかった。カメラが回ってるので、どうするのと尋ねるわけにもいかなくて、ゆっくり進んでいって、正面の席に並んで座った。

四重奏の演奏が始まった。
さすがNHK、あるいはさすがテレビ放送。
ただの群馬音楽センターの建築の見学会くらいでは、こんなことはありえない。
演奏をしている間にも、カメラは動き回りながら撮影している。
舞台袖から、会場の全景を撮す。
舞台に上がって、演奏する人のうしろから、演奏者の後ろ姿や、聞く僕らの表情を前から撮す。
演奏のさいちゅうにずいぶん動き回るのだなと思っていたが、演奏の音と映像をきれいにとるために、同じ曲の2回目の演奏が始まった。なるほど、こういうふうにするのか。

舞台に上がって演奏者たちと話をした。
このときの演奏は、『モーツァルト フルート四重奏曲 ニ長調 第1楽章』で、メンバーは、
  パベル・フォルティン Pavel Foltyn フルート   チェコ
  高杉        Gao Shan    バイオリン 中国
  プラム・ブルース  Plumb Bruce  ビオラ   カナダ
  ファニー・プザルグ Fanny Pouzalgues チェロ  フランス
の4人だった。
外国人ばかりだが、みなさん日本語がなめらか。
レーモンドはチェコの出身だが、チェコのフォルティンさんにたずねると、レーモンドは知られていなくて、原爆ドームを設計した人は知られているとのことだった。
ロケ旅行のあいだ、日程などを記したノートを持ち歩いていた。
お会いした方に記念のサインをいただいてもいたのだが、ファニー・プザルグさんのサインには、名前のほかに上のような絵?が添えてあった。
何かわからなくてたずねたら、「急いでかくとわからないことがあるの」と、説明的に下のを書き加えてくれた。
チェロを弾く自画像だった。
プザルグさんのサイン

サインを説明するサイン

高崎での撮影より前に、別の日、僕の職場と自宅も撮影した。
午前中に職場で撮影したあと、車で通勤している通勤風景も撮るということで、職場から自宅まで、車を運転するところも撮影した。
大柄なカメラマンの地主さんが真横の助手席でカメラを構えていて、緊張しながら運転したのだったが、そのとき、後ろの座席に座っていたディレクターの細原さんから、唐突に、「何か楽器を演奏する趣味があるか」ということを尋ねられた。
何かやっていれば、ではここで一緒にと演奏に加わるような演出がされたかもしれなかったと、あとになって気がついた。

歌舞伎や映画をときおり見ることはあっても、このところしばらくコンサートから遠ざかっていた。
井上房一郎のテーマとして、音楽、美術、歴史、哲学があり、いちばん最初に実現させたのが音楽でもあったのに、しっかり音楽を聴いていなかったことにモーツァルトを聴きながら思い至って、群馬音楽センターで、群馬交響楽団をきこうと思ったのだった。

群馬交響楽団:夕暮れときの2階内部 群馬音楽センター:夕暮れの正面外観

長い前置きになったが、群馬交響楽団第436回定期演奏会は、次の3曲だった。
  ベートーベン 交響曲8番 
  ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調作品77
  シベリウス 交響曲第7番
初めて聴いたショスタコーヴィチ(1906-1975)のヴァイオリン協奏曲にひきこまれた。
第1楽章の冒頭、曲が流れるのではなく、重く、低く、うごめくように始まる。
心が船のような形をしているとして、船底をさすっていくふうだった。
1947年に作曲したが、作曲家が批判されていた時期だったので発表をひかえていて、スターリンが死んで2年経った1955年に初演されたという。
その後も珍曲扱いされていて、よく演奏されるようになったのは、1990年代になってからだという。

あたりまえのことだが、まだまだまだ知らない音がある。まだ知らない街があり、知らない山の眺めがあり、知らない海の色があり、知らない文章の輝きがあり、知らない人生もあるだろう。
井上房一郎は、僕が知らないところに導く案内を今もしてくれていると、あらためて感謝の思いがわいた。

群馬音楽センター:コンサート終了後の夜景

参考: