3月最終週 春の小川、春の別れ 


小川町と寄居町の境にある金勝山の上にある小川げんきプラザで1年を過ごした。
四季のうつりかわりをひとめぐり経験したのだが、慣れない職場で先が見通せなくて、なんとなく不安をいだいたままだった。
新緑が目にさわやかな季節になり、2年目はもう少し穏やかな気持ちで、ゆっくりそれぞれの季節を眺められるだろうと思っていたときに、また転勤することになった。
小川にはおもしろそうなところがいくつもあるのに、まだ見残しているものが多い。
あとわずかな日のうちにも、いくつか行けたらと、あたたかな日に歩いた。

■ 仙覚律師顕彰碑

仙覚律師(せんがくりっし 1203-?)は、小川に暮らしていた頃の1269年に『万葉集註釈』全10巻を完成させた人で、その顕彰碑を見に行った。
町立図書館の近くから道案内の標識にしたがって坂道をあがると、テニスコートがあって、数人が軟式テニスをしていた。
中城(なかじょう)という室町・戦国のころの山城の跡でもあり、土塁に囲まれ、大木におおわれた薄暗い平坦地に大きな碑があった。
別な道を下ると、またすぐぐつうの住宅街に戻る。
万葉集−テニスコート−中世の山城、というなかなかシュールな組み合わせで、明るく開けた盆地のなかに、こんな密で、閉じた、別宇宙のようなところがあるのが意外だった。

土屋文明(1890-1990)は1933年(僕のなかのカレンダーでは、ナチスから逃れたブルーノ・タウトが日本に着いた年)に、この顕彰碑を訪ねてきている。

岡の上に仙覚律師(せんがくりし)の碑をもとめめぐりて空濠(からぼり)の跡にいたりぬ

古の人の切りたる濠のあと雑木芽ぶかむ菫ぐさ咲きぬ

(『山谷集』(さんこくしゅう) 土屋文明 岩波書店 1935)



● 有機野菜食堂わらしべ
埼玉県比企郡小川町大字小川110-1 tel. 0493-74-3013

仙覚律師顕彰碑のある岡からくだると、いきつけのわらしべが近いのだが、まだ昼食の時間には少し早い。
春でうらうらと浮き上がってくるような気分の日なので、外で食べたくもある。
それで、わらしべでピタパンサンドを作ってもらい、あと、のらぼう菜(な)マフィンを買って、外で食べることにした。
ピタパンサンドというものを、僕はこの店で初めて知った。もとは中近東の食べ物で、中空にふくらませたパンを1/2に切って袋状にした中に、好みのものをサンドイッチする。
今日は玉子のキッシュを入れてもらった。
それと小川町特産ののらぼう菜をいれて焼いたマフィン。

僕はこの店のことを、埼玉県立川の博物館にいた頃に西川さんに教えられていて、小川げんきプラザに転勤してから小川町で昼食をとる機会があったときに真っ先に行った。
元は時計屋さんだったという建物が、いろんな人たちが関わって食堂に作り替えられたことがメニューに記されている。
カウンターいす・・・お客さま(匿名)より寄贈 
          塗り仕上げ スタジオ木の香さん
入口の壁・・・お助け大工江沢かおるさん
くんたん竹のシルバー受け・・・井澤さん
いすカバー&クッション部隊・・・えんちゃん さっちーさん
壁塗り隊・・・松本ゆきかさん 中村じゅん子ちゃん
その他、多種大勢が記されていて、その人たちのやさしい思いが店の空気に漂っている。

若い店主夫婦はそろってすてきな笑顔で、そろって自転車好き。
有機栽培の野菜をつかったパスタとピザ料理が主なのだが、平日の昼には、日替わりできつねうどんや麻婆丼なんていう和食や中華や洋食のランチもあって、うまくて安いので、昼どきにはついそちらを食べてしまう。
小川の町はずれ、寄居町との境の金勝山にある小川げんきプラザから、町のほぼ中心にあるわらしべまでは、同じ町内とはいいながら、5キロくらいある。
町内に用事があってでかけるときには昼ころ出て寄るようにしたり、家への帰り道、少し遠回りになるが寄ったりしたのだったが、1年かかっても数種のパスタをひととおり食べ終えられなかったし、ピザにはまったく届かないうちに転勤になってしまった。
今度の早い転勤が残念なことにはもう1つ理由がある。
入口には、メニューを手書きした黒板と、愛用の自転車

ときどき、野菜を食べていて、野菜の命をもらって僕の命を生かしてもらっている−としみじみ感じることがある。
牛や鳥や魚でも同じことというか、もっと直接に動いて生きている命とひきかえにということなわけだが、なぜか野菜のほうに多く感じる。
この店でたくさんの命をもらい、ずいぶん長いいい時間を過ごした。

職場からも住まいからもちょっとした距離があるので、はかったようにして行かなくてはならなかった。
小川の町のなか、近くに住んで、今夜はわらしべで食事にするかな、なんて思い立ったら気軽に行けたらいいのにとよく思った。
小川町駅から南に向かう通りをまっすぐ行って突き当たったところに長屋があって、ひかれている。
あそこなんていい。
あるいは駅から反対側になるが、兜川に沿ったあたりも、とても駅近くにこんな場所があるなんて信じられない思いがするほど、のどかで静かですてきだった。
あのあたりもいいと思う。
いつかそうする選択肢もあると、別れを惜しむ気持ちをなぐさめた。
いい本やいい映画に出会って人生の大きな収穫をえたと感じるのと同じように、わらしべに出会えたのも幸運だった。

■ 兜川でランチ

わらしべで用意したお昼をもって、兜川をさかのぼっていって、途中の川原に腰かけて食べた。

兜川は金勝山近くの山中から発して、小川の市街で槻川に注ぐので、兜川という名の川は小川町内だけで完結する。
まわりはゆったりした田畑と人家。
やや離れたところに金勝山。
すぐ下を兜川がゆっくり流れている。
空気がゆれているという程度のおだやかな風が吹いている。
ベンチに10人ほどの高齢者が集まっているが、桜の下の酒盛りという雰囲気ではなく、なかのいい友達どうしが集まってお昼の会をしているふう。穏やかで、とくに気にならずにいられる。
兜川から畑を経て、向こうに金勝山を望む

玉子のキッシュがはいったピタパンサンドは手頃なボリュームがあるし、のらぼう菜マフィンは囓るとなかは菜の緑色がきれい。さっくりとした歯ごたえがあり、とてもおいしかった。
わらしべでのひとまず最後の食事が店の中でなかったのが寂しいようでもあるけれど、今日は外で食べていい日だったと思う。
日射しを浴びるピタパンサンドと、のらぼう菜マフィン

■ 小川盆地

3月31日には、さいたま市に行き、県庁で新たな勤務先が記された辞令を受け取ったあと、小川げんきプラザに向かって川越経由で小川行きの東上線に乗った。
電車は下里あたりのゆるやかに起伏する林を抜けて、明るい小川盆地に入っていく。低い山並みに囲まれた盆地の全景が一気に目にとびこんでくる。
盆地のなかはいっせいに春をまといはじめているところで、散在する木々が淡い緑色をおびはじめているし、白や黄やピンクの花をつけている木もある。夢の中で旅していて、見知らぬ町に入っていくかのようだった。
ふつうのときでも見事な眺めだったろうが、別れを惜しむ気持ちが加わるからいっそう心に沁みた。

とても遠いところに去るのではなくて、車に乗れば40分ほどの距離で、また折りにふれ来ることになるだろうから、別れなどというとおおげさなのだが、木々のやさしい眺めや、ふわふわした空気が感傷的にする。

参考: