街を歩いて美術展

1 1987年6月6日に安田火災東郷青児美術館で「パリ都市計画グランド・プロジェクト展」を見たこと
2 まれびとのむろほぎ
  2-1 まれびとのむろほぎの意味 / 2-2 まれびとの越後妻有アートトリエンナーレ2000

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2 まれびとのむろほぎ

  2−1 まれびとのむろほぎの意味

2000年の夏から秋にかけて、村野藤吾の美術館建築を見て歩いた。新潟県糸魚川市の谷村美術館に行ったときに、足を伸ばして富山県入善町の下山(にざやま)芸術の森発電所美術館にも行った。北陸電力が河岸段丘を流れる河川で発電をしているが、その施設の更新にあたり、不要になった煉瓦造りの発電所施設を町が美術館にかえている。産業遺産の活用の好例である。

この区域への入り口を示すゲートと、階段の屋根とは、「富山県まちのかおづくりプロジェクト」によるもので、エリアス・トーレス&マルチネス・ラペーニャの設計による。
このプロジェクトは1990年から富山県の中沖知事の発案で開始された。コミッショナーは建築家・磯崎新、コーディネーターは磯崎新アトリエの藤江秀一。県内の市町村が事業主体となり、外国から招待を受けた建築家が、地元の人たちと協力して、それぞれの街に「まちのかお」となるような小さな建築物を作るというものである。その意義について次のような文章がある。


磯崎新氏が「まちのかお」プログラムのコンセプトを説明したときに、日本の伝統である「客」(まれびと)の意味合いについて述べた(中略)。それは、よそものが街にきて、彼の眼と判断から人びとに客観性をもって自己や自分たちの街を見る術を与える。どの国や場所に行っても、その地元の人びとがあまりにも精通しているがゆえに鈍感な部分に、来訪者はしばしばその場所がもつ独特の「ニュアンス」に気づく、ということである。
( 「感性の試行 」 トム・ヘネガン 高橋知之訳 新建築1993年11月 )


ここで言われている「まれびと」は、日本古代の研究において折口信夫が繰り返し説いているものである。


てつとりばやく、私の考えるまれびとの原の姿を言へば、神であつた。第一義に於ては古代の村々に、海のあなたから時あつて来り臨んで、其村人どもの生活を幸福にして還る霊物を意味して居た。(中略)
村を祝福し、家の堅固を祝福し、家人の健康を祝福し、生産を祝福し、今年行ふべき様々の注意教訓を与へたものであらう。
( 「 国文学の発生 まれびとの意義 」 折口信夫全集第1巻 中央公論社 1965 )


客=まれびとはどこからか村を訪れてきて、室(むろ)=家を誉めたたえる。むろほぎをする。それによって、村人はこれからの1年に新しい意欲をもって臨み、健康と繁栄がもたらされる。

古代におけるまれびとは広い地域でみられたが、近代においてもまれびとの例はあって、たとえばブルーノ・タウトや、アントニン・レーモンドがいる。同じヨーロッパから出発して、タウトはナチスに追われて1933年に日本へやってきた。レーモンドはアメリカに渡ってから、フランク・ロイド・ライト帝国ホテルを設計するのにあたり誘われて1919年に来日した。どちらも建築家であり、自身が問題としてかかえていた近代建築の行き詰まりを越える道筋を日本建築に出会うことで発見している。
アントニン・レーモンドは、その後、第二次世界大戦の際、アメリカ軍に協力し、日本家屋の模型をつくり、木と紙の家が早く強く燃える爆弾の製造に貢献している。折口信夫は、まれびとはときに災いをもたらすこともあると畏れられたといっているが、その意味でもアントニン・レーモンドの例は興味深い。(戦後、再び来日したレーモンドは、早く戦争を終わらせたいと軍に協力した結果、自分の貢献が大きな効果をあげて、愛する日本が一面の焼け野原になっているのを見て衝撃を受けている。)

レーモンドが戦後、再来日し、各地に建築を残しているのに比べ、タウトは日本ではほとんど設計の機会がないまま、招かれてトルコに行き、1938年にそこで没した。「桂離宮を再発見した」といわれるが、具体的にタウトが何をもたらしたのかは見えにくい。しかし、たとえば隈研吾がこのところ石の美術館(栃木県那須町)や森舞台(宮城県登米町)などで、タウトが日本で発見したものを契機にした建築を続けているように、タウトの発見は今も有効であると読みとることが可能である。

( 隈研吾とタウトに関しては、「 反オブジェクト 建築を溶かし、砕く 」 隈研吾 筑摩書房 2000 を参照 。レーモンドに関しては [ ライシャワーとアントニン・レーモンド/東京女子大学とアメリカ大使館 ] 参照。)

タウト、レーモンド、近代建築と日本建築の関わり、2人の建築家の軌跡など、とても面白いものだが、建築上のことはいったんおくとして、タウトと桂離宮の関わりについて、タウトの文章を引用したうえで、高橋秀夫は次のように書く。


松琴亭につづく「遊歩道」、しなやかな線が池辺をめぐり、橋があり、小丘がある。自然石の下に設けた排水溝。丘の繁みに立つ石灯籠の灯火は蛍をいざないよせ蛍の光はまた池水に映じる、その様を月見台から眺めるのである。

この一節で目につくのは、タウトが実際に見てはいない筈の蛍の夜景が叙されていることだ。実見していないものの叙述などは、いかがわしく、嘘めいているだろうか。それはマイナスの虚景なのか。いや、むしろその「虚」をこそ評価すべきだと思う。それは「まれびと」が土地の有力者、世話人、識者から知識を供給されて、それを「家ほめ」の祝詞に採って活かしたのであり、それこそ、「まれびと」にふさわしい行為に他ならなかった。単に「実」にかかわるのではなく、「虚実」にかかわるのが「まれびと」という外来者だからである。
( 「 ブルーノ・タウト 」 高橋秀夫 講談社学術文庫 1995 )


これは古代のまれびと、近代におけるタウトのことだけでなく、現代において建築家やアーティストが異郷を訪れること一般に広げてみても妥当であり、アーティスト・イン・レジデンスや野外展におけるアーティストの制作の意義はそのようなものだと考える。
たとえば「富山県まちのかおづくりプロジェクト」で磯崎新が想定したことは、個別の建築に求められる機能を充足するだけでなく、まれびと=建築家が地域を解釈する視点をもって設計することだろう。トム・ヘネガンは客観性という言葉を使っているが、まれびとの視点は客観的なものにとどまらず、想像力が関わった、「虚実」双方に及ぶものになる。



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