鬼怒川・小貝川から「もりや学びの里」・間宮林蔵記念館 ・
県南総合防災センター・東京藝術大学大学美術館取手館



 3  間宮林蔵記念館 (小貝川畔 )


茨城県筑波郡伊奈町上平柳64
tel. 0297−58−7701


小貝川左岸の土手の、川の外側に間宮林蔵記念館がある。
間宮林蔵(1780−1844)はこの近くの生まれで、記念館の隣に生家が移築されている。



間宮林蔵は、岡堰の工事を眺めて河川工事の役人と話したりしているうちに才能を認められ、江戸に上り、測量を学んだ。
1808年と1809年の2回、樺太を北上して測量した。
当時、世界地図のうえで最後の未確認地域で、フランスやイギリスやロシアの探検家たちによる半島説が有力であり、また、日本からみた樺太と、大陸からみたサハリンが、同じものかどうかわかっていなかったが、それらが同じものであり、島であることを確認した。
まだ地図にないところにあえて踏み込むのはまさに冒険といっていい。

シーボルトは1829年に日本から追放されて帰国後、1832年に『日本』を公刊するが、ここに収めた日本地図の翻訳図に、間宮林蔵の調査に基づき間宮海峡の名を記し、世界地図上に日本人の名が残ることになった。

          ◇          ◇

北方に着任した初めの年、間宮林蔵は体がむくんで衰弱する水腫病にかかる。本州から来た者の多くがこの病気に悩まされ、亡くなる者も多かった。
もとから現地に住むアイヌはかからない。
そこで、魚を食べ、現地の人と同じ暮らしをすることで、水腫病にかからなくなる。
植村直己(1941-1984)が、冒険の旅にでると、これが食べられなくてはこれから先へは行けないと思いつつ、のどを通りにくいのをこらえて現地の人が食べるものを食料にしたということを思い出した。
間宮林蔵のことを読んでいて、しばしば現代の冒険者、植村直己のことが結びついて思い出された。
植村がマッキンリーで亡くなったあと、グリーンランド最南端の山が植村峰と名づけられたが、日本人の名が世界地図に記されるのは、間宮海峡以来かもしれない。
( → 植村冒険館 )

          ◇          ◇

間宮林蔵の関連資料は少ない。
後半生、幕府の隠密だったために遺品を処分されたためとも、いつでも旅にでられるように簡素な暮らしをしていたためとも考えられる。
記念館には、遺品のいくつかと、樺太の測量探検により作図された地図の複製などが展示されている。
国立公文書館蔵の樺太の絵図を複製して展示してあるが、縦長7枚で14mにもなる大きなもので、海から見た山の姿で海岸線の輪郭をかいている。

          ◇          ◇

記念館の少し上流に浄土宗専称寺がある。
幼い頃、ここで間宮林蔵は学んでいるが、その墓地に、樺太に旅立つ前、生きて帰れないことを予期して自らたてた墓がある。
のちに樺太探査の功績で出世するが、この頃は身分が低く、とても小さな墓である。
その手前に見上げるほどの大きな顕彰碑があるのは、志賀重昂(しがしげたか1863-1927)が建立を推進したもので、1910年に作られた。


同じ年、志賀重昂はまた、日本画家・松岡映丘(1881-1938)に依頼して、間宮林蔵の肖像画も残した。
間宮林蔵のイメージは、このほかにほとんどないので、あちこちで松岡作品の顔を見ることになるが、松岡は林蔵没後の人で、直接には顔を知らない。小さいころに会ったことがあるという地元の人の話と、子孫の顔つきから造形したという。
松岡映丘は、歴史風俗画を多く描いた画家で、古い時代の武具や服装などの考証は得意だったはずで、林蔵の肖像画には測量具を描き込んでいる。
いい作品とだと思うのだが、間宮林蔵に関する資料のなかでは、たんに「間宮林蔵肖像」とだけ表記され、松岡映丘の作品という扱いをされていないことが多い。
また、写真は残っているが、原作品は、第2次大戦の東京空襲のとき、預かっていた人が背負って避難する途中で紛失し、見つかっていないという。(「間宮林蔵の再発見」大谷恒彦) 
苦労して描いたのに、画家がかわいそうな気がする。

伊能忠敬 1745−    1818
最上徳内  1755−    1836
間宮林蔵   1780−    1844
シーボルト   1796−      1866
志賀重昂               1863−1927
松岡映丘                1881−1938

          ◇          ◇


間宮林蔵が樺太を測量探検しておよそ200年。
サハリンをめぐって、日本とロシアには、多くの争いがあり、人の行き来があった。
あらためてたどってみると、樺太ではそんなことがあったのか、とか、あれは樺太で起きたのか、とかいうことがいつくもあって、遠い北の島は関心の外であったことに気づかされた。

1855 日露和親条約(下田条約):日露の共同領有地となる
1875 カラフト千島交換条約(サンクトペテルブルク条約):
     サハリン−ロシアに 千島列島−日本に
1890 チェーホフが訪れる この頃、流刑地であった 『サハリン島』
1904 日露戦争
1905 ポーツマス条約(日露講和条約):
     北緯50度以南が日本領「樺太」になる
1917 ロシア革命
1923 宮沢賢治 妹とし子をなくして傷心の旅 『オホーツク挽歌』
1925 日ソ基本条約:
     ・ソ連の革命政府を承認
     ・北サハリンの石油と石炭の45年間の開発利権を得る
     ・占領していた北サハリンから北緯50度まで撤退
1929 安西冬衛(1898-1965)詩集「軍艦茉莉」
      「春」
        てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた
1938 女優岡田嘉子 樺太から国境を突破してソ連に亡命
1940 のちの横綱大鵬 ウクライナ人の父と日本人の母の間に生まれる
1941 日ソ中立条約
1945 ソ連、日ソ中立条約の破棄を通告し、対日参戦
1945.8.22 日ソ停戦条約
1945.8.23 北海道留萌沖で樺太からの引き揚げ船をソ連潜水艦が攻撃し、約1700人死亡
1946−49 日本人約31万人引き揚げ
         朝鮮人は日本人でないという理由で引き揚げ対象にならず、残る
1951 サンフランシスコ平和条約:サハリンの領有権を放棄
1952 スターリン、大陸とサハリンを結ぶトンネル工事に着手
     (1953.3のスターリン死去後、未完のまま中止)
1983 大観航空機 ソ連の戦闘機に撃墜され、サハリン南端の沖に落ちる
     269人死亡
1989 ペレストロイカにより、外国人立入禁止区域の指定解除
1991 ソヴィエト社会主義共和国連邦の解体
1994 函館−ユジノサハリンスク定期航空路
1995 小樽・稚内から定期航路
2001 外務省が総領事館、北海道が事務所を設ける

          ◇          ◇


左が小貝川。土手の右の屋根が専称寺で、土手に近い側に間宮林蔵の墓がある。
この写真は下流から上流に向かってとっている。



TOPこのコースの先頭に戻る次へ→