赤城山(黒桧山・駒ガ岳)から群馬県立近代美術館・群馬県立歴史博物館


 2-3  竹久夢二の赤城登山


前の深田久弥の文章に「猪谷旅館」とあるのは、猪谷六合雄が経営していた旅館のことで、その父が赤城神社の神主をし、のちに赤城旅館を始めていた。
ここには、深田久弥が書いているように、多彩な文化人が訪れていた。
志賀直哉の「焚火」(1920)には、猪谷六合雄が志賀のために猪谷旅館の近くに小屋を作ったこと、「赤城にて或日」(1920)では、猪谷が案内して、志賀直哉夫妻、柳宗悦らが、赤城山のピークの1つ、鈴ケ岳(1565m)を歩いたことが書かれている。

猪谷六合雄は、この地で、日本でごく早いうちにスキーを始め、息子の千春はのちにコルチナ・オリンピックで回転競技で銀メダルをとる。
放浪癖を自認する猪谷六合雄は、雪を求めて各地に住んだが、行く先々で自分の手で暮らしよい小屋を建てていて、とても建築的な人だった。



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赤城山の観光開発をねらった赤城山クラブハウス計画があり、1929年6月23日に、前橋柳座で資金を集めるための「音楽と文芸の夕」という催しが開かれた。主催は群馬県、前橋市、上毛新聞社。
講演者は、竹久夢二、直木三十五、西條八十、翁久允、福田蘭童ほか、当時の各界の著名人を集めた豪華な顔ぶれであった。
(終了後、臨江閣で宴会があった。臨江閣は現存し、1998年に白川昌生とジェラ−ル・コラン・ティエボによる「対話」という現代美術展がここで開催されたりしている。)

その前日の6月22日、講演者たちは県庁に集合してから、赤城山に登り、猪谷旅館に泊まっている。

この頃、猪谷六合雄は、北へ北へと放浪していた。

ここ(青森=引用者注)まで来るともう赤城山のことは忘れ勝ちだった。私達は海を越えて北海道へ渡った。先を急ぐ旅でもないので、まず大沼の岸の宿へ落ち着いて駒ガ岳へ登ってみた。
(「定本 雪に生きる」猪谷六合雄 実業の日本社 1971)


「大沼」や「駒ガ岳」といった赤城山を思い出させるような地名にも、とくに郷愁を覚えるふうでもなく、おもしろそうな山があると、とにかく登ってしまう。
この駒ガ岳登山からちょうど10日目に、札幌の駅で、駒ガ岳の大爆発という号外を目にしている。この噴火は6月17日のことで、小樽、定山渓、ふたたび札幌を経て、阿寒方面に向かっている。

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したがって、竹久夢二たち一行が猪谷旅館に泊まったときは、猪谷六合雄は不在で、姉が旅館の経営を任されていた。
猪谷六合雄は、猪谷自身の言葉によれば、「慣性の法則にしたがって」このあとさらに北に行き、千島に住みつくことを決意する。
そこで、いったん11月に赤城にもどり、姉にすっかり猪谷旅館を引き渡している。







大沼の南東、鳥居峠にある「竹久夢二登山展望の地」の碑。


鳥居峠には、かつて、さらに北の利平茶屋からケーブル・カーが上がってきていた。1957年−1967年のたった10年間のこと。
駅跡は休憩施設になっていて、当時の写真や遺品の展示もある。




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