9月第3週 生駒山へ  (寄居-生駒の6)   


この4月から図書館に勤務していて、9月に神戸で全国図書館大会が開催されるので参加することにした。自前で行くのでフトコロが苦しいかわり勝手な寄り道もできるので、欲張った目的をもってでかけた。

1 佐々紅華(寄居に別荘をもっていた)がミュージカルを上演した生駒劇場の跡をみる
2 ブルーノ・タウトが生駒山の小都市計画を作った、その予定地跡をみる
3 東大寺のこと(長瀞や鎌倉でお会いした小泉淳作さんが今ふすま絵をかいているし、同郷の須田剋太も東大寺で絵をかいていた)
4 気になりながら行きそびれている関西の建築を見る
5 たまたま生駒に移り住んでいる学生時代の先輩と30年ぶりにお会いする

(以下、2日ずつほどのことを1日のようにまとめて記しています)


第1日 生駒劇場 生駒山上遊園地


■ 生駒劇場

タウトの生駒山と佐々紅華の生駒劇場が重なるのが奇縁なのだが、さらに加えて、さあ生駒に行こうとすると学生時代の先輩、前田徹生さんが生駒に住んでいる。もともとは東京の人なのだが、憲法を専攻して今は桃山学院大学の教授で、大阪に一時暮らしたあと、生駒に移った。
連絡をとると、僕の生駒探索に興味をもたれ、同行していただくことになった。

奈良に着いてまず大和文華館へ。所蔵品も吉田五十八の建築もゆったり、たっぷり、ぜいたくで、ここもいつか行きたかったところなので堪能した。
見終えた頃に駐車場で前田さんと待ち合わせ、車に乗せてもらった。

          ◇          ◇

生駒駅から宝山寺に向かう参道をいくらか上がった途中で車を置いた。
『生駒市誌』に記載があった森田スプリングの脇の細い道を入ると、宝徳寺という寺に突き当たる。
細いが急な流れが境内を走っている。
奥に「韓国人犠牲者慰霊碑」があった。大阪と奈良を結ぶ今の近鉄奈良線は1914年に開通したが、そのために生駒山を貫いたトンネル工事で亡くなった韓国人のためのもので、1970年に近畿日本鉄道と寺とで建てた。
宝徳寺の僧、羹栄熹さんに話を伺うと、羹さんはこの寺の僧としては2代目。寺は、もと大阪にあり、済州島出身者の寺だったが、戦後ここに移ったという。
清島利典さんに見せていただいた資料の中に、「生駒劇場水泳場」と立て札が立った池のような場所の写真があったが、清島さんによれば寺があるのはその水泳場の跡とのことだった。

寺より一段高い位置には、住宅がたてこんでいる。
生駒劇場は戦後まもなく壊され、土地を切り売りする形で住宅地になった。
細い道で立ち話をする女性2人がいらして話を伺うと、1人の方が、
「家を建てるときに、大工さんから、ここには前に劇場があったといわれた」
という。

『生駒市誌』に記されていた森田スプリングに寄る。
「生駒劇場のことで...」と切り出すと、思い当たるところがあるらしく遠くの席から明るい笑顔で立ち上がった女性がいらした。
直接には知らないが、解体後の空き地の頃の記憶があり、今、寺になっているところを相撲の巡業の練習場所に使っているのを見たことがあるという。
父の世代は劇場を知っているはずだが、すぐ近くの井の口さんが同じ世代だから行ってみるといいと教えられた。
森田スプリングの事務所の3階から眺めると、生駒劇場があったあたりが見わたせた。宝山寺の裏山が緑の木をかぶっている。

生駒劇場跡付近をみおろす。
右下の三角の屋根が宝徳寺の一部。
左でとがっている山は、宝山寺の背後に岩壁が立っている、その裏側になる。猫の耳のように、向こう側はむきだしの岩、こちらはふさふさとした緑におおわれている。

