1月第5週 深谷シネマ 『水になった村』


前の週にさいたま芸術劇場のシンポジウムにいったときに、近く深谷シネマで『水になった村』の上映予定があるときいてでかけた。

すばらしい映画だった。
想像力を刺激されどおしで見た。

岐阜県徳山村(現揖斐川町)に、貯水量が浜名湖の2倍にもなるという巨大ダムが作られ、村がそっくり水に沈む。
映画の冒頭で、村がすでに水没したあとの映像が映しだされる。
ボートが進む先に棒が水中からでていて、近づいてみれば電柱の先端。
家や、田や、人が歩いた道はずっと下にある。

さかのぼって人が暮らしていた頃の様子がでてくる。
だからやがて水中になる世界で人が生きていることになって、不謹慎な言い方かもしれないけれど、SF的になる。
水に関わるSFというのが、僕は好きで、ケビン・コスナーの映画『ウォーターワールド』とか、椎名誠の小説『水域』とか思い出してしまう。
あるいは大きな力が小さな人の希望を圧倒するように押しよせるという意味では、大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』というのもある...

でも回想になるシーンは、悲観するのでも、抗議するのでもなく、ひたすら楽しく、力強く、食べるものを栽培し、あるいは採取し、調理し、食べる。
先祖から長く住み慣れた土地をまもなく去らなくてはてはならないのに、ここに暮らしていられる間はとにかく明るい。
ひとり暮らしのババは、「人生がこんなに楽しくていいかと思うほどだ」と語りながら、野に作った簡素な風呂にひたっている。

監督でありカメラマンである大西暢夫さんは、何度も徳山村に行き、食べることを通じて村の人と気持ちが通じていく。
今食べるものがたっぷりあり、それがおいしく、心が通じた人が訪れもして、いっしょに食べる。
それで人生はいい。
という、生きることをおおらかに肯定する思いがが、映画でふれる者にもまっすぐ伝わってくる。
体を動かして食料を調達して、それを食べる。
それがふつうなのに、過剰に食べて、あとで運動をして過剰なカロリーを消費しようとしている暮らしの異常さにも思い至る。

 なぜ、15年も通い続けていたかとよく聞かれるんですが、ジジババたちに「大西さん、毎年違うよ」と言われるんですよ。今年はこのくらいというのが、天候、気温、山の具合によって加減が違うわけで。塩ひとふりの加減までぜんぶ違う。
(『水になった村』(映画パンフレット) ポレポレタイムス社 2007)

幸田文の『崩れ』で、

自然を見るには、どうしても最低で一年四季は見ておかなくてはうまくない。

という文章を読んで以来、僕はそれを行動指針にしようと思っているが(なかなか実行できないのだけど...)、大西さんは四季どころか、それを15年も続けてこられたわけだ。
風景を眺めるだけなら最低でも四季で十分としても、そこに暮らす人の生き方にまでふれるにはそれくらい繰り返さなくてはならない。

映画の終盤は、村の人が暮らした家がついに壊され、あるいは亡くなる人があり、あるいは移住した先ではキュウリ1本でもスーパーマーケットに買いに行くようになってしまった、寂しい映像になる。
映画はダムの建設の当否を直接にはいわないが、ダムを作ることは、しっかりした手応えのある暮らしをしていた人たちの人生を沈めることになることを心しなくてはならないと思う。

幸田文は同じ『崩れ』で、文章で読むだけではなく、直接その人から話を聞くと、意味がすんなりと了解されるということがある、と書いている。
僕にも思い当たることがあって、可能なら「その人」に直接会って話をきく、ということも行動指針の1つにしたいと思っている。
深谷シネマでは上映後に大西監督の話が予定されていたので、それにあわせて映画を見に行ったのだが、撮影のときの様子など、言葉が暖かい熱とやさしい感情をおびていて、ときにジンとしながら話を伺った。
映画もよかったが、話もあわせてきくことができて、たっぷりと充実感があった。

          ◇          ◇

話の終わり近くに、今している仕事にふれられ、精神病院の患者を撮影する仕事を継続していて、本にして出版したというので、後日、本を見た。
『ひとりひとり 僕が撮った精神科病棟』というタイトルで、たしかに患者のひとりひとりが明るい笑顔で写っている。
それにしてもダムに沈む村人の暮らしを映像にすることの意味は了解しやすいが、精神を病んで病院で過ごす人の写真を本にして公開することの意味が釈然としないし、現実的にどういう見られ方をするかも考えてしまって、とまどった。

