牛久沼から小川芋銭記念館


 1  小川芋銭記念館 
 2  牛久沼  
 3  伊奈町町立歴史館・ワープステーション江戸 

3本の川が流れこんで牛久沼を作り、沼からの水は小貝川に入り、利根川に合流し、やがて太平洋に注いでいる。
沼を見下ろす高台に暮らした小川芋銭の晩年のアトリエが記念館として公開されている。

→ [ 鬼怒川・小貝川から「もりや学びの里」・間宮林蔵記念館・東京藝術大学大学美術館取手館 ]



 1  小川芋銭記念館 

茨城県牛久市城中町2773−2
tel. 0298−71−2301(牛久市教育委員会生涯学習課)

■ ひとに会わないゴールデンウィーク
■ うたた寝
■ 雲魚亭
■ 芋を食う銭
■ 幸徳秋水が漫画に寄せた序文
■ 水戸の大観、牛久の芋銭
■ 沼畔の隣人−住井すゑ
■ 竜巻+噴火+地震
■ 年譜


■ ひとに会わないゴールデンウィーク

車で牛久沼東岸の細くうねる道を行く。出雲大社から出雲教の社殿の前を通って弥山(みせん)の登山口に向かう道がこんなふうだったと思い出す。
カッパの絵だけの標識を曲がる。小川芋銭(うせん)記念館とかの文字はなくて、カッパの顔だけ。一度通り過ぎてから、あれがそうだったかと戻った。
数台きりおけない駐車場に車を置く。
沼に向かう道が突き当たると、右側に河童の碑、左側に記念館がある。
河童の碑を見てから、木々に囲まれた道を戻って、小川芋銭記念館にむかった。

昼近くなっていたので、記念館の垣根の前のベンチで弁当にする。
妻が用意したのを、妻と2人で。
牛久沼を見下ろす位置にいるのだけれど、木の間ごしに狭い範囲きりみえない。
茫洋とした水面の向こうに、家々の屋根が並んでいる。
若い女性2人が通りかかったが、記念館には入らずに行ってしまった。
ほかに人の気配がない。
休みが5日続くゴールデンウイークの初日なのに、この静けさ。
いつか、やはりゴールデンウイークに鎌倉に行って、ほとんど人に出会わないハイキングコースを歩いたことがあった。
よくこういう人が行かないところを見つけられるものだと、妻に半ば関心され、半ば呆れられる。



→ [ 弥山から厳島神社・宮島町歴史民俗資料館 ]
  [ 鎌倉2−六国見山から神奈川県立近代美術館 ]



■ うたた寝

垣根に挟まれた道を少し入っていくと、右手に記念館がある。
左手に、もう1つ家がある。もともと記念館は本宅の隣に増築されたアトリエで、本宅には今も芋銭の子孫の方がお住まいになっている。

本宅の天魚楼に対して、アトリエには雲魚亭と風流な名があるが、つくりはふつうの日本家屋で、玄関があり、廊下をめぐると床の間つきの座敷があり、トイレもある。風呂はない。
見学は無料で、無人。玄関も障子も雨戸もあけっぴろげで気分がいい。
縁側に妻と並んで腰かける。さっき弁当を食べたベンチのあるところより、少しだけ地面が高い。わずかに高さを加えて沼を見下ろすことになる。
暑すぎない日が射していて、ほかほか気持ちがいい。うとうとした。



芋銭の絵で、僕がいちばん気に入っているのは「夢中野干燈(むちゅうやかんとう)」(1925)という作品。(茨城県近代美術館蔵)
画面いっぱいに川がある。左はしに船の半ばだけが描かれる。反り上がる舳先(へさき)に腰かけた漁師あるいは釣り人が、崩れるように前に頭を傾けて眠っている。長いさおはわきに抱えたままで、操っていない。流れをうける草むらのゆらぎぐあいが、川の流れが速いことを示している。船が、つーっと滑っていくスピード感がある。
船底には円い籠が1つと、長い筒数本とがある。
竹を編んで作った細く長い筒は、沼の底に沈めておき、ウナギやドジョウのような魚が中に入ると後戻りできなくなるのを引き上げてつかまえる。円い籠には収穫をおさめてあるのだろう。
釣果(ちょうか)の満足。少しの間うとうとしても、このあたりは大丈夫という安心感にまかせて、速い川の流れに乗っている怠惰な気分。
絵を外から眺めているより、画中の人に感情移入して、快い。

