観音山から高崎市美術館・高崎哲学堂・群馬音楽センター



 1−2  井上房一郎とブルーノ・タウトと洗心亭



日付につづく引用文は「日本 タウトの日記」 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975。日付の書き方と旧字を一部あらためています。



少林山達磨寺は1697年、中国からの帰化僧、心越禅師が開山。
縁起だるまで親しまれ、1月6日7日のだるま市には多くの人が訪れる。
境内に、もとは八幡村の豪農、沼賀博介が早稲田大学教授佐藤農学博士に贈ったという質素な茶室・洗心亭がある。


ブルーノ・タウトはドイツの建築家。
1880年旧ドイツのケーニヒスベルク生まれ。(現ロシアのカリーニングラードで、タウトが尊敬した哲学者カントや、画家ではケーテ・コルヴィッツも同じ地の人である。)
社会主義的傾向と、モスクワでの仕事の経歴から、政権をとったナチスに逮捕されることを察知し、その直前にドイツを脱出。
日本のインターナショナル建築会から招待されていた縁で来日した。

井上房一郎には、日本での滞在が長くなりそうなタウトの生活を保障する手だてを探していた建築家久米権九郎が引き合わせた。
久米は1928年にドイツ・シュツットガルト州立工科大学建築科卒業。
1929年にアーキテクチュラル・スクール・オブ・アーキテクチュア(ロンドン)修了後、帰国して、渡辺仁と渡辺久米建築事務所開設、1932年には独立して久米建築事務所を開設していた。
久米権九郎の姉が五島慶太夫人で、五島慶太は井上房一郎の義兄である唐沢俊樹と親しいことから、パリから帰国して高崎で工芸活動をしていた井上房一郎に引き合わせることとなった。
唐沢は内務省に勤め、1934年には警保局長に就任。ドイツから逃れてきたタウトが、戦前の日本でとくに制約なくいられたのは唐沢の存在に助けられたといわれる。

タウトは来日後、数カ所に滞在したあと、井上房一郎が世話をした洗心亭に落ち着き、3年半の日本滞在のうち、あとのほう、離日までの2年3カ月を暮らした。
高崎に移ってからは、井上房一郎と工芸品を作り、銀座のミラテスで販売したりしたが、建築の仕事はほとんどなく、「建築家の休日」と名づけて、日本の各地を旅して、日本について、建築についての著述を多く残した。

タウトと同じケーニヒスベルク出身で、トルコにいるマルティン・ヴァーグナーから、イスタンブール芸術大学の教授にタウトを招くという知らせを受け、タウトは1936年に日本を離れた。
日本にいる間の休日の遅れを取り戻そうとするかのように活躍したが、1938年、タウトに信頼をよせていながら急死した大統領の葬儀の式場を設計したあと、自身も亡くなった。58歳であった。

          ◇          ◇

日本に来た当時、いくつかの住まいを転々としたタウトは、高崎に移る直前の日記にこう記している。

1934.7/30(月)
またしても荷造りだ、これが私の運命なのだ!明後日の早朝、高崎に赴く予定である、それから先はどうなることやら。


ところが、タウトはたちまちここをとても気に入る。

8/12(日)
丘腹に位置する洗心亭はひらけた眺望をもち、晩方は頓に涼しくなるが、それにつれて川瀬の音も高くなりまさるのである。昨夜は星屑が手にとるほど近くに見えたと思ったのは、星のかけらと見紛う蛍であった。軒にはお寺から借りた提灯を一つ、時には二つ吊してその柔らかい光を楽しんでいる。縁側の障子を外して、蚊帳の中に横臥しているとまるで戸外の草の上に寝ているような気持ちになる。


しかも、この寺にタウトは懐かしい故郷と尊敬する哲学者とのつながりも読みとっている。

1934.10/18(木)
達磨寺の霊符堂には、北斗七星が達磨といっしょに祠ってある、しかし星辰がどうして禅と関係があるのだろうか、−−住職の廣瀬さんでも、この質問には困って結局説明ができなかった。だが私の思うには、これはカントの有名な句『我が上なる燦たる星空、−−我が裡なる道徳律』と同じ関係にあるに違いないと思う(私は年少のころ、ケーニヒスベルクのカントの墓廟に詣でて、彼の胸像の下に大きな金文字で刻してあるこの句を読んでから、次第にカントの思想に傾倒するようになった)。また『哲学の風は宇宙を通貫する』という句もこの思想と一脈相通ずるところがあるようだ。


