赤城山(黒桧山・駒ガ岳)から群馬県立近代美術館・群馬県立歴史博物館


 2-2  赤城山のにぎわい


榛名山と同様、赤城山も、かつては今よりにぎわっていたらしいことの記録があり、意外な感じがする。
交通が便利になっているから、訪れる人の絶対数は今のほうが多いかもしれないが、知名度というか、人が「一度は行ってみよう」という関心の程度というか、今よりよほど高かったらしい。

 赤城ほど人に親しまれてきた山も少ない。と言っても、宗教とか信仰とかの古くさい日本的の山ではなく、高原と湖と牧場の洋画的風景が近代人の嗜好に応じたのであろう。志賀直哉氏の短編「焚火」を初めとして、赤城の自然は、早くから多くの文化人によって語られてきた。
(中略)
 私の学生時代には赤城へ行くことが、旅行好きの学生間の一つの慣わしであった。大正の末年で、まだ猪谷旅館の存在した頃である。
(日本百名山 深田久弥 新潮文庫 1978)

「高原と湖と牧場の洋画的風景が近代人の嗜好に応じた」というのも、意外な感じがする。
西洋文化の受容・紹介の窓口の役割を果たした雑誌「白樺」の命名にも、赤城山の風景がかかわっているという。(雑誌「白樺」の創刊は1910年)
軽井沢より西、信州の高原には欧風リゾートの雰囲気がふさわしいような気がするが、上州には違和感がある。



山田桂三「赤城と忠治」という文では、こんなふうに書かれている。

 赤城山が有名になったのはその山容や風色によってではなく、なによりもまず、国定忠治といっしょに覚えられたからであろう。日本国中、どこへ行っても忠治のことを知っており、忠治にからんで上州赤城山の名を知っている。(中略)明治以降の講談や浪花節、演劇や映画や歌謡曲が「忠治と赤城山」を否応なしにひとびとの頭にしみこませたからであろうか。
(「赤城と群馬」所収 みやま文庫 1961)

深田久弥の「日本百名山」が刊行されたのが1964年のことだから、この2つの文章はほとんど同時期に書かれているし、内容的にも、まったく別の時期のことを対象にしているわけではない。
なのに、とても同じ山のことをいっているとは思えない。
先端的傾向に敏感な文化人や学生たちと、大衆とで、まったく異質な赤城山観が並立していたのだろうか。

「思想の群馬−風外慧薫・関孝和・内村鑑三」(竹内尚次、村田全、土肥昭夫著 あさを社 1983)の前書きに、井上房一郎は、こう書いている。

 私たちの郷土群馬に対する人々のイメージが、国定忠治のような侠客(きょうかく)に傾いていることは大変残念なことである。「群馬=侠客の国」というイメージを一新して、県民に誇りと自信を与えるためには、郷土の歴史の中から傑出した思想家や芸術家を見出し、その芸術と思想をよく知ってもらうことが大切だと思う。

井上房一郎の認識では、「国定忠治」のイメージが一般的ととらえているようである。井上が高崎や群馬の文化の発展に尽くしたことの、1つの大きな内的動機として、「国定忠治」から「近代人の嗜好に応じた風景」に転換したいという気持ちがあったのではないかと思わせられる。




大沼南端、赤城神社跡の近くにある国定忠治の碑

小さい写真でわかりにくいが、中央右寄りの5角形が碑。左後ろ、斜めの屋根に白い掲示がでているのは「前橋警察署臨時派出所」。前にある白い箱には「この御賽銭は国際ボランティア活動の基金になります」とある。

国定忠治は、縄張り争いで殺人もし、おかみに追われている。一方、賭場のあがりや、豪商からの(半ば強制的)寄付を資金にして、貧しい農民を助けて慕われもした。

警察とボランティア募金が碑をはさんでいて、しっかり歴史をふまえているというのか、ユーモアがあっておかしい。


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