井の口商店に寄った。
小さな店で、たばこや菓子や文具を売っている。香典袋なんかもあって、ちょっとしたコンビニ。話を聞いている間に、ふらっと寄ってガムを買って行った女性がいた。
店番のおじいさんは芝居を見に行ったことがあるという。
回り舞台もある立派な劇場だったが、ちょっとでやめた。
建物は大阪から移した。資材を鉄道で運んだ。長い梁は貨車2両にまたがってのせて、瓢箪山までは平坦地だからいが、あとは無理で、馬車で運んだ。
戦後まもなくに解体されたが、材木はどないしたか。
瓦は大きくてふつうの家には使えなかった−といった昔話をきかせてもらった。
(もしかして発掘調査をすると大きな瓦や材木ががでてくるだろうか?)

跡地は土地ブローカーが買い、劇場へいく道まで一部を宅地にして売ったというから、なお劇場があったことがわかりにくくなっている。
あたりには劇場がなくなってから暮らし始めた人が多いようだ。
劇団も関東からやってきて、短期間で引き上げたのだし、相当の年数も経ったから、この土地には劇場の記憶をもつ人、懐かしいと感じる人もごくわずかしかないようだ。
生駒劇場はここではすっかり埋もれていきそうで、むしろ遠い埼玉県の寄居に記録と、残そうという意志が伝わっていくことになるのかもしれない。

先輩の前田さんは生駒で2カ所に住んだが、はじめに暮らしていたのは生駒劇場があった場所よりやや高いところにあるマンションで、通勤には前田スプリングの前の坂道を下って生駒駅に向かっていたという。
僕の数少ない知己のうちでも、とりわけ尊敬していた先輩がピンポイントに指定したかのように生駒劇場の近くに住んでいたというのは信じられないような偶然だった。


■ 宝山寺
奈良県生駒市門前町1-1

少し高度を上げて、宝山寺に行った。
京都や奈良の文化財的古寺と違って、関東の人間には宝山寺の名前はなじみがないが、大阪あたりでの信望の厚さはただならぬものらしい。
参道の柱に寄進額が刻んであり、二千万円とか三千万円とかいうのもいくつもある。
1日と15日の真夜中にお参りすると御利益が多いといわれていて混み合うらしいが、僕らがいったときは雨模様でもあり閑散としていた。
重要文化財の獅子閣は残念ながら工事中で、クリストの梱包芸術状態だった。


■ 生駒山上遊園地
奈良県生駒山頂 tel. 0743-74-2173
http://www1.kcn.ne.jp/~skyikoma/


さらに高度を上げて、山頂にある遊園地の駐車場に車を置いた。
週末は夜まで営業しているからゆっくり間に合うはずだったのに、今日は悪天候のために5時でしめるというから、あぶなく入りそこねるところだった。
いくつもの遊具が配置されているなかを、家族連れや若い男女がポツリポツリと歩いているのに行き違う。 
ときおり傘を広げるくらいに霧が流れたり、やんだりしている。
空と空気の区別がつかない、うすらさびしい雰囲気になっている。

ゆるい坂をあがりきった位置に飛行塔があった。
タウトが80年ほど前に描いたスケッチにあるとおりのスタイルで目前にある。
中央のタワーから鉄骨の腕が4本のび、その先にワイアで飛行機が吊られている。
乗ってみたかったが、この天候のおかげで運転休止になっている。
タウトの計画が実現していれば、この飛行塔を特徴的な基点にして、ホテルや住宅が散在しているところだった。


タウトが生駒山嶺小都市計画を作成したことは、タウトの日記や当時の新聞報道もあり、その後の歴史書、研究書などでも、いくつもふれたものがあるが、なぜそれが実現しなかったかは、僕の知る限り、記されたものがない。

私の計画は極めて自由でいいという、──要するに、美しい山上都市ができればいいのだ!すばらしい課題である。これこそ『都市の王冠』だ! 私にこれまで与えられた最もすばらしい課題の1つである。
(『日本 タウトの日記』 篠田英雄訳 岩波書店 1975 )

