入笠山から (旧)富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム



3-2  尾崎喜八   
 ■■■■■ 尾崎喜八に出会う   



富士見高原のミュージアムには、富士見に縁のある多くの文化人の資料が展示されているのだが、いちばん広く重要な部分を占めるのが尾崎喜八だった。
僕が前にいた埼玉県立自然史博物館では、清里フォトアートミュージアムの所蔵品をお借りしてヤマネの写真展を開催したのだが、その写真家・西村豊さんは、お住まいの富士見町の文化活動をいろいろな面で支援されてもいる。富士見町高原のミュージアムの構成にも関わっていらして、とくに尾崎喜八の展示には大きな役割を果たされた。
僕は尾崎喜八という詩人を、名前に聞き覚えがあるだけで、これまでとくに関心がなかったのだが、西村さんにミュージアムにご案内いただき、壁面にかけられた詩のひとつを見て、これはとてもよさそうだ−という予感が働いた。
そして富士見から帰って、いくつかの詩集を手にいれて読んでみて、予感は大当たりだった。
歩き回っていると、こういう出会いがあるからおもしろい。

     ◇          ◇

尾崎喜八の『山の絵本』には、「念場ケ原・野辺山ノ原」という文章があって、1932年10月8日に野辺山あたりを歩いたことが書かれている。
中央線を韮崎駅で降り、バスで長沢まで行くつもりだったのに、箕輪新町まででバスの運行が打ち切りになっていて降ろされている。今の国道141号を北に向かったと考えられる。
そのあと「つきのき橋」を渡り、念場ケ原にでるのだが、そこは、ちょうど、今は清里フォトアートミュージアムがあるあたり。
このミュージアムは真如苑というという仏教教団が母体であり、開祖が1906年に長坂町に生まれている。尾崎喜八が歩いたときに、開祖本人や家族と、言葉をかわすか、姿を見かけた可能性もあるわけだ。
何か因縁を感じる。

このとき、「今宵の泊り」にした海ノ口に着くまでが書かれているが、翌日のことは書かれていない。
海ノ口は佐久海ノ口駅に近いが、この駅はこの年の12月27日開業だから、ちょうど駅舎を建設中だったはずで、どこを歩いてどう帰ったかわからない。
同じ道を戻ったから書かなかったのだろうか?

     ◇          ◇

僕が前にいた埼玉県立自然史博物館の近くの宝登山では、新春、たくさんのロウバイが咲く。
香りを楽しみながら、何度か歩いたものだった。
尾崎喜八が亡くなった命日(2月4日)に近い2月の第1土曜日に、尾崎を慕う蝋梅忌(ろうばいき)が催されている。その名前にも親しみを覚えて、参加してみて、尾崎を慕う多彩な方々にお会いできた。

その日、尾崎喜八の詩画の1枚がオークションに出たので、この集まりのこれまでの会費の余剰金でせり落とし、「ときの忘れもの」という画廊から購入したという報告があった。
富士見に行こうとした理由の1つに、井上房一郎の足跡をたどって竹久夢二が亡くなった富士見高原療養所を見に行くということがあったのだが、その画廊の主、綿貫不二夫氏は、高崎高校出身で、井上房一郎を慕い、今も高崎高校マンドリンクラブの定期演奏会にはOBとして参加している方で、僕は井上房一郎のことをいろいろ教えていただいている。
些細なことではあるけれど、いろんな関係がつながりあっている偶然に驚いた。


→[ 宝登山から埼玉県立自然史博物館 ]
  [ 飯盛山から清里フォトアートミュージアム ]

  ギャラリーときの忘れもの
  


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