安芸小富士から平和記念資料館・ひろしま美術館


2−1  原爆ドーム/ヤン・レツル


広島市中区大手町一丁目10番 平和記念公園内


もとは1915年に広島県物産陳列館として、チェコ人の建築家ヤン・レツル(1880−1925)の設計で完成した建物。
当時、商業振興を目指していた広島市と広島県がタイアップし、市が提供した土地に県が建築した。当時の県知事寺田祐之は、前に宮城県知事時代に松島パークホテルの設計をヤン・レツルに依頼したことがあり、広島陳列館の設計も依頼することにした。

ヤン・レツルは現チェコのナホトに生まれ、プラハの美術学校卒。1907年に来日し、東京銀座に設計事務所を開いていた。
1914年竣工の上智大学校舎は、1923年の関東大震災で崩落。
1917年6月竣工の上野精養軒ホテルは、その年の秋の台風で崩壊。
1915年竣工の広島県物産陳列館が被爆。
大きな災害に繰り返し見舞われた悲運の建築家ともみえるが、十分な強度をそなえた設計をしていなかったという見方もある。
故国に帰ってから精神を病む。
悲劇的人生を送り、1925年に若くして亡くなったが、物産陳列館の被爆を見ることがなかったのは、かえってよかったっかもしれないとも思う。
→ [ 世界平和記念聖堂 ] [ 宮島歴史民俗資料館 ]
    [ ヤン・レツル ]


1945年8月6日午前8時15分、南東約160メートル、高度約580メートルで原爆が炸裂し、中にいた人はすべて即死した。建物は全焼したが、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに残った。
原爆の惨禍を伝え、核兵器の廃絶と平和への願いを象徴するものとして、全国からの募金により、1967年に1回目の保存工事、1989年に第2回の保存工事が行われた。
1996年にはユネスコの世界遺産に登録された。

 

日が傾きかけるころ、ドームに着いた。
青い空を白い雲を背景に、ドームとその手前の葉の落ちた木が、異様な迫力で立っている。

僕が原爆ドームの写真で記憶しているのは、長野重一(1925− )の「原爆ドームのある広島の街」。1952年の写真で、中央奥に原爆ドームが見えている。手前の右手に木造2階建ての建物があり、『世界の友社 廣島支社』という大きな看板がかかっている。左手の空き地には木の電柱が3本立ち、張り紙がいくつも張られ、また剥がれかけている。ドームと、そのまわりの建物や電柱や空き地が、同じ時間に属していた。
今は、ドームは柵で囲まれて周囲からくっきりと区切られている。街は21世紀に入っていて、ドームは半世紀以上も前の時間をとどめている。
だからこそ、このドームが存在し続ける意味があるのだろうと思う。
 







僕は、ずいぶん前に広島に行こうと思ったことがあったまま、とても長い時間がたってしまった。
1960年に広島を初めて訪れた大江健三郎はこう書いている。

僕はもっと早く広島を訪れるべきであったと思う。それは早ければ早いほどよかった。しかし今年になっても決しておそすぎはしなかったのである。
(ヒロシマ・ノート 大江健三郎 岩波新書 1965


それからさらに40年以上もあとに訪れた人にも、遅すぎはしなかったという判断は有効だろうか。
その間に、ベルリンの壁がなくなるようなこともあれば、天安門事件があったり、ワールド・トレード・センターが破壊されたりして、ちょうど今は米英軍がイラクで戦争を始めた。
原爆ドームを見、原民喜を読み直したりしていると、遠い過去の原爆や、少し前の衝撃的破壊や、今、遠くで行われている戦争がリアルに迫ってきた。
 


 



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