僕は学生時代に横須賀の精神病院で3年間働いていたことがある。
病院は三浦半島の鷹取山に続く丘陵にあり、前は東京湾を見下ろしていて、大晦日に当直が当たると、除夜の鐘のかわりに碇泊している船が鳴らす汽笛が聞こえてきた。

仕事は、夜間や休みの日の看護助手のようなことだった。
先輩がやめるのにあたり、あとがまとして僕にどうかと打診してくれたのだった。
大江健三郎という作家を、僕は同時代を生きる先導者と勝手に思っていて、大江が死体置き場のアルバイトをして『死者の奢り』を書いたことを思い浮かべもして引き受けた。

働きはじめるころ、院長の招待で、やめていく先輩、主だった(当時の言い方で)看護婦さんたちと、横浜の中華街の小さな店の2階で食事したことがある。
院長は竹山恒寿さんといって、催眠術の研究をされていることもあって一般的にも知られた人で、週刊誌の企画で大宅壮一に催眠術をかけたり(大宅壮一が人のいいなりになったのはそのときだけといわれた)、作家の創作に精神病理学的な影響が現れていることを検証する病跡学(パトグラフィー)という領域があるが、芥川龍之介を題材に、日本で最初の病跡学の論文を書いたとうような、広い関心をもつ医師だった。
院長も交替の時期で、その後僕は病院でお会いしたことがない。
後任の精神科の医師から話をきいたり、たまたま大学で作家で精神科の医師でもある加賀乙彦がもっていた精神医学の講義を受けたりした。

たしかその講義の初期、日本の精神医学史のような内容のときに、この国で精神病にかかるということは、精神病にかかる不幸と、この国に生まれたという2重の苦難を負うことだと、精神医学黎明期の医師が記したときいた。
日本では精神を病んだ人への対処が遅れていて、非人道的でさえあることを愁いたわけだが、今になっても根本的に改善はされていないように思える。
障害者が暮らしやすいようにという意志は社会的合意になっているが、その場合の障害者は身体や知能の障害が想定されていて、精神の障害者は含まれていないように思えることさえある。
しばらく前のことになるが、公営プールの入口の看板に、入場を制限されるものが列挙されていて、酔った人、入れ墨の人などと並んで精神病者とかかれているのを見たことがある。暮らしやすいようにどころか、精神を病むと社会から拒否・排除さえされる。

 僕は、この本を出版するのに勇気が必要でした。しかし、患者さんが自分の写っている写真を見て素直に喜んでくれるのです。背中をポンと押された気持ちでした。
(『ひとりひとり 僕が撮った精神科病棟』 大西暢夫)

大西さんもこの本をだすことに悩んでいるが、精神障害者に対する偏見をなくしていきたいという思いがあって、本をだすことを決意したようだった。
そういう意志に基づくとしても、やはり僕には、実際に精神病院に入院している(あるはしていた)人の顔を写した写真を出版することに納得しがたい思いがある。
そこで思い出したのは、(この回はしきりにもちだすことになるが)大江健三郎の文章だった。

この時期の自分の小説を読みかえすと、そこに僕の言葉が表現しているのは、あきらかに障害のある息子から啓示された、顕現としての人間存在の不滅性なのです。(中略)なにものもこの障害児が生きた He has lived という事実を、かれがこの世にいた He has been という事実を、取り消すことはできない。
(『小説のたくらみ、知の楽しみ』 大江健三郎 新潮社 1985)

この写真集は、写された人たちがそのように生きた、この世にいた、それは取り消すことができない−ということの目に見える記録なのだと考えて、自分なりにようやく納得した。
人生に意味はないかもしれないが、でもこうして生きたという事実はかけがえがない。
写真集では、ほとんどがいい笑顔をして写っている写真が選ばれている。
精神を病んで入院している人たちだから、苦しい時間もあるはず。
でも、『水になった村』の人たちと思いあわせ、おいしく食べること、笑顔でいること、人と気持ちが通じることで、いい人生になるのだと思う。

もうひとつ大江健三郎を引っぱってくると、小説を書くことの意味について、幾度か夏目漱石『こころ』の文章を引用している。

「記憶してください。私はこんな風にして生きて来たのです。」

まさにその言葉を実現させるかのように、大西さんはペンではなく、その職業の道具であるカメラをつかって、「明るい遺影の撮影会」というのまでしている。
滋賀県にある高齢者が通うデイサービスの施設で、お年寄りたちが遺影のことを気にかけていることに気がついた施設長が、それならきっちりプロにとってもらおうと考え、大西さんに依頼された。
これは本ではなく、NHKの番組で見たのだが、いい番組だった。
人生の終盤をたいせつに生きる人、それを心をこめて見送ろうとする人。
こんな風に人生の最期を送り、送られたらいいと思う。

