赤城山(黒桧山・駒ガ岳)から群馬県立近代美術館・群馬県立歴史博物館


 2-4  猪谷六合雄の小屋


猪谷六合雄は、1929年、千島に小屋を建てて住む。ここで1931年に千春、1933年に千夏が誕生。
1935年10月に赤城に戻るが、旅館は前に赤城を出たときに姉に譲っているので、大沼西岸に小屋を建てた。
この頃は千春とのスキーが生活の中心で、前のときのように、文化人たちがひんぱんに赤城を訪れ、滞在するようなことはなかった。
1938年12月には、スキーと千春の通学の便を考えて、ふたたび赤城山を出て、乗鞍の番所(ばんどこ)に転居した。

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井上房一郎の世話によりブルーノ・タウトが高崎郊外の少林山に暮らしたのは1934年8月1日から、1936年10月8日までであった。
タウトが少林山に住んで、およそ1年くらい経ったときに、猪谷六合雄が赤城山に戻ってきたことになる。

前掲の深田久弥「日本百名山」

志賀直哉氏の短編「焚火」を初めとして、赤城の自然は、早くから多くの文化人によって語られてきた。

の文章は、こう続いている。

中には、一年に一度は訪れないと気がすまないという赤城宗徒さえいる。亡くなられた私の先輩の関口泰さんなども、その熱心な宗徒の一人で、赤城についてよく語られ、『山湖随筆』という著まである。赤城にシャレーを作って、四季そこへ行くのを楽しみにしておられた。

深田久弥は、どうしても赤城を「高原と湖と牧場の洋画的風景」にもっていきたいみたいなのだが、ここでいう「シャレー」は、やはり猪谷六合雄が、自分の住む隣に建てた小屋で、まだタウトが高崎にいる1936年7月のことであった。

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世界的建築家タウトが少林山に侘び住まいをしている。
そこから眺められる、わずかの距離のところで、猪谷は、家族と暮らす小屋と、友人のための小屋とを、自分で設計し、自力で建てていた。

猪谷六合雄の小屋は、自然のごく近くに位置し、スキーやボートのための出入りについても配慮した合理的なものでありながら、風呂やトイレからも外の眺めを楽しむような、よく考えられたものであった。

タウトも若い頃から自然に親しんでいた。
また、大きな集合住宅を設計したり、アルプス建築などという雄大な構想を描いたりもするのだが、掘っ立て小屋のような小さな建築にまで、じっとまなざしを注ぐ人であった。高崎に来てからも、うち捨てられたような農家に目をとめ、屋根が茅葺きなら、雨漏りしないためには、この屋根の傾きがよい−と判断を下したりしている。

過去のことに仮定の話をもちこむのはいけないけれど、つい、タウトが猪谷六合雄の小屋や、建築現場を訪れていたら−ということを想像してしまう。
タウトは猪谷の小屋に共感したのではないか?
猪谷六合雄は図面を描きはするが、しかも作りながら体の大きさ、動きにあわせて修正を加えていったという。
人体の大きさを基にしたモジュールという建築的考え方を当然のように実行していたわけだ。

1929年に札幌に国際級のジャンプ場を作るために本場ノルウェーから技師と一流選手が招かれたときのこと。
猪谷六合雄が独力で作った赤城でもその選手たちを招いてジャンプ大会が開催された。

ヘルセット中尉は猪谷六合雄のつくったシャンツェを見て、理想的な台だと目をみはった。独りで考えて作った台が本場のシャンツェにひけをとらないものだったのだ。ヘルセット選手も満足した。猪谷六合雄は生涯このときの喜びを第一に挙げている。
(「人間の原型・合理主義的自然人 猪谷六合雄」 高田宏 平凡社 2001)

同じことがタウトとのあいだにも起きたかもしれない。
建築論が盛り上がり、猪谷も刺激を受け、スキーから建築にすっかり関心が移って、以後、建築史に名を残すようなことになったかもしれない...

          ◇

可能性がまったくなかったわけではない。
かつて柳宗悦は猪谷旅館に滞在しては、赤城山中を逍遥していた。
タウトは来日後、柳宗悦に何度か会っていて、日記に、そのたびに柳という人のいい印象を記している。
タウトが少林山に住んだあとに、柳が
「そういえば、あたたがお住まいの少林山の近くの赤城山には、IGAYAという人物がいて、簡素な小屋を自分で建てている」
というようなことを話す。
タウトが興味を示して、
Inoue-san, emmenez-moi au mont Akagi-san pour voir la hutte de m. Igaya, s'il vous plait. (井上さん、猪谷氏の小屋を見たいから、赤城山に連れてってください)
で、井上房一郎は
D'accord ! (いいよ)
とか言って、次の週末に行ってみる−こともありえたわけだ。
(フランス留学経験のある井上とは、タウトはあまり得意ではないフランス語で会話していたという)

          ◇

残念ながら、タウトは赤城山に行くことはなかった。
少林山から、噴煙を吐く浅間はよく眺めていたようだが、日記にも赤城についての記述はほとんどない。
それでも、少林山を発つ日の情景には、赤城も記されている。

1936.10/8(木)
 いよいよ少林山を発つ。まことに別れは容易ではない、だが別離に際して日本が私達に示してくれた数々の好意は実に有難いものであった。
・・・・・
 高崎駅には、今までになく大勢の人達が見送りに来てくれた。・・・出発!手で、また眼で別れの挨拶をする。やがて妙義、浅間、榛名、赤城の山々が眼界から消えていく、−−私の愛する土地の一片も、遙か後ろに遠ざかってしまった。

(日本 タウトの日記 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975)

          ◇

20世紀の前半あたり、高崎や榛名や赤城あたりにいろいろな人たちが住み、訪れ、文化の芽を育てた。
このあたりには、ずいぶんいろいろなエネルギーが蓄えられていたのだと、あらためて思う。



■ 猪谷六合雄

1890 赤城山に生まれる
1908 1坪の小屋
1909 1/4立方坪の小屋
1914 スキーを始める 父の死
1915 赤城山に志賀直哉の小屋
1918−1920 ジャワ
1929 赤城に作ったシャンツェで、ノルウェーの選手を招いたジャンプ大会
     千島に小屋
1931 千島で千春生まれる
1933 千夏生まれる
1934 千島に滝の下の小屋
1935 赤城山に戻る 赤城西岸に小屋を制作 完成前に千夏、風邪を悪化させて亡くなる
1936 赤城山に関口泰の小屋
1938 番所へ越す
1939 番所に小屋
1956 千春、コルチナ・オリンピックに参加、回転で銀メダル
1961 自動車免許をとり、以後、車での旅と暮らしが多くなる かつての小屋としての車 (このとき72歳)
1986 死去


■ 柳宗悦
1889(東京麻布に生まれる)−1961
1936 日本民藝館が東京駒場に開館 初代館長柳宗悦

柳氏夫妻はいつもながら親切だ、夫人はドイツで声楽を修め、ドイツ語も話せる。
(タウト日記1934.5.25)





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