タウトは生駒山の計画地を訪れた日の日記にそう書いている。
「アルプス建築」を構想したくらいに高所への憧れを強くいだいていた建築家だから、アルプスほどの大規模・高峰ではないにしても、山上都市の計画は魅力的だったはずだ。「私にこれまで与えられた最もすばらしい課題の1つ」という喜びは素直にそのとおりだったろうと思う。
でも「私の計画は極めて自由でいい」というのがひっかかる。限られた敷地に個人住宅を設計でもするならそういうこともありうるだろうが、大きな開発計画にあたって「極めて自由でいい」ことはないだろう。
タウトの案では、飛行塔の近くにホテルなどの施設が集中するほかは、森のなかにゆったりと住宅が配置してあり、図面には住宅数63とあった。
計画案ができてみれば、発注者側の経営事情と折り合わなかったということだろうか。
霧雨のなかで停止している飛行塔を眺めていると、タウトの失望がよみがえってくるようだった。

近くに生駒山宇宙科学館の廃墟がある。
1969年に開館し、1999年に閉館。
開館当時は複数の建築雑誌に掲載され、注目された存在だったかもしれない。
ただ、記事の文章などをみると、幾何学的・造形的発想や経過ばかりが考慮され、山上に宇宙を想う施設をつくることの理念はとくに考えられなかったようだ。
タウトが山上都市計画を構想した土地であることにもふれていない。
タウトへのオマージュをこめてもよかったのではないかと思う。

ブルーノ・タウトの足跡をたどると、せつない気持ちになることが多い。
今日も霧雨、停止した飛行塔、タウトに直接関係はないが、廃墟の科学館。
また、だからこそ僕はいっそう心情的にひかれもする。


第2日・第3日 東大寺


■ 東大寺図書館
奈良市雑司町406-1(南大門東隣)
http://www.todaiji.or.jp/l/index.html

東大寺に図書館があることは、図書館づとめになって初めて気がついた。
長野県富士見町の栗本図書館と同じ、谷口吉郎の設計で、栗本は1979年に谷口没後に完成したが、東大寺はそのおよそ10年前の1968年にできている。
南大門の手前を右に入ると図書館を囲む土の塀があった。鹿が入らないように門を閉めてあるのを押して入り、また閉めておく。
こじんまりした庭の小道を歩いて、端正な建築に入っていく。
庭の樹木も、入り口付近に飾られた花もいい。

閲覧室は、椅子が一方向を向いていて、本を読む部屋というより、祈りのための部屋のよう。読書も信仰も精神的であることでは共通していることだから、これでいいのだと思う。

ところがここは、誰でもいきなり行ってみてよい本にめぐりあえる図書館ではない。開架図書はほとんどなくて、貴重な本は書庫に所蔵されている。調べて予約して閲覧して、大きな価値にめぐりあえる。

■ 東大寺二月堂

先輩の前田さんと二月堂に向かった。
そこで、東大寺のなかにある中性院の住職で、二月堂の院主でもある北河原公敬(きたがわらこうけい)さんにお会いした。
東大寺に大仏を建立することを発願した聖武天皇と后の肖像画を、日本画家の小泉淳作さんが奉納したが、その制作をプロデュースされた星忠伸さんから紹介していただいた。
小泉さんの鎌倉のアトリエにも伺ったことがあること、東大寺で絵をかいていた須田剋太と同じ町に生まれ、暮らしていることなど、僕もおぼろながら東大寺に縁がある。
寄居の佐々紅華と生駒劇場のこと、近く東大寺で『勧進帳』1000回記念公演を予定している松本幸四郎と寄居の縁なども興味深く聞いていただいたりした。