          ◇          ◇

このホームページ[荒川ゆらり]を始めたとき、僕は自分で見つけた寄居の町のおもしろいところ、荒川のおもしろいところを、いくつかでも拾ってみようと思ったのだった。
ところがわずかの間にも僕が拾ったところが失われていくのにも気がついた。
幸田露伴が泊まった宿は跡さえなくなっていき、レトロな床屋さんは営業をやめ、路地にあった井戸は周囲の家ごと壊されて再開発用の空き地になった。
それでこのホームページの意味の半分は、失われていくものの記録ということになった。
また、ホームページに記すのにあたって、ホームページ上の文章と写真だけではデジタルなデータだけなので、ノートを用意して、話を伺った人からサインをいただくことを始めた。
大西さんが写真によってダムに沈む村や病院でされたように、僕はささやかながら文章と写真といただいたサインによって、寄居や荒川に関わる人が生きた He has lived という事実、この世にいた He has been という事実を、記録・保存しているといっていいと思う。

[荒川ゆらり]より前から[山を歩いて美術館へ]というホームページも続けている。
山と美術館に興味があってのことだが、もうひとつ内心の動機があった。
始めた当時、息子が思春期で会話が成り立ちにくくなっている一方で、僕は長く生きないだろうという予感があって、父はこんなところを歩いて、こんなものを見て、こんなことを考えていた、ということを、いくらかでも残して伝えたいと思っていた。
だから、山と美術館のことを記すにしては、過剰に個人的な事情や思いを混ぜこむこともあった。
それはまた、大江が漱石を引用した、
「記憶してください。私はこんな風にして生きて来たのです。」
という言葉どおりのことだったと思う。

昨年、僕の旅の企画からNHKで「わたしの旅」という番組が制作され、放送された。アントニン・レーモンドやブルーノ・タウトの足跡をたどる旅だったのだが、どういう人がこの旅を考えたか、ということがこの番組の制作意図にあって、僕の個人史が内容にもりこまれた。
準備段階では、子どものころからの写真をすっかり見直して、放送につかえるふさわしいのがあるか探したりして、あれこれ人生をふりかえることになった。
1週間ほどのロケでも、レーモンドやタウトのことより、自分のことをしゃべるほうが長かったくらいで、放送が終わったときには、自分の人生の総括がすんだような気分になったくらいだった。
やがて僕にも孫ができるとして、その孫がものごころつくころ、僕は生きているかどうかわからないし、生きていてもよほどくたびれているに違いないが、かつては船に乗ったり、坂道を歩いたりして、元気だった様子を残すことができた。

かつて僕はなんの痕跡も残さずにいなくなりたいと思っていた。
いつからか、このようにして生きた、ということを最低限は残しておきたいと思うようになっていた。
それだけ現実として終わりのときを考えるようになったのかもしれない。

参考:

  • 『水になった村』 監督:大西暢夫 ポレポレ東中野 2007
    『水になった村』 (映画パンフレット) ポレポレタイムス社 2007
    『おばあちゃんは木になった』 大西暢夫写真・文 ポプラ社 2002
    『山里にダムがくる』 文:菅聖子 写真:大西暢夫 山と渓谷社 2000
    『ひとりひとり 僕が撮った精神科病棟』 大西暢夫 精神看護出版 2004
  • 『ドキュメント日本の現場 明るい「遺影」』 NHK総合テレビ 2008.2.14
    『プレミアム10 ザ・ロード わたしの旅』 NHK総合テレビ 2007.6.29
  • 『ウォーターワールド』 監督:ケヴィン・レイノルズ 主演:ケビン・コスナー 1995
    『水域』 椎名誠 講談社 1990
    『洪水はわが魂に及び』 大江健三郎 新潮社 1980
  • 『小説のたくらみ、知の楽しみ』 大江健三郎 新潮社 1985
    『心』 夏目漱石 漱石全集第9巻 岩波書店 1994
  • 『崩れ』 幸田文 講談社文庫 1994
  • 深谷シネマ
  • 10月第4週 美術館が建築を見て回る−深谷の近代建築ツアー