入笠山から (旧)富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム



2-2  堀辰雄   


堀辰雄(1904−1953)は、富士見高原療養所に2度の縁があった。
初めは1931年に自分が入院。3か月で退院した。
富士見高原病院に保存されている当時の入退院記録をみると、
 堀辰雄 32(歳)著述業 向島 4/7 3/11 軽快
と記されている。(日付は日/月)
最後の欄に「軽快」とあるとおり、完全に回復しないままの退院であった。

1933年に軽井沢で矢野綾子と知り合い、婚約する。1935年7月、結核を発病した矢野綾子が富士見高原療養所に入院。堀辰雄も付き添って療養所に滞在した。

 八ヶ岳の大きなのびのびとした代赭色(たいしゃいろ)の裾野が漸(ようや)くその勾配を弛(ゆる)めようとするところに、サナトリウムは、いくつかの側翼を並行に拡げながら、南を向いて立っていた。その裾野の傾斜は更に延びて行って、二三の小さな山村を村全体傾かせながら、最後に無数の黒い松にすっかり包まれながら、見えない谿間(たにま)のなかに尽きていた。
 サナトリウムの南に開いたバルコンからは、それらの傾いた村とその赭(あか)ちゃけた耕作地が一帯に見渡され、更にそれらを取り囲みながら果てしなく並(な)み立っている松林の上に、よく晴れている日だったならば、南から西にかけて、南アルプスとその二三の支脈とが、いつも自分自身で湧(わ)き上らせた雲のなかに見え隠れしていた。
   (『風立ちぬ』 堀辰雄 新潮文庫1977(1938) )

12月には矢野綾子は亡くなる。
このときの経験が『風立ちぬ』になるが、1936年から短い章を書きつなぎ、最後に1938年3月、「新潮」に『死のかげの谷』の章を書いて完結した。
その時間の経過は、制作のための時間であるのと同時に、悲しみから回復するのに要した時間でもあったろうと思う。



堀辰雄 略年譜

1904 12月28日東京麹町に生まれる
1921 第一高等学校理科乙類入学 小林秀雄、深田久弥と知り合う
1923 室生犀星と知り合う
     8月軽井沢に行く
     9月関東大震災で母を喪う
     10月芥川龍之介と知り合う
     肋膜炎のため休学
1925 第一高等学校卒業 東京帝国大学文学部国文科に入学
     中野重治と知り合う
     7月軽井沢に滞在
1927 芥川龍之介 死去
1928 重い肋膜炎で休学
1929 東京帝国大学を卒業 卒業論文「芥川龍之介論」
1931 4月富士見高原療養所に3か月入院 『恢復期』
1933 6月軽井沢で矢野綾子と知り合う
1934年にかけて『美しい村』
     立原道造と知り合う
1934 (1月19日 竹久夢二、富士見高原療養所に入院)
     信濃追分油屋旅館に滞在 9月、矢野綾子と婚約
     (9月1日 竹久夢二、富士見高原療養所で死去)
1935 7月矢野綾子と富士見高原療養所に入院
     12月6日矢野綾子死去
1936 1938年にかけて『風立ちぬ』
1937 加藤多恵と知り合う
     11月油屋旅館が全焼 軽井沢の川端康成の別荘に移る
1938 3月『風立ちぬ』完成
      4月加藤多恵と結婚
1939 3月立原道造死去 10月「文芸」に『旧友への手紙』を発表
1940 3月「文芸」に『魂を鎮める歌』を発表 折口信夫の影響
1941 3月「中央公論」に『菜穂子』を発表
1942 5月荻原朔太郎が死去
      9月「四季」六十七号「萩原朔太郎追悼号」発行
1943 「婦人公論」に『大和路・信濃路』を連載
1946 8月季刊「高原」を創刊
1949 5月「高原」十輯で終刊
1953 5月30日、死去(49歳)
     信濃追分の自宅で仮葬 東京芝増上寺で告別式
     (葬儀委員長川端康成)
     多磨墓地

参考
『新潮日本文学アルバム 堀辰雄』 新潮社 1984
『風立ちぬ・美しい村』堀辰雄 新潮文庫版1977の年譜



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