僕のほうでこの日何よりもお聞きしてみたかったのは、そんなことも含めて、このところ偶然が続いていくことの不思議についてだった。
たまたまいくつか偶然が続いているというより、密度と頻度が加速度的にましている気さえする。
推理小説が終盤にいたって、無関係にみえていたいくつものことのつながりが明かされ、物語が閉じるように、僕の人生のしめくくりが近づいているかのように感じることがある。
それに対して、北河原さんはこういわれた。
もともと仏教の教えにはすべてのことに縁があるということがあるが、それに加えて、あなたが本を調べたり、人の話を聞いたり、現地を見に行ったりして、動いているから、いっそう新たな結びつきが生まれ、ひそんでいた結びつきが見えてくる。動くことが実を結び、報われているのだから、終わりが近いというような考え方をすることはない。
その言葉をきいて、ブルーノ・タウトと井上房一郎の関係のことを思い出した。
若い井上房一郎は、50歳を過ぎてナチスのドイツを逃れてきたタウトの日本での生活を支えたのだったが、タウトは日記にしばしば井上房一郎への厳しい批判を記していた。
井上はそのことを苦にしていたが、のちに安部能成に「何もしない、何も関わりを持たぬより、世話をして不平を言われることの方が勇気を必要とする」といわれて、その言葉がとても重くひびいたという。
僕も、誰にも会わずに引きこもっていたらどんなに平穏だろうと思いながら、−僕の自然な性癖としてはそのほうがなじみがいい−、でも人と出会って教えられることへの楽しみ、それを知らずにすぎてしまうことは惜しいという思いから、いつか終わるまでの生きている今のうちはと思いながら動いている。
北河原さんにそれでいい、それで人とよい結びつきができると励まされた思いがあり、それが井上房一郎が重く受けとめた「何もしない、何も関わりを持たぬより...」という言葉につながって、しばらく足跡をたどってきた人と、生き方の指針のようなところでも重なるところができたかと感慨があった。

二月堂の遠景。うしろの山は若草山。

■ 十七夜二月堂盆踊り 

東大寺で盆踊りがあるというのが意外だったが、ちょうど時季が重なったので、夜になり、行ってみた。
さすがに東大寺での行事だから、まず二月堂本堂で法要があってから、法華堂の前の広場で盆踊りが始まった。
河内音頭を初めて聞いた。言葉も旋律も流れて、踊るにもノリがいい。
奈良から生駒山をこえたら河内にでるという地理感を今度の旅で実感したが、それにしても、格式が高い東大寺の境内で、河内の音楽で盆踊りを催すという幅広さ、奥深さに感嘆した。


第4日・第5日 全国図書館大会


■ 全国図書館大会 全体会

神戸に移動し、神戸ポートピアホテルと神戸学院大学で開催された全国図書館大会に参加した。
池内紀さんの「図書館の小宇宙」と題した記念講演があった。
これまでの本との関わり、図書館との関わりを話されて、引き込まれながら聞いた。
今、具体的な関わりとして、斜里町立図書館の塔に名前をつけ、文字も書いたという話があった。北のアルプ美術館に講演に行ったとき、通りかかった図書館の建物にひかれたのだという。
北のアルプ美術館といえば、館長の山崎猛さんに、先月、尾崎喜八の碑前祭でお会いしたばかり。こんなところでまで、また淡いながらつながりがあった。

■ 全国図書館大会 分科会

東京大学経済学部の小島浩之さんの話は、破綻後の山一證券から、散逸を免れて資料がほぼ一括して東京大学に収まった経緯とその後の保存活用について説明があった。つい先日、東京大学工学部の図書館に行き、タウトの図面を見て、東京大学の資料吸収のパワーに圧倒されたばかりだが、今もその力は衰えていないようだ。

日本交通公社旅の図書館(http://www.jtb.or.jp/library/)の渡邉サト江さんからは、「テーマのある旅」を運営理念に30年継続してきた活動の説明があった。僕はこの図書館には行ったことがないが、東京駅から渋沢栄一像、日本銀行、日本橋に至るあたりはよく通る道筋で、今度寄ってみよう。

