観音山から高崎市美術館・高崎哲学堂・群馬音楽センター



 1−4  井上房一郎とブルーノ・タウトと竹久夢二

日付につづく引用文は「日本 タウトの日記」 ブルーノ・タウト 篠田英雄訳 岩波書店 1975。日付の書き方と旧字を一部あらためています。


タウトの日記1934年12月10日には、井上房一郎の構想によりタウトが作成した「少林山建築工芸学校案」の翻訳を、京都にいる上野伊三郎(タウトを日本に招いた「日本インターナショナル建築会」の1人)に依頼したことが記されている。入学資格、学習方法、教授科目、教授方法、学習期間などかなり詳細に作られていたという。

井上房一郎は、若い頃、山本鼎に勧められてパリに遊学した経験から、文化がもっと生活の身近にあるべきだという考えをもっていた。
1918年には武者小路実篤が宮崎県日向に「新しき村」を建設している。
それに、井上房一郎、タウトともに交流のあった柳宗悦の民芸運動や、山本鼎の自由画教育や農民芸術の運動などの影響もあったと考えられる。
アーツ・アンド・クラフト運動の考え方も、タウトが日本に滞在中の1934年はウィリアム・モリスの生誕100年にあたり、国内でも記念講演会が開かれたりしていたから、かなり刺激する要素であったろうし、とくにタウトにとっては1919年に開校したバウハウスのことも念頭にあったと考えられる。

「少林山建築工芸学校」は実現しないまま、タウトは日本を去るのだが、それよりわずか前に、タウトのいた少林山から高崎市街を隔てて向かい合っている榛名山では、竹久夢二が「榛名山美術研究所」を構想していた。

竹久夢二は榛名・伊香保を愛したが、土地の人々もまた夢二を支持し、夢二は借り受けた榛名湖畔の土地にアトリエを作っていた。さらにここで、生活と芸術と生産を結ぶ理想を実現しようと考え、1930年に「榛名山美術研究所建設につき」という文章を発表した。
これには井上房一郎も趣意書に名を連ね、有島生馬が賛辞を添えている。
有島生馬は井上房一郎の結婚に際し仲人をし、タウトとも関係していて、タウトの日記にしばしば登場する。
晩年、失意のうちに病床にあった夢二が、最後まで信頼をよせていたのも、その有島生馬であった。

竹久夢二は、研究所建設のための資金を作ろうとして、1931年にアメリカとヨーロッパに向けて旅立つ。しかし、絵は思うように売れず、病を得、ドイツではナチスの台頭を見て、前向きの意志をすっかり失って1933年9月18日に神戸に帰ってきた。
ナチスのドイツから逃れたタウトは、1933年3月1日にベルリンを発ち、日本の敦賀に着いたのは5月3日、夢二が日本に帰り着く数ヶ月前であった。
竹久夢二は信州富士見の高原療養所に入所。
タウトが1934年8月1日に洗心亭に移り住んだ1か月後の9月1日に、竹久夢二は亡くなった。
雑司ヶ谷墓地に葬られ、有島生馬の文字で「竹久夢二を埋む」の碑が建てられた。
タウトは1936年にトルコに行き、もっともっと建築の仕事をしたかったろうに、夢二が亡くなってからおよそ2年後、1938年12月24日に急死する。

          ◇          ◇

ドイツと日本、少林山と榛名山。
井上房一郎と有島生馬という接点。
「少林山建築工芸学校」と「榛名山美術研究所」。
ブルーノ・タウトと竹久夢二は、そのように重なりそうで、微妙にずれたままだったが、もし井上房一郎や有島生馬を仲立ちにして、構想が実現していたら、ということも、ふと思ってみる。
洗心亭から眺めると、今は住宅や工場が密集しているが、タウトとエリカが写っている写真を見ると、背景には野や田が広がり、小さな集落が点在するだけ。少林山から榛名山までは、今ほど間に隔てるものがなく、ゆるやかな斜面がひと連なりに続いていたのではないかと思える。
タウトと夢二が出会ったとして、お互いの建築・芸術を理解しあう関係になったかどうかは、別の問題としてあるし、過去の歴史について、もしこうだったらと仮定するのは際限のない話になってしまうことではあるけれど、つい思いを誘われる。

井上房一郎は、1934年にタウトと構想した「少林山建築工芸学校案」からおよそ半世紀後の1983年、群馬県六合村に暮坂芸術区を実現している。

→ [ 榛名山(掃部ケ岳)から竹久夢二伊香保記念館・榛名町歴史民俗資料館 ]

          ◇          ◇

1936.10/8(木)
 いよいよ少林山を発つ。まことに別れは容易ではない、だが別離に際して日本が私達に示してくれた数々の好意は実に有難いものであった。
・・・・・
昼食は、いつもの通り庫裡の一室−−小さな池のある中庭に面したあの六畳の間である(これがお寺での最後の食事だ)、私はここで深い憂鬱にひたりながら、樹々の青葉を眺めたものであった。
・・・・・
 出発の時がきた、誰もが微笑のうしろに別離の悲しみを隠している。廣瀬夫人はすすり泣いていた、わけてもエリカを母のように慕っている敏子さんの悲しみは、見る眼もいたいたしい。お寺の石段を降りてもすぐ自動車に乗らないで、碓氷川の橋を渡りながら浅間山に最後の一瞥を与えた、いつもながらの噴煙である。
・・・・・
 高崎駅には、今までになく大勢の人達が見送りに来てくれた。・・・出発!手で、また眼で別れの挨拶をする。やがて妙義、浅間、榛名、赤城の山々が眼界から消えていく、−−私の愛する土地の一片も、遙か後ろに遠ざかってしまった。



洗心亭を訪れるたびに、その裏山に上がって榛名や浅間を眺めるたびに、ブルーノ・タウトや竹久夢二の叶えられなかった時間を想いやる。
僕自身が子どもを連れて歩いた思い出も、もうかえらない時間であって、いくつものかえらない思いが重なって、切ないような気分になる。

高崎で出会った人々のことを思うと、人がまちをつくり文化をつくること、建築がまちをつくり、社会に意味をもつことについても、考えさせられる。



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