榛名山(掃部ケ岳)から竹久夢二伊香保記念館・榛名町歴史民俗資料館



 4-4  夢二と建築


竹久夢二は生涯で何度も住まいをかえたが、自分で家を建てたのは1つだけだった。
杉並区松原、京王線の下高井戸駅の近くにあり、駅を降りると、雑木林の間から赤い屋根が見えたという。

少年山荘といい、「山静似太古 日長如少年」という漢詩からとったといわれる。
また1920年に亡くなった彦乃をしのんで山帰来荘ともいった。
(夢二は彦乃を「山」とよんで慕った。彦乃に寄せる思いをうたった恋歌集が1919年刊行の『山へよする』。)

設計が決まらないでいるうちに大工に逃げられるようなことも重なり、屋根がないままおよそ1年間雨さらしだったため、1924年に入居したきにもまだ壁が乾いていなかったという。
さらに庭に大量の植物を植える。

この少年山荘は、十年で根太も土台も朽ち果ててとりこわされた。館をつつみこんだ蔦蔓が、木造家屋に致命的な損傷をあたえたとのことであった。
(夢二−ギヤマンの舟 小笠原洋子 大村書店 2002)

岡山の夢二郷土美術館が、生家の近くに、夢二の子、不二彦の記憶に基づいて復元している。西村伊作は、とんでもない建築だと評したらしいのだけれど、どんな住居だったのか、見に行きたい。

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榛名湖畔のアトリエの設計者は不明。
夢二設計の2つ目の建築だった可能性がある。

→ [ 榛名山(掃部ケ岳)から竹久夢二アトリエ]

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夢二設計の3つ目になったかもしれないのが、榛名山美術研究所。

榛名山の山荘附近をよき人ばかり寄りあつめてたのしき村をつくることを約束もし、また、自分もたのしみにして旅にたちたるなり。敷地、建築、様式等に就きても注意を怠らず居たりしが、いつの頃よりか三年の旅の間に、よき人とか たのしき村の 地上にあるべからざるを知りて 仇な心を けなげに信じてゐた自分にも人にも気の毒におもふことだ。

富士見高原療養所に入院中の日記、1934年1月28日と3月11日の間に、そういう記述がある。
敷地、建築、様式等に就きても注意を怠らず居たりしが、」とあるのは、どの程度、具体的に考えていたことなのだろう。
スケッチや図面はないだろうか?
ル・コルビュジェに関心をよせた夢二の建築構想を見てみたかった。


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