10月第3週 京亭−東大寺−勧進帳 (寄居-奈良の7)


奈良から帰ってまた寄居の京亭を訪れ、生駒劇場を探した様子などを清島利典さんに報告した。近いうちにもう一度奈良に行き、東大寺の松本幸四郎『勧進帳』1000回公演を見る予定でいることを話したら、その『勧進帳』も、佐々紅華がミュージカルにして上演したことがあるものだという話になった。1923年のことで、田谷力三が主演し、若いころの(まだ喜劇俳優でないころの)榎本健一も出演していた。
浅草で上演することに反対があったのを、7代目の松本幸四郎がとりなしてくれて上演できたのだという。

その台本や、ミュージカル化するための資料なども見せていただいた。
きれを貼り合わせて、ていねいに製本してある。
台本は公演が終わればとっておかれることはほとんどないし、もし役者の誰かが持っていたにしても、その後、浅草は大空襲にあっているので焼失したろうから、佐々紅華が寄居の別荘に置いたものが唯一残っているものと考えられる。

松本幸四郎と寄居の関係としては、藤崎ハ兵衛商店に7代目の別荘があったこととして承知していたのだが、藤崎ハ兵衛商店から歩いて数分の近さにある京亭もまた松本幸四郎に、『勧進帳』に、つながっていたのだった。

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2008年10月15日、東大寺で『勧進帳』1000回公演の日。
公演は夜7時開演だが、その前に二月堂の高い舞台で日没を眺めた。
空はくっきりと晴れていて、沈みかけている夕日の上にだけ、水平にたなびく雲が一筋かかっていた。
空気が澄んでいて、かすむことなくくっきりと円形の太陽が、生駒山頂よりやや左に沈んだ。
20人ほどの人が眺めていたが、その瞬間、ほー、という感嘆の声がいくつも聞こえた。
眼下に広がる森のなかからつぎつぎにカラスが空に飛び出してきては、かあーかあーと、鳴き声を響かせながら、東のほうへねぐらに帰っていく。

右のピークが生駒山。そのわずか左の手前に大仏殿の屋根がある。(この写真ではわかりにくいが、かすかに三角の屋根と1対の鴟尾(しび)が濃く見えるかもしれない)

先月、奈良に来たときのこと、二月堂の北河原公敬さんに話を伺ったあと、前田徹生さんと東大寺境内を歩いていたら、「散歩の人」に声をかけられた。近くに住んでいて毎日東大寺を散歩しているという。
毎日歩く人ならではの見どころをいくつも案内していただいているとき、「二月堂から夕日が沈むのを見るといい、泣きたくなるほどの感動がある」とも言われた。
高いところから日の入りを眺めるのはたしかによさそうだとひかれたが、さらに「泣きたくなるほど」という形容は、ブルーノ・タウトが桂離宮を訪れて記した言葉であることに連想が結びついて、なお見に行きたい気持ちが強くなった。

それで今回は日没時刻を調べておいた。
奈良の日の入りは17:22。
そして月の出は17:19。しかも月齢は15日の満月。
若草山を背にした二月堂からは見えないが、もう後ろでは満月が地平線から昇っているはず。
そして眼下の大仏殿では、松本幸四郎が1000回の記念すべき舞台を前にして、いつも以上に緊張を高めていることだろう。
眼前の日没と、想像のなかの満月の出と役者の緊張。
しだいにクライマックスに向かっている。

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大仏殿の前の庭に入ると、今夜は前の窓が開いている。
僕にとってはこちらを視線を向けた大仏とまっすぐお会いするのは初めてのこと。
凜とする。


はじめに東大寺式衆が『散華』を唱える。5色のハスの花びらがまかれ、この空間とこれからの時間を荘厳する。
聖武天皇が大仏を造ることを発願したのが天平15年(743)の10月15日のことで、今日は東大寺にとってももともと特別な意味がある。
そして柝(き)の音が響く。
いよいよこんなすごい所で歌舞伎が始まるのだなと引き締まる。