阪急学園池田文庫(http://www.ikedabunko.or.jp/)の田畑きよ子さんの話は、今度の旅行の目的の1つの生駒劇場に重なってくるところがある。休憩時間にお話をしたら、自分の書いた文章でも生駒劇場にふれているから、あとで送ってあげましょうといわれた。

この日もいろんなことが重なってきて、旅の密度がいちだんと濃くなった。


第6日・第7日 浄土寺・司馬遼太郎記念館・狭山池博物館
        (重源+安藤忠雄)



■ 浄土寺(じょうどじ)浄土堂
兵庫県小野市浄谷町2094

神戸市街からは北西、内陸方向に電車で1時間ほどの小野駅で降り、タクシーで浄土寺に着いた。
重源が、大仏再興事業の拠点として7か所に東大寺の「別所」を造ったうちの、「播磨別所」がこの浄土寺。
浄土堂は、屋根にそりがなく、すっきりした姿をしている。

中の中央には、快慶作の阿弥陀三尊が、西を背にして立っている。
内部の柱は朱色。
夏の夕日がさしこむと、光が反射しあって堂内いちめんが赤く染まり、極楽浄土を思わせる光景になると聞いていて、いつか行ってみたいと思っていた。
僕が行ったのは、秋の薄ぐもりの午前だったが、ひととき日射しが強くなった時間があって、内部がふわっとふくらむように赤みをおびた。なるほど強い夕日が直接にさしこんだら鮮やかだろうと、いくらかしのぶことができた。

● ホテルシーガルてんぽーざん大阪
大阪市港区海岸通1-5-15 tel. 06-6575-5000
http://www.hotelseagull.co.jp/

大阪に移動して、湾岸のホテルにチェックインして荷物を置いてから、近くのギャラリーめぐり。

安藤忠雄設計のサントリーミュージアム天保山でIMAXシアターを見る。
ギャラリーヤマグチクンストバウでは「Art Camp 2008」という展示があった。
オフィスを改築してギャラリーにしたのか、ヨーロッパのどこかの街にいるような気分になって、遠いはるかな旅情を覚えてしまった。
CASO海岸通ギャラリーでは、大阪市所有の現代美術作品を展示してあった。粗いコンクリート面の上に、プレハブよりは上質な箱を組み上げてみた−かのような、仮設感がいい。
クラシックなものを見続けてきたあとには現代美術が目に新鮮だった。

ホテルは安治川(あじがわ)が大阪湾に流れ込む河口近くにある。
安治川は旧淀川の本流だが、まっすぐ流れる新しい川が開かれるとそちらが淀川になった。荒川と隅田川の関係と同じになる。
ホテルの部屋から、対岸の人工島、舞州(まいしま)にあるカラフルごみ焼却場が見えた。
フンデルトワッサー(1928-2000)がデザインしたもので、ウィーンのシュピッテラウ焼却場は間近まで見に行ったが、河口先端部の人工島間の移動は簡単ではなくて、ここでは遠望だけで諦めた。

ホテルに泊まった翌朝、久しぶりに登山した。
ホテルやミュージアムの名前にもとられているほどに有名な天保山だが、標高4.5メートルで、国土地理院発行の地形図にある山の中でいちばん標高が低いことでも知られる。
天保山は、天保年間に安治川の土砂を積み上げてできたときは18メートルほどあり、隅田川でいえば待乳山(まつちやま)のように好展望を楽しめる場所だったらしい。
地盤沈下などで低くなって、今は公園内に、墓地の1区画のようにしてある。
それでも2等三角点があり、地元の大阪弁では「いちびり」の好対象として大事に思う人たちがあって、登山者には登山証明も発行してくれる。
近くに対岸に渡る渡し船乗り場があった。自転車でやってきて乗り込み渡っていった人が2人いた。

■ 司馬遼太郎記念館
大阪府東大阪市下小阪3-11-18 tel. 06-6726-3860
http://www.shibazaidan.or.jp/index.html

