榛名山(掃部ケ岳)から竹久夢二伊香保記念館・榛名町歴史民俗資料館



 2-5  夢の終わり
 −竹久夢二とブルーノ・タウトと立原道造 T 


しかし、絵は思うように売れず、病を得、ドイツではナチスの台頭を見て、前向きの意志をすっかり失って1933年9月18日に神戸に帰ってきた。
信州富士見の高原療養所に入所。1934年9月1日に亡くなり、雑司ヶ谷墓地に葬られ、有島生馬の文字で「竹久夢二を埋む」の碑が建てられた。

同じ頃、榛名山から碓氷川を隔てた高崎の少林山にはブルーノ・タウトが滞在していた。

1932.10.10 夢二、ハンブルグに着く。以後。欧州各地を訪れる。
1933.3.1 タウト、ナチスに逮捕されることを察知して、急遽ベルリンを発つ

1933.3.1.タウトがベルリンを発った日に、ベルリン(伯林)にいた夢二の日記
朝の目覚めに素裸になりて窓を上ぐ。これは春かとおもふばかりの肌ざはりなり。まだ生きる力の我にありしことを念ふ。小冊子にいるゝさしゑを持ちゆく。「欧洲へきてはじめて床屋へゆきたし」と今井氏に話す。「やつぱり頭痛もゆううつも気候のせゐなり」とも。鳥のすうぷをとりたるにまた空腹になりたり。伯林へきてはじめての食慾なり。


1933.5.3 タウト、日本(敦賀)に着く
1933.9.18  夢二、日本(神戸)に帰る
1934.1.19 夢二、長野県富士見町の高原療養所に入院
1934.8.1 タウト、洗心亭に住む
1934.9.1 夢二、 長野県富士見で死去。
       帰国後、一度も伊香保に行くことはなかった。

1934.9.1夢二が亡くなった日のタウトの日記
 今日は1923年の関東大震災の記念日である。折も折りとて、少林山に来てから初めて大きな地震を経験した。
 冷たい雨が降りしきるので、縁側とそとのガラス戸を終日しめ切り、自在鈎に鉄瓶を吊した囲炉裏ばたで静かな一日を過ごした(食事もここでした、まるで田舎の冬の風情である。こうした気分もなかなか趣のあるものだ)。
(中略)
 鴨長明の『方丈記』を読む。長明は十二世紀の隠者で、僅か一丈四方の小庵に 住んでいた(私の洗心亭の方がやや大きい−尤も私は妻といっしょだが)。当時を思い偲ぶと、日本人の感情の世界は、今も昔と殆ど変っていないようだ。長明の時代にも、浅ましくなりゆく『当世』に対する深い歎きがあった。彼は当時親しく見聞した京都の大火や地震、疫病や飢饉などのむごたらしい有様を具さに描き、いま洛外の片ほとりに自ら建てた茅屋で営む安らかな生活を讃えている。
(中略)
 徒然草と方丈記とは、いずれも往昔の日本人の優しい心情を伝えるものである、すぐれた日本だ。そしてこの日本は今に相承されているのである。私はいつか方丈記をドイツ訳したいと思っている。


わずか4年後には、タウトもトルコで亡くなる。


日本 タウトの日記 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975
夢二日記 竹久夢二 筑摩書房 1987




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