安芸小富士から平和記念資料館・ひろしま美術館


 広島市現代美術館/黒川紀章
 頼山陽文徳殿


■ 広島市現代美術館

広島市南区比治山公園1-1 
tel. 082-264-1121
http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/


1989年開館。設計は、広島市都市整備局+黒川紀章建築・都市設計事務所。
比治山(ひじやま)の尾根に位置し、周囲の樹木より高くならないよう建物の高さを抑え、入口階が1階、展示室は地下に続く。
北側の階段を下りるとまんが図書館に伸びていく軸線が意識されているが、より意味があるのは被爆地を示す方向性。中央の円形広場の切断面を通して階段の先にヘンリー・ムーアの門の形の彫刻を見下ろすことになるが、さらにその先が爆心地を示している。

ひととおり展示を見てから美術館のパンフレットを見てみると、円形広場から館内に入っていこうとする初めの円形の小部屋に被爆した石が使われているという。
気がつかなかったので戻ってみると、確かにそういう場所があったが、広いロビーから長いマットが無造作に延びてきていて被爆した石の半ば以上を覆い、脇にはイベント案内だったかの看板が置かれている。
被爆した石を使うということは、メッセージをもった特別な所であるはずだし、建築の内と外とをゆるやかにつなぐ中間領域を設けようとする黒川紀章の建築思想からいっても大切な一画であると思う。
そこに長いマットを置かざるをえない事情があるのかもしれないが、いい空間を作るべき美術館にしては無神経なように感じられた。
 












■ 頼山陽文徳殿(ぶんとくでん)

広島市現代美術館から、比治山通り方向に下る途中の斜面にある。

頼山陽(らい さんよう 1780-1832)は大坂で生まれるが、父春水が広島藩に迎えられ広島に移る。
1800年に突如脱藩して京都に向かった。当時、無許可の移動は重罪で、死罪は免れたが、自宅に幽閉された。その間に皇国史観に基づいた日本の通史を「日本外史」にまとめる草稿を手がけたという。

この建物の建設の経過はよくわからないが、古本のサイトで検索すると、「先哲遺墨集  山崎楠岳編  頼山陽文徳殿建設翼賛会  昭和8年 和綴じ本2冊組」というのがでてきたから、没後100年にあたる1932年(昭和7年)を機会にした建設の動きがあったと思われる。

原爆には持ちこたえたが、屋根上の九輪の塔は、いびつに変形して、今でもそのまま残っている。
瓦で葺かれていた屋根は、爆心方向だけ壊れた。一度、全面にわたって瓦で葺きかえられたあと、その後の傷みを修復するために現在の合成樹脂の屋根になった。
補修のときに、瓦をとめる桟木が、5寸厚の無節(むぶし)のアカマツであることがわかった。気合いの入った建物だったわけだ。
外壁には、柱なしで漆喰が塗られている。壁面の角も漆喰でピッチリ仕上げてあって、今ではこれだけの技術は再現不能ではないかという。
外壁の下のほうは校倉(あぜくら)づくりのイメージ、屋根は寺院の塔、玄関に2枚の袖がでているのは中国の廟のつくりといわれる。設計者、設計の経過は不明だが、あれこれの様式をとりこんだポスト・モダンの先駆けのような、かわった味のある建築である。

はじめは頼山陽の思想を伝える講習所だったようだが、戦後は公民館のように使われていた。1980年に政令市になってからは、各区に集会施設が整備されて使われなくなった。中には当時のテーブルやヒーターなどが放置されていて、建物の異様な外観とあわせて、独特の雰囲気になっている。

市の中心部、中区袋町に頼山陽史跡資料館があり、こちらにはまっとうに頼山陽を紹介する展示がある。 










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