安藤忠雄が司馬遼太郎の脳の中を見せる記念館を作った。
吹き抜けの11メートルの高さの本棚に、2万冊の本を収めている。
高い位置の本をどう出し入れするのか尋ねてみたら、開館にあたって置いてからずっとそのままで、取り出しはしない。そもそも並んでいる本は司馬の蔵書ではなく、もとの蔵書は今も司馬の住居内にあり、こちらには同じものを買い集めたのだという。

司馬遼太郎は、出生地とか居住地とかに強い影響関係がない、書斎の知識人のように思っていた。
でも、かなり荒っぽい風土の河内の人で、生まれはたまたま河内だったとしても、その後もあえて河内に住む意志をもって住み続けたのだった。
駅から司馬の住まいまで歩いたくらいで河内の土地感覚がわかるとまではとてもいえないが、少なくともそのあたりの空気を呼吸したという実感はあった。

● とん文
大阪府東大阪市小阪1丁目9-1-122  tel. 06-6781-3056
http://tonbun.fc2web.com/

記念館のボランティアの人に、昼時になったのでどこかおいしい店はないだろうかと尋ねると、小阪駅の近くに司馬が愛用した店があると教えてくれた。
開店早々に一番乗りしてカウンターに座ってひれかつ定食を注文した。
ご飯やキャベツや味噌汁が先に用意ができ、カツが揚がると自家製のソースをサラっとかけて、あわせて素早くカウンターに置かれた。熱いカツにかけられたソースから湯気がフワっとゆらめいていて、もう目がおいしそうだと感じた。
食べてみて、そのとおりおいしかった。

■ 大阪府立狭山池博物館
大阪府大阪狭山市池尻中2丁目 tel. 072-367-8891
http://www.sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/

モノがたくさんあり、解説がたくさんあるという通常の博物館とは違っていた。土木施設の展示だから、おおぶりで、ゴロっとある感じ。
雷鳴豪雨のなかをかろうじて歩いてきて、繊細な気分ではなかったから、ちょうどよかった。
狭山池はかんがい池で、東大寺の初代大仏殿をつくった行基(668-749)、2代目の大仏殿を作った重源(1121-1206)とも、この池の補修に関わっている。
安藤忠雄がこの博物館の設計にあたり中心においたのが、狭山池の堤のはぎとり標本。堤の断面を模式図で説明するのではなく、堤の断面そのものをうすくはぎ取ったものをどんとすえてある。過去の時代が現物で、目で見える。ここが行基の補修箇所、ここが重源の補修箇所というように。

現代の改修工事のとき、中樋を構成する部材に、重源の改修工事の様子を記した石碑が転用されているのが発見された。(写真右上の台形のもの)。重源自身も工事にあたって古代の石棺を転用して使っていたから、柔軟な考え方は伝統だったともいえる。

● だんらん(和食旬彩食団欒 りんくう店)
大阪府泉佐野市りんくう往来北1番地 りんくうゲートタワービル25F
tel. 072-460-1231
http://www.honke-sanukiya.co.jp/index.html

関西国際空港から帰りの飛行機に乗る前に、りんくうタウンというのはどんなところだろうと駅を降りてみた。
駅付近はいくつかの高いビルを高架の歩道が結んでいて、人間的スケールがない、退屈な人工的空間だった。
海側=空港側の先端まで歩いたが、高架歩道の先は空き地。
雨はやんだが、暗い夕方で、ひとけがない。
ふりかえると全日空などが入っているりんくうゲートタワービルが見えた。
あそこにレストランでもあれば眺めがよさそうだと見当をつける。
すると本当に25階にレストランがあり、しかも窓際の席があいている!!

