牛久沼から小川芋銭記念館


 2  牛久沼  


牛久沼には、西谷田川(にしやだがわ)、東谷田川稲荷川の3本の川が流れ込み、八間堰水門を経て再び河道となって小貝川に合流し、その小貝川は取手市付近で利根川に合流し、やがて銚子太平洋に注ぐことになる。
周囲は約20km、沼面積6.52ku。

牛久沼の北西は稲敷台地で、縄文時代の中ころまでは海水が流入して入り江がくい込んでいた。
縄文後期に、海水が後退していく過程で、下流からの逆流により土砂が堆積してせき止めれ、牛久沼ができた−というような説明がされているが、僕には、「後退する過程で逆流があって堆積する」というのが、よく理解できない。

霞ヶ浦、千葉県の手賀沼印旛沼など、このあたりにいくつもある沼は同じ成因でできたというが、残念なことに汚染がひどく、全国の湖沼汚染ワースト○位などというときには、このあたりの沼がそろって登場する。

牛久沼という名のいわれは諸説あるが、僕には、泥が深くて牛をも飲み込んでしまう、午喰沼、というのがおもしろい。

江戸幕府は、農業生産を増やすために治水や開墾を奨励し、伊奈忠治の利根川の付け替えや小貝川の治水は一応成功した。
牛久沼では桜井庄兵衛という豪農が干拓に挑んだが、工事途中に繰り返す氾濫、未熟な土木技術、水を失うことになる農民の反対運動などにより失敗した。
1727年に着手し、1764年には勘定奉行所が干拓中止の裁定をし、37年かけた事業は未完に終わった。一部だけ干拓された土地が、庄兵衛新田という地名に残っている。

→ [ 鬼怒川・小貝川から「もりや学びの里」・間宮林蔵記念館・東京藝術大学大学美術館取手館 ]


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竜ケ崎市史は短冊状の浮田(うきた)の写真を掲載している。
沼の沿岸は低湿地で水害を受けるので、集落は台地の上にあり、低地には水田を作った。低湿地に川や沼の底の泥を掻き揚げて作り、浮田と呼ばれ、短冊状になる。水位が増すと泥は水にさらわれて流れていってしまう。

司馬遼太郎 「街道をゆく」の「潟のみち」に、司馬が潟地方(新潟県)の米作りの映画を見て衝撃をうけたことが書かれている。

 亀田郷では、昭和三十年ごろまで、淡水の潟にわずかな土をほうりこんで苗を植え(というより浮かせ)、田植えの作業には背まで水に浸かりながら背泳のような姿勢でやり、体が冷えると上へあがって桶の湯に手をつけ、手があたたまると再び水に入るという作業をやっていたことを知った。
 映画を見了えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。
(司馬遼太郎 「街道をゆく 9 信州佐久平みち、潟のみちほか」 朝日新聞社 1979)

僕はこの文章を読んで興味をもち、亀田郷まで、その映画を見に行ったのだが、市史によればこの技術は全国にあるという。

僕は亀田郷一帯にだけ特有なものだと思いこんでいたのだが、そうではなかったようだ。(司馬遼太郎も同様に誤解していたろうか?)
関東では「堀上田(ほりあげた)」と呼ばれ、龍ヶ崎市あたりではマコモが3,4尺重なった層の上に土をかぶせたという。
茨城県主導で土地改良が行われ、1974年には牛久沼の浮田は乾田化された。


→ [ 五頭山から水の駅「ビュー福島潟」と、映画「芦沼」を探す旅 ]




参考:
草汁漫画 小川芋銭 造形社 1976 
      付:解題(宮川寅雄) 日高有倫堂明治41刊の復刻版
小川芋銭 アサヒグラフ別冊美術特集 1987春 朝日新聞社 久喜
小川芋銭画集 鈴木進監修 日本経済新聞社 1988
北関東の文人画 茨城県近代美術館 栃木県立美術館 群馬県立近代美術館 1995
禅機悠遊−小川芋銭と丹波 西躰巍禅/著 出版者:西躰巍禅 1995
小川芋銭日記『二一五帳』 鈴木幸子編 出版者:鈴木幸子 1995
芋銭の風景 木村由美子 常陸書房 1987
牛久沼のほとり 住井すゑ 暮しの手帖社 1983
竜ケ崎市史・中世編 竜ケ崎市史編さん委員会編 竜ケ崎市教育委員会 1998
「「水辺」の開拓誌−低湿地農耕否定的な農耕技術か?」 菅豊『国立民俗博物館研究報告』57集 1994
利根川図志 赤松宗旦 柳田国男校訂 岩波文庫 1938
『利根川図誌』と柳田国男 守屋健輔 崙書房 1983
あびこ版新編利根川図志 赤松宗旦原著 我孫子市教育委員会 1990
河物語・利根川 建設省関東地方建設局河川部河川計画課監修 関東建設弘済会発行 1993 


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