仙元山から山口蓬春記念館・神奈川県立近代美術館 葉山


3-3    吉田五十八 

1894 太田胃散を経営する家に、東京・日本橋で生まれる。
    父が58歳のときの子。

名前なども「考えるのも面倒だから、おれの年をそのまま 名前にしちまえ」というので、父の年の五十八を、そっくり 名前にもらったくらいです。
(吉田五十八「饒舌抄」新建築社1980 以後 、吉田五十八の文章はこれによる。)

(15歳のときに母方の実家を継ぎ吉田姓になる。)

1923 東京美術学校(東京芸術大学)卒
1923.9月 関東大震災
1925 渡欧 関東大震災のあと、設計思想が混乱していたなかで、その頃憧れていた分離派 などの建築を見るために渡欧したが、ドイツやオランダの建築に失望。帰国後、建築設計と、日本建築の近代化の研究に専念。

ドイツからスイスを経てイタリアにはいったのですが、私を驚天動地させたのは、フィレンツェの初期ルネッサンスの建築でした。これを見たとき、こんなにもいい建築がこの世にあったのかと、しばしことばも出ないほど、感激したのであります。その作品のおおらかさといい、その格調の高さといい、また圧倒されるようなボリュ−ムといい、なんともかとも、いいようのない感銘に打たれたので、あこがれのドイツ建築など、どっかへ吹っ飛んでしまったようでした。(略)これが人間のつくりうる、建築に対する最大の限界なのではなかろうかとさえ思われたくらいに、打ちのめされた、(略)そして結論的にいえば、そこに生まれた人で、そこの血をうけた人でなければ建てられないと断じたわけです。(略)いままでの伝統的日本建築に、近代性を与えることによって、別の新しい感覚の日本建築が生まれるに違いない。(吉田五十八)

1941 東京美術学校講師
1946 東京美術学校教授
1949 東京芸術大学教授

近世数寄屋で無用に多かった柱は極力少なくされて大壁となり、垂直水平の線が抽象的世界をつくり出した。そしてこの近代数寄屋あるいは新興数寄屋は全国津々浦々まで影響を与えた。吉田流の数寄屋と宣伝されたもので吉田の手に掛っていないものの多さは吉田をもおどろかせたという。(石井和紘「数寄屋の思考」鹿島出版会)

五十八を五十七とか、五十六とか少し数をへらした名刺をもって歩いている設計者があるということをきいたが、御苦労さまのことである。(吉田五十八)

1974 死去
1974 夫人からの寄付金2億3千万円を基金として吉田五十八記念芸術振興財団設立
1976-1993 財団の事業として吉田五十八賞が贈られる。
        建築界の芥川賞といわれた。


吉田五十八のしたことは「数寄屋建築の近代化」、つまり日本の伝統的木造建築を近代に生かすことであった。石井和紘は「今となってはすっかり見馴れてしまった和洋同居の文化的な姿、これらは吉田五十八によって始められたのだった」と書いている。が、同じくこうも書いている。

 さしもの一世を風靡した吉田五十八の近代数寄屋も最近とりこわされたりで数が減ってきてしまっている。ピシッと寸分のスキもなく、しかも最小要素が直線や平面で組み上げられた近代数寄屋は、近世数寄屋が持っていた狂いや古色に対する免疫を持っていなかったようだから、一度狂ったり、スイてしまったりするともう直しようもなく価値も落ちてしまう。(石井和紘 前掲書)


吉田五十八は美術館・劇場なども手がけた。
美術家との交流も広く、「饒舌抄」で触れられているだけでも、住居やアトリエを設計したのは、
川合玉堂 横山大観 鏑木清方 小林古径 山口蓬春 伊東深水 山川秀峰 梅原龍三郎
交友関係があったのは
速水御舟 松岡映丘 安田靫彦 前田青邨 和田英作 小川芋銭 林武 福田平八郎
といった名前がでている。他に吉屋信子、岩波茂雄などの住宅も設計している。


TOPこのコースのはじめに戻る次へ→