安芸小富士から平和記念資料館・ひろしま美術館


2−2  原民喜詩碑/谷口吉郎


原爆ドームのすぐ近くにある。(南東方向)

原民喜は、作家、詩人。1905−1951。
広島市生まれ。幟(のぼり)町の世界平和記念聖堂の南に生家があった。
慶應義塾大学文学部英文科を1932年に卒業し、翌年、永井貞恵と結婚。
1942年に千葉県立船橋中学校に英語教師として勤務。
1944年に妻が亡くなり、翌1945年1月に、千葉から広島の生家に疎開。8月に被爆した。

死を免れ、被爆後の広島を見て、このことを書き残すことが自分が生きていることの意味だと思い定め、「夏の花」ほか数編を書く。

僕の眼が一本のすっきりした木の梢にとまったとき、大きな褐色の枯葉が枝を離れた。枝を離れた朽葉は幹に添ってまっすぐ滑り墜ちて行った。そして根元の地面の朽葉の上に重なりあった。それは殆ど何ものにも喩へやうのない微妙な速度だった。梢から地面までの距離のなかで、あの一枚の枯葉は恐らくこの地上のすべてを見さだめてゐたにちがひない。
(「心願の国」 原民喜全集第2巻 芳賀書店 1965)

1950年には朝鮮戦争が始まると、核兵器を使う可能性が語られもするようになる。
その翌年の1951年に自殺した。
 

原民喜の死を悼む人たちが作った詩碑の1面。

 原民喜詩碑の記
 原民喜は人がら清純沈鬱に流俗と遇ひ難い詩人であつた。一九五一年三月十三日夜、東京都西郊の鉄路に枕して濁世を去つた。蓋しその生の孤独と敗戦國の塵勞とは彼の如き霊の能く忍ぶところでは無かつた。遺書十七通、先づ年来の友情を喜びさてさりげ無く永別を告げんと記し、うち二通の文尾に書き添へた短詩「碑銘」は思を最期の一瞬に馳せて亡妻への追慕と故郷壊滅の日を記した力作「夏の花」に寄する矜持と又啼泣とを「一輪の花の幻」の一句に秘めて四十六年の短生涯を自ら慰め弔ふもの、辞は簡に沈痛の情は深い。遺友等ために相謀り地を故郷に相し銘記せしめて之を永く天地の間に留めた。
   一九五一年七月十三日夜
    遺友中の老人 佐藤春夫 記す
                碑  設計  谷口吉郎


詩碑のもう1面。

遠き日の石に刻み/砂影おち/崩れ墜つ/天地のまなか/一輪の花の幻

この詩碑は、はじめ広島城址に建てられたが、投石の標的になって破損し、現在地に移転、修復されたという。
最近でも、2002年には公園内の5万羽の折り鶴が放火で焼失したり、記念碑などへの落書きが相継ぎ、監視カメラが設置されたりしている。
原爆は人が生きることへの大きな悪だと思うけれど、その悲惨を記録するものに対する小さな悪意にも気持ちが暗くなる。

 


*建築家・谷口吉郎(1904-1979)はたくさんの碑を設計している。

1947 徳田秋声文学碑
1949 島崎藤村墓所
1951 佐々木小次郎の碑
1952 兒島喜久雄墓碑
1953 森鴎外詩碑
1956 木下杢太郎詩碑 高村光太郎葬儀式場構成
1960 火野葦平文学碑
1962 森鴎外文学碑
1963 永井荷風文学碑 吉川英治墓所
1964 室生犀星文学碑
1965 正宗白鳥文学碑
1969 鴎外遺言碑
1970 志賀直哉赤城文学碑
1971 硫黄島戦没者の碑
1976 北原白秋歌碑
1977 中河与市文学碑
1979 沖縄戦没者慰霊碑

→ [ 谷口吉郎+秩父セメント第2工場の夢 ]
 



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