空港の島を眺めながら早めの夕飯にした。
今日は前から見たかった安藤忠雄の2つのミュージアムを見た。
このあとすぐ、これもようやく念願がかなって初めて見ることになるレンゾ・ピアノの関西国際空港に向かう。

和食の盛り合わせの膳、生ビール、次に冷酒。
おいしいし、しかも高くない。
この旅は僕にとってはここ数年追いかけてきた2つのことの1つのしめくくりという意味で、大事なものだった。
それにふさわしい濃密で充実した旅になったし、懐かしい出会いもあり、新たな出会いもあった。
ゆっくり味わい、飲み、最後をしめくくる至福のひとときにひたった。

参考:

  • これまでの経過:
    2007年7月第3週 佐々紅華のオペレッタ−寄居、トルコ、生駒山
    2008年6月第3週多摩川・矢口の渡しから隅田川・かちどき橋
    2008年6月第4週また『春の小川』 渋谷川のこと
    2008年9月第1週京亭で生駒劇場の地図を見る
    2008年9月第2週東大図書館でタウトのスケッチを見る
  • 生駒劇場:
    『日本ミュージカル事始め 佐々紅華と浅草オペレッタ』 清島利典 刊行社 1982
    『恋はやさしい野辺の花よ 田谷力三と浅草オペラ』 清島利典 大月書店 1993
    『大正の奈良に歌劇場の夢』 清島利典 日本経済新聞 2007.6.15
    『アーティスト・ライフ』 東京歌劇座公演 けやきホール 2007.7
    『少女歌劇の花咲き乱れ』 倉橋滋樹 日本経済新聞 2004.4.16
    『少女歌劇の光芒』 倉橋滋樹・辻則彦 青弓社 2005
    『舞踏に死す ミュージカルの女王・高木徳子』 吉武輝子 文藝春秋 1985
    生駒劇場広告 大阪朝日新聞 1921.8.10
    『蛙の寝言』 秋月正夫 山ノ手書房 1956
  • 生駒:
    『生駒市誌 資料編U』 生駒市 1974
    『大阪電気軌道株式会社30年史』 1940
    『信貴生駒電鉄社史』 近畿日本鉄道株式会社 1964
    『近鉄線各駅停車1 奈良・生駒線』徳永慶太郎 保育社カラーブックス 1984
    『生駒山宝山寺門前町の形成と大阪電気軌道の郊外開発』 鈴木勇一郎
        「ヒストリア」vol.205 2007.6月 大阪歴史学会 p107-131
    『旧生駒トンネルと朝鮮人労働者』 田中寛治・川瀬俊治・大久保佳代 共著 国際印刷出版研究所 1993

    『生駒山宇宙科学館』 建築文化 1970.3
    『生駒山 宇宙科学館』 建築 1970.3
    『博物館教育についての一試論−生駒山宇宙科学館を事例として−』 山中正宏 「地理学報」第27号 1989

    『日本ばちかん巡り』 山口文憲 新潮社 2002
    『大工の身のけずりかた 姿態都市身体建物(したいまちみたいたてもの)3=生駒山・宝山寺獅子閣』 長谷川堯 現代詩手帖 1976.3 思潮社
  • ブルーノ・タウト:
    『二千尺の生駒に建つ"山の市街" 林間3万坪に憩ひの群落 タウト博士が建設に着手』 大阪毎日新聞 1933.10.30 
    『日本 タウトの日記』 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975
  • 東大寺:
    『東大寺お水取り 二月堂修二会の記録と研究』 小学館 1985
    『東大寺法華堂と戒壇院の塑像』 倉田文作・入江泰吉 岩波書店 1973
    『入江泰吉写真集 東大寺』 小学館 1992
    『街道をゆく24 近江散歩 奈良散歩』 司馬遼太郎 須田剋太 朝日文庫 1988
    『須田剋太展 ほとばしる生命・画業50年 須田剋太』 埼玉県立近代美術館編 朝日新聞社文化企画局大阪企画部 1992
    『谷口吉郎著作集 第5巻 作品篇2』 淡交社 1981
    『建築における「日本的なもの」』 磯崎新 新潮社 2003
    『人をたすけ国をつくったお坊さんたち (土木の絵本) 日本の土木工事をひらいた人びと 道登・道昭・行基・良弁・重源・空海・空也・一遍・忍性・叡尊・禅海・鞭牛』 加古里子 全国建設研修センター 1997