達磨寺霊符堂
左右の赤いものは積み上げられたダルマ

タウトの日記には、自然や洗心亭でのつましい日常が繰り返し記述される。
狭い間取り、夏は暑いし、冬は寒く、上州の風は激しかったはず。
騒がしい蝉、蛾が舞う、ムカデがはう、ネズミが天井を走る。
建築家としての物足りなさ、ときにヨーロッパに向けてうずく気持ち。
それでも、洗心亭の生活そのものにはとても満足していた。

1934.10/29(月)
京都は日本における私の生誕地だ。また洗心亭は日本における私達の故郷である、此処の雰囲気、趣味、香りはもう私達の身心の一部になっている。


高橋英夫は「タウトは西欧人にしてはすこぶる隠遁志向を身に帯びた特異な人物でもあった」といっている。(「ブルーノ・タウト」講談社学術文庫1995)
草枕を読み、方丈記を読み、方丈記はドイツ語に翻訳までしている。

タウトのもともとのそうした性向に加え、地元の人々もタウトに親しんだ。
浦野芳雄の「ブルーノ・タウトの回想」に、その様子がかかれている。
洗心亭は、茶室に加えて、短い日数の滞在を想定した居間があるくらいで、長く生活するように作られた住居ではなかった。
井上房一郎から、突然やってくることになったドイツ人の世話をもちこまれた地元の人や寺の人は、まず水回りの鉄管のサビを流し落とすことから始める。風呂はどうする、室内を靴で歩かれたら傷む、食事は何を食べる−と、とまどいながらも、迷惑がる様子はなく、楽しんで準備して、タウトを迎える。
洗心亭から眺められる榛名山に、タウトより少し前に、竹久夢二がやってきていた。隠遁するつもりできたのに、上州の人の人情に支えられて、夢二は仲間を集めた芸術村を構想するようにさえなっている。

          ◇          ◇

タウトは2年半の滞在で、翻訳で3冊にもなる、かなりの量の日記を残した。
僕はその長い日記を読んでいて、タウトの行動記録を知る面白さのほかに、気持ちが和んでくるのを覚えて、飽きることがなかった。なぜだろうと考えてみると、ひとつは美しい自然と、その自然の中で安らぐ気持ちが伝わってくること。もうひとつは、タウトが貧しさの価値を見いだしていることだろうと思う。貧しいけれども、人の心持ちは穏やかで、町も見苦しくはなかった。
それは、アントニン・レーモンドが来日したときの情景を描いた文章と通じるものである。

1919年、12月31日の、日本到着の夜、横浜から東京までの道、封建時代の名残りをとどめた狭い村を、車で通ったことを私は決して忘れることができない。
その村々の道の両側には、しめかざりの環や、提灯がぶらさがった松や、竹が並んでいて、陽気で、単純な喜びの雰囲気に包まれていた。商店は道に向かって開け放たれ、売る人買う人共々、茶をすすり、火鉢に手をかざしながら親しげに座っていた。派手な着物の若い人々は、道の真中に陣取って、いろいろ楽しそうな季節の遊びにふけり、私達の車は殆んど進めないほどであった。
(私と日本建築 アントニン・レーモンド 三沢浩訳 鹿島出版会 1967)


タウトは美しいものばかりを見ていたのではなくて、日本各地を旅する先々で、キッチュなもの(日本語では「いかもの」と訳されている)が侵食しつつあることを見落とさなかった。まがいもの、うすっぺらなもの。
その後の日本は、タウトのいうキッチュと正確に適合するかどうか、ひとまずおくとして、美しいものより、うすっぺらでまがいもののほうに大きな偏りを強めたことは確かだと思う。
都市にも農村にも、「いかもの」が、はびこっている。タウトが去ってから戦争や高度成長をはさんでの70年間に、どうしてこういう方向に来てしまったのだろう?別の、美しいものを広げる方向にどうしていかなかったのだろう?ということも考える。

簡素な洗心亭の脇に、タウトが残した言葉が石に刻まれている。

    ICH LIEBE DIE JAPANISCHE KULTUR 
     (私は日本文化を愛する)


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