1月第3週 須田剋太を見に行く−鴻巣  


須田剋太展を見に行った。
須田剋太(1906 - 1990)は、2005年に鴻巣市に合併した旧・吹上町の生まれ。生家は僕の住まいからは歩いて5分のところにある。
旧・吹上町には、須田剋太を慕う人たちが「ふるさと・ふきあげ」という集まりを作って作品を収集していて、他の美術館などから借りた作品とあわせて、毎年須田剋太展を開いている。

今まで近くの公民館で開催していたが、吹上町が鴻巣市に合併したもので、今年は鴻巣市文化センターに会場が移った。立派だが僕には遠くなった。 クレアこうのす。須田剋太展

須田剋太は、司馬遼太郎(1923-1996)の『街道をゆく』の挿絵で広く知られる。『街道をゆく』は、司馬遼太郎の思考を読むのも楽しいが、しばしば現れる画家の変人ぶりの描写も魅力になっている。
司馬が呆れながらも、その変人ぶりの基にある造型への思いの深さ、徹底ぶりに敬意をもっているのが、気持ちよく伝わってくる。
吹上というところは、関東平野の平らな地面にあって、眺めも歴史もとりたてて特徴がない町で、須田剋太のような激しい個性をもった芸術家がでたことが不思議に思える。1つの町といわず、荒川流域まで長く広く見渡しても、こんなに異様なほど突出した人物は他に例がないと思われる。

私の幼い日の思い出に、今考えると造型性に通じる記憶がある。母に抱かれたまま村芝居で見た、夜空の星なのです。ただ、光る星のつぶつぶの形。同じくその日、女の児の持っていた、石榴(ざくろ)のつぶつぶの赤が眼に映った。天にも地にも、此れがこの世で初めての、形というものの見始めです。(『私の造型』須田剋太)

須田剋太が造型に志したのは、風土でも景色でも親や友人の影響でもなく、星と石榴の粒を見たことだという。なるほど関東平野の平凡な町でもいいことだし、またのちに具象絵画から抽象にひかれたことも、なるほどと納得させられる思いがする。

今年の須田剋太展では、『東大寺椿』と『熊谷椿』の、2種の椿の絵が展示してあった。
東大寺椿は、東大寺の最大の行事である二月堂のお水取(修二会=しゅにえ)のとき、観音に供える椿の造花のこと。
その花は、修二会にたずさわる練行衆(れんぎょうしゅう)が作るもので、NHKがお水取りの様子を撮影した映像を見ると、赤と白の紙を貼り合わせて作っていく過程が見られる。
須田剋太はこの花をとても好んだようで、『東大寺椿』と題した、東大寺椿だけを描いた絵のほかにも、しばしばこの花を散りばめるようにかきこんでいる。

画伯は、かつて、質素な内陣を荘厳(しょうごん)しているこの花を見た。そのときの感動が、天平への幻想とかさなって、「東大寺椿」ということばがでるたびに、視線が遠くなる。(『街道をゆく24 近江散歩、奈良散歩』司馬遼太郎)

熊谷椿は、園芸種の1つで、濃い紅色の大輪の花を咲かせ、関西に多いという。
熊谷草(くまがいそう)は知っていたが、熊谷椿というのは知らなかった。

■ 鴻巣市文化センター クレアこうのす
埼玉県鴻巣市中央29番1号 tel. 048-540-0540
http://www.skk-konosu.jp/clea/
設計:小泉雅生/C+A 2000年竣工


須田剋太展があって、初めてこの建物に入った。
外の壁が、透けた水平材におおわれている。
どっしりとした壁がどんと立ちはだかるのではなく、霧をまとっているような、カモフラージュしているような印象になっている。屋根の線はギザギザになって、少し前のパソコンで引いた斜線はこんなふうだった。

クレアこうのす:外観 クレアこうのす:水平の部材

前が公園になっていて、公園からは芝生の斜面がせりあがっていって、正面側に近づくようになる。

壁を柔らかい印象にしていることと、前面のゆるやかなアプローチのおかげで、大きな建築なのに穏やかないい感じになっている。

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恒例の須田剋太展は立派な会場に移り、今までより関心がいくらか広がるかもしれないが、僕は吹上町が鴻巣市に合併するのは反対だった。
旧・吹上町では、合併の相手として、行田市にするか、鴻巣市にするか、住民投票が実施された。
僕は行田市を選ぶべきだと考えていた。
吹上には須田剋太がいる。行田には明治時代、写真の黎明期に活躍し、旧千円札の夏目漱石を撮影したことでなじみがある写真家、小川一真(おがわかずまさ 1860-1929)がいる。
それぞれの市町にそれぞれの画家、写真家を支持する人たちがいるから、合併を機に共同し、どこかに簡素な収蔵・展示施設を用意する。
両市町のちょうど境目あたりに、ものつくり大学があり、ここは建築文化の拠点とする。
行田市には、さきたま古墳、忍(おし)城といった歴史的由緒もあり、吹上町にも下忍(しもおし)という地名があって、生活的にも2つの市町は関係が深い。
こうしたことを集成していったら、すてきな文化的都市ができると考えていた。
合併にあたり意見をいえる機会があり、そういう構想を伝えもしたのだが、「どういう都市にするのか」という、合併後の都市構想を示して比較するようなことはほとんどないまま、ただ数を競う投票になって、鴻巣市に決まってしまった。

参考: