榛名山(掃部ケ岳)から竹久夢二伊香保記念館・榛名町歴史民俗資料館



 2-6  1930年代の夢/夢の実現
 −竹久夢二とブルーノ・タウトと立原道造 U 


1930年代、生活と芸術を結び、アーティストのユートピアを作ろうとする構想が重なっている。

1930年 「榛名山美術研究所」 竹久夢二
1934年 「少林山建築工芸学校案」 井上房一郎+ブルーノ・タウト
1937年 「浅間山麓に位する芸術家コロニイの建築群」 立原道造
1937−38年 「ヒアシンスハウス」 立原道造

1923年の関東大震災からは復興したが、太平洋戦争に向かって閉じていこうとする社会状況が背景にあるだろうと思う。

このコースをまとめていた2003年夏、東京国立近代美術館が「地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画」という展覧会を開催したので、見に行った。
地平線を画面にいれた幻想的絵画が多数かかれたことを、シュルレアリスムの影響という観点からではなく、当時の社会状況から見直そうとする企画だった。昭和10年代という捉え方をしているが、夢二らの構想とほぼ同じ時期であり、共通の精神がありそうに思う。

(この展覧会場に竹久夢二の作品も1点あったら、ということを想像してみた。シュルレアリスムの絵画を読み替えるという意図からは外れるけれども、通念と違う読み替えを試みるということからすれば、夢二の作品を置くこともかなりのインパクトがあるだろうと思った。ふつうには大正ロマンの郷愁の表現者として受け入れられている夢二の読み替えになる。それに夢二の作品では、地平線の前に佇む女、あるいは男、あるいは男女の絵には、事欠かない。)

竹久夢二の計画は、夢二の構想したとおりではないにしても、木暮亨館長が主宰する竹久夢二伊香保記念館が、その精神を受け継ごうとしている。
ブルーノ・タウトは1938年、トルコで亡くなるが、井上房一郎は長生きして、文化に関する夢を次々に実現していった。
立原道造のヒアシンスハウスは、立原が慕う画家や詩人たちが住む、さいたま市の別所沼畔に小さな小屋を建て、自分も仲間に加わって住もうとしたささやかな計画だが、その夢に共感を寄せる人たちによって、実現しようとしている。

夢はもつものだ。そして、たとえ実現できなくても、夢を継いでくれる人が現れる可能性もあるのだから、夢は何かしらの形で残しておくものだ、と思う。


→ [観音山から高崎市美術館・高崎哲学堂・群馬音楽センター]
  「地平線の夢 昭和10年代の幻想絵画 」出品作品は
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  [入笠山から (旧) 富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム]



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