榛名山(掃部ケ岳)から竹久夢二伊香保記念館・榛名町歴史民俗資料館



 2-4  榛名山美術研究所 

関東大震災でつまずいたうえ、社会状況がかわって作品が前ほど歓迎されなくなりつつあった傷心の夢二を暖かく迎えたのが、榛名の美しい風景とやさしい人たちであった。

まず榛名湖畔の土地を借り受けアトリエを作った。

山の上にわがあとりえをたてんとて はるなをさしてのぼる早春
(夢二日記1929.2.28)

さらにここで、生活と芸術と生産を結ぶ理想を実現しようと考え、1930年に「榛名山美術研究所建設につき」を記す。
この文章を書きつけたノートが、竹久夢二伊香保記念館に所蔵され、有島生馬が賛辞を添え、高崎の井上房一郎も趣意書に名を連ねている。


榛名山美術研究所建設につき

 あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは誰からも示されていない。吾々はもはや現代の権力闘争および政治的施設を信用し、待望してはいられない。しかも吾々は生活せねばならない。

 快適な生活のためには、各々が最?単位の自己の生活から立ててゆかねばならない。まず、衣食住から手をつけるとする。

 そういう吾々の生活條綱を充たしてくれるために、今の所僅かに山間が残されていた。
 幸い榛名山上に吾々のため若干の土地が與えられた。美術研究所をそこに建てる所以である。

 吾々は地理的に手近な材料から生活に即した仕事から始めようと思う。吾々は日常生活の必要と感覚は、吾々に絵画、木工、陶工、染色等々の製作を促すであろう。同様の必要と感興をもつ隣人のために、最低労銀と材料費で製作品を頒つことができる。或いは製作品と素材とを物々交換する便利もあろう。

 そこで、商業主義が作る所の流行品と大量生産の粗悪品の送荷を断る。また市場の移り気な顧客を強いて求めないがゆえに、吾々は自己の感覚に忠実であることも出来る。
 こういう心構えから、生活と共にある新鮮な素朴な日用品を作る希望をもつ隣人のために研究所を開放する。

 吾々の教師はあくまで自然である。しかし吾々は既成品を模倣するためでなくに、人が自然から学んだ体験をきくために、時に講演会、講習会を開く。また吾等の製作品を人々に示すために、時に展覧会を開く。

 榛名山美術研究所を設ける所以である。

1930年5月
榛名山美術研究所 竹久夢二




竹久夢二は、研究所建設のための資金を作ろうとして、1931年にアメリカとヨーロッパに向けて旅立つ。

 何よりも好いことは、こんどは出発に際して、心にかかるものも、心に残る者も何もないことだ。ただ榛名山に帰ってからの仕事のプログラムに希望はある。
 榛名山産業美術学校
 その校舎が何時建つか、これは予想出来ないが、学校は既にあると云って好い。この春建てた山小屋は、外遊中は、誰が訪ねていっても、憩むに好いように、いつでも開放しておくつもりである。

(「島を立つ」若草1931年4月号)(「竹久夢二」 秋山清 紀伊國屋書店 1994 から再引用)



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