観音山から高崎市美術館・高崎哲学堂・群馬音楽センター



 4  山田かまち水彩デッサン美術館


群馬県高崎市片岡町3-23-5
tel. 027−324−3890


山田かまちは、1977年、高崎高校1年生の夏、部屋でエレキギターの練習中に感電死した。
高崎市内に画廊をもつ広瀬毅郎氏が、残された絵に感動し、多くの人に見てもらえるように美術館を開館したが、ほとんど無名の少年のことだから、大きな決断であったと思う。

山田かまちは、死後に「発見」されたのだと思っていたが、高崎高校の大先輩にあたる井上房一郎は生きているうちから、かまちに注目していた。
かまちは小学校3年生のとき、学校の課題に提出するために動物の絵を36枚、わずかの時間でかきあげた。(この作品も美術館に展示されている。)
学級担任の竹内俊雄は驚き、作品を持ち、かまちを連れて、井上房一郎を訪れた。
井上もかまちの才能に感心し、書斎にあった画集から好きなのを持っていっていいとすすめると、佐伯祐三集を持ち帰ったという。(小学校3年生が佐伯祐三!激しさと夭折が共通してしまう。)

1981年、前橋煥乎堂で「山田かまち水彩デッサン展」開催。
井上房一郎は県立美術館にかまちの絵の収蔵を打診したが、美術館は断っている。
1989年、少年の十三回忌を迎えるにあたり、井上房一郎は「もう一度、価値を問いたい」と高崎市の広瀬画廊で展覧会を開催する。
1992年に広瀬画廊の広瀬毅郎氏が個人の資本で美術館を開館している。

かまちの作品を見ていると、生な感情、生な表現、直接に訴えかけてくる力に圧倒される。他の多くの、もっと長く生きている作家たちの表現が色あせて感じられるほどだ。若い時期に特有の、熱さ、激しさ、憧れ、急ぎたい気持ちなどが、自分自身の「その頃」の思いも刺激する。(たとえかまちのように精一杯生きていなかったにしても)


「山田かまち おとなにならない彼」産経新聞1993.8.30-9.17
「かまちの肉声が届く日 山田かまち水彩デッサン美術館」DOME1996.10









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