11月第2週(3) 都幾川から丸木美術館「シシュポス・ナウ展」


■ 古民家ギャラリーかぐや『しばはら・ち展』
埼玉県比企郡滑川町福田1560番地
http://www.astrophotoclub.com/kaguya/kominka.htm

近ごろいきつけのギャラリーに寄ると、かわった名前の絵本作家の作品を展示してあった。
自分の画風にベルベットタッチと名づけていて、淡くあたたかい。
ギャラリーは古い民家を改造して作られていて、これから寒さが厳しくなると冬ごもりにはいる。


■ 原爆の図 丸木美術館『シシュポス・ナウ展〜罪と罰のでんぐり返し〜』
埼玉県東松山市下唐子1401  tel. 0493-22-3266
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/

丸木美術館が現代美術作家7人による企画展をたちあげた。
この美術館は、そもそもが丸木位里・丸木俊夫妻の「原爆の図」が中心にある。企画展も、夫妻の思想に基づき反戦・反核をテーマにしているし、夫妻の作品の保存に影響することへの危惧もあって、作品形態としては平面か、せいぜい簡単に搬入できる小立体作品に限られていた。

丸木作品をよりダイナミックに外部に結んでいこうという見直しがあってか、今回初めて、よりアーティストの自主性にまかせ、現場での長時間の制作もありの企画が考えられた。
キューレーションは坂口寛敏さんで、坂口さんを含めて7人の東京藝術大学出身のアーティストによる展示になった。
小川町に暮らす僕の旧知の伊東孝志さんも参加されていて案内をいただき、作家がそろって自作について語るという日にでかけた。

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「原爆の図」の「丸木美術館」を、作家ごとにさまざまに受け止めたことが多彩な作品群になっていた。

坂口寛敏さんは、丸木作品が置かれている小展示室2つに作品を置いた。白い石と緑の木に、死と生を象徴させて、丸木作品にそっと寄り添うようだった。

伊東孝志さんは、丸木美術館の空間としての特異性にひかれ、大量の土を運び込み、美術館の大空間を際だたせる場を作りあげた。これまで僕は丸木作品の強烈な画面に見入るばかりで、背後にあるのは建ってからやや時間を経たありきたりの壁ばかりのように感じていたので、虚をつかれたような思いがあった。

潮田友子さんは、3つの出入り口がある展示室を用意されて、それを人間を象徴するものととらえた作品を制作した。人が生命をもって在ることについて思いを誘う。

柳健司さんは平和資料館で見た被爆した三輪車が印象に残っていたことから、ガラスの三輪車を作った。高温でガラスを焼くことが原爆のイメージにもつながる。
三輪車を部屋の隅におき、壁には少年のころの写真を並べて、小さな展示室全体が特別な記憶を祀る場になったようだった。

小川佳夫さんは、温度とか匂いとか、記憶の底の光景を描こうとしている。
丸木夫妻は死を描いたが、アーティストは生きている痕跡をかくものという自分の立つ位置をあらためて意識したと話された。

増山麗奈さんは、原発に反対するパフォーマンスを行うなど、丸木夫妻と政治的、思想的にいちばん近い。

佐々木裕二さんは、この日はヨーロッパ滞在中で不在だったが、丸木作品や丸木美術館と無関係に作られた佐々木さんの作品が、丸木作品にいちばん強烈に響きあってしまったように僕には感じられた。
佐々木さんの展示室には、南京で日本兵が中国人の首をはね、首が転がっていこうとしている場面が描かれた丸木夫妻の絵が置かれている。
その部屋の中央の床に、佐々木さんがごろごろ転がりながら絵にしていく「受身絵画」の映像が映される。
それをどう意味づけるという解釈じみたことは僕にはできなくて、ただもうすごい組み合わせが起きてしまったものだと圧倒されてしまった。

週の初めに行った横浜トリエンナーレなど、僕は現地制作のアートをよく見に行く。現地で何をくみとったかという新鮮な感受性による発想が見どころなはずだが、作るほうも見るほうも慣れてしまったかなと感じることもよくあるようになった。
今回の丸木美術館の企画は、小規模だが、現地制作の初心というのはこうだったのではないかというほどにおもしろかった。
アーティストの力量と誠実な取り組みがあってこそだが、丸木夫妻の作品の力の大きさが最大のエネルギー源だろうと思う。
丸木作品は単独に保存されているだけではなくて、新たに刺激し、喚起していってこそ、長く生きることになるだろうし、この企画は美術館としても新たな展開のきっかけとなったように思った。

美術館の窓から見える都幾川の流れが冴え冴えとして、気温が下がり、空気が澄んだ秋の深まりを感じさせていた。

その後、別棟の野木庵で会食になった。
こういうときに、この美術館のいつもながらのことで、ボランティアの人たちが心づくしの手料理を用意していただいてあった。
ありがたくいただいて、気持ちもおなかも満ち足りた。