芋銭の絵にはたくさんの水が描かれている。体の中を血液が流れるように、山野には川が流れ、湖や沼を作り、海に流れ込むことで自然が生きているという感覚があったかもしれない。


■ 雲魚亭

雲魚亭が作られたのは1937年。
芋銭はここで絵を描き、ときには縁側から沼を眺め、また、ときには思い立って沼まで降りていたりしていたのだろう。
雲魚亭ができる前の日記だが、こんなのがある。
月28日 晴北の風強朝新晴の湖辺ニ画材を索めて坂を下り 井の畔ニ逍遥す 写景ニ葉
(小川芋銭日記『二一五帳』)

「写景ニ葉」というのは、スケッチしていた紙に葉が散り落ちてきたのだろうか。

芋銭は翌1938年には亡くなったので、雲魚亭を使ったのはわずかな期間だった。


■ 芋を食う銭

芋銭というのはかわった号だが、絵をかいて芋を買えるほどの銭がえられるようにという意味だという。
米とか酒とかいわずに芋をもちだしてくるのは、徒然草60段を参照しているようだ。

真乗院に、盛親僧都(じょうしんぞうず)とて、やんごとなき智者ありけり。芋頭(いもがしら)といふ物を好みて、多く食ひけり。談義の座にても、大きなる鉢にうづたかく盛りて、膝元に置きつゝ、食ひながら、文をも読みけり。患ふ事あるには、七日・二七日など、療治とて籠り居て、思ふやうに、よき芋頭を選びて、ことに多く食ひて、万の病を癒しけり。人に食はする事なし。たゞひとりのみぞ食ひける。極めて貧しかりけるに、師匠死にさまに、銭二百貫と坊ひとつを譲りたりけるを、坊を百貫に売りて、かれこれ三万疋(びき)を芋頭の銭と定めて、京なる人に預け置きて、十貫づつ取り寄せて、芋頭を乏しからず召しけるほどに、また、他用(ことよう)に用ゐることなくて、その銭皆に成りにけり。「三百貫の物を貧しき身にまうけて、かく計らひける、まことに有り難き道心者なり」とぞ、人申しける。

芋頭(いもがしら)は、薩摩芋ではなくて、里芋のこと。


■ 幸徳秋水が漫画に寄せた序文

芋銭には、のんびりと絵をかいていた印象があるが、幸徳秋水(こうとくしゅうすい1871-1911)と親交があり、平民新聞などに風刺画をかいていた時期がある。といって、政治的・思想的信条で行動したというより、ふつうの人への共感によるものなのだろう。大正ロマンのヤワな絵をかいていたと思われている竹久夢二が、やはり初期に社会主義に親しみ、幸徳秋水とも交わりがあり、風刺画を描いていたことと共通するところがある。

1908年刊の「草汁漫画」に幸徳秋水がこういう文章を寄せている。

 我れ芸術に通せず、絵事を知らず、而かも甚だ芋銭子の画を好む
(中略)
 嗚呼我徒社会主義者は、其貧に泣き、病に苦しみ、社会に詛はれ、官府に虐まれ、具に逆境の酸を嘗むるの過去五年間、芋銭子が特に『平民』『直言』『光』等の諸雑誌の為めに揮洒せる諸作に依て、如何に多大の慰藉、清興、鼓舞、奨励を与へられしよ
 芋銭子は全国一万の社会主義者の取て一個の恩人なり、我れは子の画に対する毎の、感謝の念、懐に満つ
  一千九百八年二月     幸徳秋水