幸四郎の弁慶が花道にでてきて最初のセリフが、やや弱いように感じた。
役者の発声がこの大きな屋外空間になじんでいなかったのかもしれないし、観客の聞く耳が慣れていなかったかもしれない。
でも舞台に移ってからはきっかりと聞こえてきた。
芝居が進み、大きな危機を切り抜けたあと、富樫に酒をすすめられて、弁慶が特大の杯をくるりくるりと揺らしながら飲む。
そしてなめらかな舞い。
見ていてクラクラと陶酔してくるようだった。

ときおり大仏殿が、両側に翼を広げた大きな鳥のように感じられることがあった。
その前で演じる人間たちは圧倒的に小さいが、小さいからといって埋もれてしまわずに、大仏殿の大きさに十分に対抗するほどの存在感があった。
ほかに適当な言葉が見つからないのだけど、とにかくカッコいい。
そして最後に花道での飛六法でいちだんと盛り上がり、終わる。

歌舞伎ではないはずのカーテンコールで、出演者たちがふたたび舞台に戻り、松本幸四郎があいさつした。
大仏の声が後ろから聞こえた、人を責めることはやさしい、でも人を感動させる難しいことを選んだからにはもっと精進するようにという言葉だったと。

クリアな日没があった。
芝居の間には、右手からかげりのない澄み切った満月がしだいに高く上がっていった。
天頂には白鳥座の十字があって、これもゆっくり傾いていった。
天の時間と、東大寺の時間と、歌舞伎の時間が重なって、完璧な一夜になった。
天気もよく、空気もよく、芝居もよい。
あれだけが惜しかったと心を残すようなことがない。
これほどの完璧さで東大寺での『勧進帳』公演が進んでいき、僕もそこに立ち会えたことで、深い満足感にひたった。

門から出ようとするあたりで、前に二月堂にお伺いした北河原公敬さんにお会いした。今日は多忙な日だからお会いすることはないだろうと思っていた。幾度も同じ感想を繰り返してばかりいるが、このところ本当に偶然が多い。この広い庭で、大勢の人が集まっているなかで、たぶん僕が存じ上げているだろう唯一の方にお会いできたのもまた不思議なことだった。

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■ 奈良国立博物館仏教美術資料研究センター
奈良市登大路町50番地 tel. 0742-22-7771

重源が東大寺を再建したことにふれたいくつかの文章に、費用を集めるために6つの一輪車を作り、奈良からのびる6街道に向かわせたとあった。
現代ふうパフォーマンス的発想に驚いた。
ところで、その記録は何にあるのか、その一輪車のイメージは描かれたことがあるのか、というのが気になった。
文字としての出典は、おおもとが「東大寺続要録」にあり、その後もいくつかの記述があることが、熊谷図書館のレファレンスで調べてもらってわかってきた。
でもイメージはなかなか見つからない。
富岡鉄斎 (1837- 1924)がかいた『重源上人勧進図』があるが、これは19世紀から20世紀にかけて生きた人の絵で、想像図といっていいだろう。

奈良国立博物館の仏教美術資料研究センターは、春日大社への散歩の途中で見かけていつか中を見てみたいと思っていた。
水曜日と金曜日だけが公開日で、『勧進帳』公演の日が水曜日だったもので、昼間、見に行った。
もとは奈良県物産陳列所で、1902年に関野貞(せきのただし 1867-1935)の設計で作られた。宇治平等院鳳凰堂を参照したという。
国立博物館の事務所に見学を申し出ると、敷地内をくるくるとめぐっていって建物の横の入口から入る。
ゆっくり眺めていたら何日も楽しめそうな、大部で貴重な美術書がゴロゴロしている。
ここなら、仏教美術という点でも、東大寺の間近にあるという立地からいっても、重源の一輪車のことがわかるかと期待して尋ねてみたのだが、わからなかった。