茂来山から奥村土牛記念美術館



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奥村土牛 年譜
          (事項ごとの引用は奥村土牛「牛のあゆみ」日本経済新聞社 1974から)

1889 東京・京橋に生まれる。
私の家は今のブリヂストンの通りで、前の通りの西の突き当たりが八重洲口、昔はそこからお濠になっていて、八重洲橋という橋がかかっていた。(中略) 今の東京駅一帯は野原で、土塀が連なっていた。さびさびとした風景で、ちょうど奈良の社家町のようであった。友達とトンボつりに行った思い出もある。

1895 日本橋の城東尋常高等小学校入学

二、三年上級生には岡本一平さん、川端竜子先生、美術評論の仲田勝之助さんなどがいた。

1905 梶田半古(1870-1917)塾に入門、小林古径の指導を受ける。
    塾の先輩に前田青邨がいる。

1906 日本絵画展覧会に「菅公の幼時」入選。

1917 初のスケッチ集を出版。

私の「土牛」の号は、このスケッチ集の出版に際して父がつけてくれたものであった。寒山拾得で有名な中国・唐時代の禅宗の偉い坊さんの寒山の詩の中に、「土牛、石田を耕す」とうのがあり、それからとったものであった。


1920 大森・馬込に小林古径の画室が完成し、留守番役を兼ねて住み込み、共に制作しながら指導を受ける。

馬込の古径先生の画室で、心から尊敬する先生と共に絵を描けるのは、この上ない喜びであった。先生の精神の高さ、絵に対する厳しい気持ち、それがおそばにいることで身にしみてよくわかった。(中略)一日中ほとんど私と先生だけで、先生も口数が少なく私も無口の方であるから、静かに一日が終わるのであった。


1923 関東大震災で家が焼け落ち、ほとんどの作品を失う。

1925 徳島生まれの森仁子と結婚。

1926 速水御舟の研究会に入る。

私は制作に迷いを生じ、馬込の古径先生のお宅をお訪ねした。先生はいつものように、物静かに有意義な話をされたあと、「御舟さんの研究会へ行ってみてはどうか」といわれた。そして早速、紹介状をしたためて下さったのだった。(中略)
御舟先生の研究会では、私は随分、得るところが多かった。特に先生の絵に対する厳しい姿勢と、近代感覚とでもいおうか、鋭敏な感受性からは大きなものを教えられた。

1927 第14回院展に「胡瓜畑」が初入選。(東京国立近代美術館蔵)

題材の「胡瓜畑」は前々から描きたいと思っていたものだった。世田谷の等々力まで行っていい場所を捜し、いろいろな角度から繰り返し写生した。葉の柔らかいふくらみ、その上にまかれた白い葉の模様の面白さ、蔓の勢い、そんな雰囲気を心に入れながら写生した。


1932 日本美術院同人に推挙される。

1935 帝国美術学校(武蔵野美術大学)で教える。

山口蓬春、小茂田青樹、郷倉千靭の諸氏のあとを受け継ぐことになったわけで、私と一緒に服部有恒、土田麦僊のお二人が教師になった。
学校には週に二度くらいずつ通った。西荻窪にあったのだが、当時は駅を降りるとまわり一帯はずっと畑ばかりで、遠くから学校の建物が見えるのだった。


1936 第1回帝国美術院展覧会で「鴨」推奨第1位となる。

新帝展の開会日は、二月二十六日であった。(中略)その夜、古径先生のお弟子さんたちが集まって、私の推奨第一位のお祝いをしてくれるというので、赤坂の山王ホテルに呼ばれた。(中略)お祝いを受け、食事を終わって外に出ると、外は一段と雪が積もり、白皚々たる景色であった。そうして、まだそんなにおそくないのに、通りには人っ子一人いないのであった。(中略)
世にいう二・二六事件がこの日未明に起きたということは、翌日になって初めて知ったのであった。しかも私たちが食事をとった山王ホテルが、首謀の青年将校たちの反乱の相談の場所であったという。

1940 急性肺炎で重体になる。

翌年の五月のことであった。横山大観先生から、突然「某日午後何時に某所へ来るように」との鉛筆のはがきを頂いた。(中略)
先生は盃を上げながら、いろいろなことを話された。中でも今も忘れることができないのは、「君、絵というものは、山水を描いても、花鳥を描いても、宇宙が描けなかったら芸術とは言えないよ」とのお言葉であった。鳥を描くなら鳥の声も聞こえなくてはならぬ、それが宇宙の生気というものではないか、と言われた。(中略)
病気の間中、先生には一方ならぬご心配を頂き、そして病後、やせ衰えて先生にお礼に伺った時は心からいたわって下さった。もう戦争も始まり、車も不自由な時であったが、特にご自分の車を出して送って下された。私はうれしくて、車の中でとめどもなく涙が流れてとまらなかった。

1944 東京美術学校日本画科講師となる。

毎週金曜日には、安田、小林両先生が必ずご出勤になった。授業が終わり休み時間になると、私たちは教室で両先生を囲み、いろいろとお話を聞くのであった。絵のことや他の芸術一般のことなど、和やかな話ぶりの中にも厳しい心構えがのぞいて、どんなに楽しくまた勉強にもなったことだろうか。今思い出しても、懐かしい限りなのである。

1945 長野県南佐久郡臼田町に疎開

戦争が終わっても、たまに東京に出ていくだけで、ほとんど佐久にとどまっていた。東京は、全く様子が変わってしまって、どこに行っても驚くほどの荒廃ぶりであったが、田舎の自然には変わりがなく心が休まった。(中略)
家の庭に下りると、目の前に八ヶ岳がそびえ、その手前に千曲川が流れていた。右を見れば浅間山が煙を吐いていた。空気は澄み切っていて、浅間山のふもとの、遠くの村々まではっきりと見えるのであった。

1947 穂積村に移る。

こんどの穂積もやはり美術好きの黒沢さんのお世話であった。黒沢さんは醸造業を営む土地の旧家で、一族の会議用の会館を持っていて、その一隅を拝借したのであった。
あのあたりは、なんとしても清らかで美しかった

1951 武蔵野美術大学教授となる。信州を引き払い、東京・西永福に移る。

1959 日本美術院理事となる。第44回院展に「鳴門」を出品。

「鳴門」は、この年の六月に家内の父の法事があって徳島に行った帰途に写生したものであった。(中略)雄大でまた神秘的でもある渦潮を見ていると、描きたいという意欲が、おさえ難くわき上がってきた。
しかし、写生帳を取り出しても、そのころの汽船は渦のそばまで行くと揺れに揺れて、写生はおろか、身体をしっかり支えているのも困難なほどであった。このため後ろから家内に帯をつかんでもらい、まるで人が見たら符牒かと思うかもしれぬような写生を何十枚も描いた。そして同時に、その時の新鮮な印象を頭の中に刻みつけた


1989 百寿記念奥村土牛展を開催。

1990 逝去。享年101歳。 



1850 1900 1950        2000
1868               横山大観  1958
1870 梶田半古
1917        
1883 小林古径 1957           
1884               安田靫彦      1978
1885 前田青邨 1977         
1889                 奥村土牛      1990
1894   速水御舟 1935



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