幸徳秋水は2年後の1910年には大逆事件で逮捕され、翌年処刑される。一時期、芋銭も行動を監視されていた。


■ 水戸の大観、牛久の芋銭

初期には漫画や風刺画を描いていた小川芋銭だが、1917年、49歳のときに横山大観に認められて日本美術院同人に推挙される。
芋銭と大観は同じ1868年、明治初年の生まれで、出身地も同じ茨城県(芋銭は生まれは赤坂だが、牛久藩の屋敷であり、3歳で牛久に移っているから、ほとんど茨城の人といっていいだろう)。
そこで「水戸の大観、牛久沼の芋銭」という比較をされるのだが、大観には別に「東の大観、西の栖鳳」というのもある。大観というのはいろいろ比喩の基準に使われるすごい人だったわけだ。

小川芋銭は、牛久沼という拠点をもちながら、「万里の道を行き、万巻の書を読む」という文人画の世界も理想として、各地に旅をした。
中川一政は、やはり文人画を描いた富岡鉄斉と比較して、「鉄斉は支那のにおいがするが、芋銭さんは日本のにおいがする」と評したという。


■ 沼畔の隣人−住井すゑ

小川芋銭の晩年、近くに住井すゑが越してきた。
住井すゑ(すみいすえ1902-1997)は奈良県の生まれで、1921年に農民作家犬田卯(しげる1891-1957)と結婚し、夫の農民文学運動に一貫して協力した。
夫の郷里の牛久村に転居したのは1935年で、夫の持病の喘息が悪化したので空気がいいところを求めてきた。
芋銭は1938年に亡くなったから、わずかの期間、牛久沼での生活が重なっていたことになる。
住井すゑの代表作『橋のない川』は、ここで執筆され、1959年から1960年にかけて部落問題研究所の雑誌「部落」に連載された。
連載エッセー『牛久沼のほとり』には、しばしば尊敬と愛着をこめて芋銭のことがふれられている。連載には牛久沼での情趣豊かな生活が綴られているのだが、しだいに沼が汚れ、生き物が少なくなり、競艇の練習場にしようという計画まで起きたりして、寂しい。
1997年自宅で95歳で亡くなる。


■ 竜巻+噴火+地震

牛久沼はやがて利根川に合流し、利根川は銚子で太平洋に流れ込む。
その河口の北、海鹿(あしか)島を望む海岸に潮光庵という別荘がある。芋銭の絵の愛好者である篠目八郎兵衛という茨城県高浜の運漕業者が提供したもので、ここを芋銭はしばしば訪れ、滞在している。1933年9月25日、芋銭はここで竜巻を目撃している。


 (略)一昨二十五日偶島近く起りたる龍巻に忽鬱屈の悶を打彿らひ爽然と致候、龍巻は犬吠の燈台より三倍の高さにて古人水墨の龍姿を其まゝに現はし海上陥没して潮波天に朝する事数丈閃々たる白光恰も鱗甲の如くに候、よくよく漁村接近したる事とて海人危懼一方ならざりし処幸雲散じて霊空に消へ白雨雷鳴交はり来りて遂に無事に相済み候、小生としては此為病懶一掃漸く気力の加はるを覚へ申候、快喜に存候しばらく筆を描きをり候が是より始じめ申候(略)
 九月二十七日                    小川芋銭


これは手紙の文章だが、「鬱屈の悶を打彿らひ」「気力の加はるを覚へ」るほど、痛快な眺めだったようだ。

なぜか小川芋銭は天災と関わりが多い人で、経歴のスタート時の1888年、20歳で尾崎行雄の推挙により朝野新聞客員に迎えられて間もなく、7月15日の磐梯山の噴火に派遣されている。まだ報道写真などない頃のことで、災害の様子をスケッチした。
1913年9月1日に開会予定であった第10回院展に出品を用意していた「水魅戯(すいみたわむる)」は関東大震災を予兆したものといわれた。(院展は開会を延期した。)
1927年には旅先の丹波で新年を迎えるが、3月7日丹後地震が起き、京都府下の死者3589人という大きな被害をだしている。

