入笠山から (旧)富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム



2-3  竹久夢二   


1923年の関東大震災は竹久夢二の生涯の大きな転機になった。
恩地幸四郎と設立を計画していたどんたく図案社が壊滅する。戦争を予感させる暗い時代に向かっていて、夢二の抒情的な作品は、かつてほど受け入れられなくなりつつもあった。
傷心をいだいて訪れた榛名山で、美しい風景とあたたかな人々に迎えられ、ここに榛名山美術研究所を作ろうと再び意欲をよみがえらせる。
研究所建設のための資金を作ろうとして、1931年にアメリカとヨーロッパに向けて旅立つ。
しかし、大恐慌後で絵は思うように売れず、病を得、ドイツではナチスの台頭を見て、前向きの意志をすっかり失って1933年9月18日に神戸に帰ってきた。
東京・松沢の住まいにひとりで病に苦しむ夢二を、訪れた正木不如丘がみかねて富士見の高原療養所に入所させる。
高原療養所の入院記録には、
 竹久夢二 51 画家 19/1 九年 1/9 死亡
 世田谷松原

と書かれている。(日付は日/月)

     ◇         ◇

夢二の日記をみると、さびしい入院生活であった。
夢二をわずかに明るい気持ちにさせてくれたのは、伊香保からのたよりだった。

上州伊香保の麓の村から一少女が梅の花を封じた手紙をくれた。若い心持ちになってうれしい。
  
(夢二日記 竹久夢二 筑摩書房 1987)

しかし、そうした気持ちはほんのひとときのことで、最後まで夢二を忘れずに大事にした有島生馬の見舞いを受けたときも、感激しながらも、生きる意欲を蘇らせることができない。

5月17日
11シタツテユク」アリシマ
とは けふ新宿発の時間である。
3時にきた わざわざ見舞にきたと知り涙が出る。
セル、ヒトエ物 菓子等々。
(中略)
生きんすべてのものと友情を失ったる今、
こんな友情がまだ 地上にあったのか。
それでさへ生きてどうなる?

1934年9月1日、関東大震災からちょうど11年目の日に亡くなった。
いくつもの恋をしたのに、その相手の誰からも看取られることがなかった。
それでも正木不如丘の友情による厚意で、八ヶ岳をのぞむ地で最期の日々を送り、病院の人たちに見守られて亡くなったのが、せめてものことと思う。

雑司ヶ谷霊園に有島生馬により「竹久夢二を埋む」の墓碑が作られた。


とても簡素なもので、夢二の最後をしのばせる。
すぐ近くにものすごく大きく立派な夏目漱石の墓がある。
僕は、夢二の自然石の墓のほうが好きだ。
いかにも野の人、夢二と思う。


→竹久夢二については、
  [ 榛名山(掃部ケ岳)から竹久夢二伊香保記念館・榛名町歴史民俗資料館 ]

  関連年表、参考文献については、
  [ リスト + 年表 −井上房一郎.タウト.レーモンドをめぐる人々の− ]



TOPこのコースの先頭に戻る次へ→