そうしたことが、目だって芋銭の考え方や作品に反映しているようには思えないが、もともと牛久沼の自然に親しみ、農業も営んでいた芋銭にとっては、そうした災害ももたらすことがある自然ということが、当たり前のように意識されていたかもしれない。

          ◇          ◇

話が横道にそれるが、利根川流域の地誌『利根川図誌』に、海鹿島の図、そこのアシカを遠めがねで遠望する図がかかれている。
地元の医師、赤松宗旦が公にしたのが1867年だが、その30年後にまだ若い柳田国男(1875-1962)が利根町布川に移ってきた。ここに住み、この書があったことが、民俗学者としての柳田国男の誕生に影響を与えている。
岩波文庫版『利根川図誌』の解題の最後には、こう記されている。

思ひ出すことの一つは、最近亡くなつた末弟が十四歳の時、僅かな金をもつて夏の盛りに、利根川の堤を二人で下つて行つた。腹がへつてもうあるくのはいやだといふのを、あしか島を見せてやるからとすかし励まして、夜路を到頭銚子の浜まで行つてしまつた。実は船賃をのけると一泊の金が無かつたからである。ところがその海鹿島には、もう「利根川図志」のやうな海鹿は上つて居なかつた。さうして評判の遠目がねは割れて居た。是がその獣の皮だといふ毛の禿げた敷物の上で、梅干と砂糖とだけの朝飯を余べて還つて来たことがあつた。こういふ種類の旅行や遠足も、算へて見ると十回は超えて居る。それが皆この「利根川図志」を、曾て興味を以て読み入つて居た御蔭であつた。此書を仲立ちとした色々の古い記憶も、斯ういふ機会があるたびに又暫くは残留する。書物の永く世に伝はるといふことは、決して著者ばかりの幸福では無い。
  昭和十三年七月四日      柳田国男


この末弟というのは、画家・松岡映丘(1881-1938)で、この文章にある日付のわずか4か月前、3月2日に亡くなっている。抑えた文章にしているが、弟を思う気持ちがあふれていたことだろうと思う。

柳田国男が海鹿島に行ったのは、末弟が14歳というから、1895年頃のことらしい。
この島(といっても、沖合の岩)は、いろいろな縁のあるところで、1910年には、竹久夢二(1994-1934)がこの近くに旅館に滞在している。隣家の娘に惹かれたが実らず、その悲しみが『宵待草』になったという。
2年後の1912年には、高村光太郎(1883-1956)と長沼智恵子(1886-1938)が、この海岸で出会っている。


■ 年譜

1868 赤坂にある牛久藩の屋敷で生まれる
1871 廃藩置県により、牛久沼畔に移る
1881 上京して本多錦吉郎の彰技堂に入塾して洋画を学ぶ
1888 尾崎行雄の推挙で朝野新聞客員となる
     7月15日磐梯山の噴火に派遣される
1893 父に故郷に呼び戻され、農業する
1913 10回院展に制作した「水魅戯(すいみたわむる)」が関東大震災の予兆といわれる
1917 「盤山肉案」を横山大観が賞賛し、日本美術院同人に推挙される
1927 旅先の丹波で新年を迎える
     3月7日丹後地震 京都府下の死者3589人
1937 アトリエ<雲魚亭>作られる
1938 1月31日脳溢血で倒れる 12月17日死去


小川芋銭 1868      −1938
横山大観 1868        −1958
森田恒友   1881   −1933
小杉放菴   1881       −1964
竹久夢二    1884   −1934
中川一政    1893        −1991
幸徳秋水  1871   −1911
犬田卯     1891     −1957
住井すゑ     1902         −1997

柳田国男  1875        −1962
松岡映丘   1881    −1938
高村光太郎   1883     −1956
長沼智恵子    1886 −1938


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