入笠山から (旧)富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム



3-2  尾崎喜八   
 ■■■■■ つらい状態から回復すること 


尾崎喜八は戦争中、戦いを讃美する詩を書いた。それまではマイナーな詩人だったのに、そういう詩のひとつ、「此の糧」により広く知られるようになったという。
しかし、戦争讃美−戦闘的・攻撃的な詩だろうという先入観からすると、意外な調子の詩なので驚いた。

此の糧

芋なり。
薩摩芋なり。
その形紡錘(つむ)に似て
皮の色紅(べに)なるを紅赤(べにあか)とし、
形やや短かくして
紅の色ほのぼのたるを鹿児島とす。

霜柱くずるる庭のうめもどき、
根がたの土に青鵐(あおじ)来て、
二羽三羽、何かついばむ郊外の冬、
その陽当(ひあた)りの縁近く、
大皿の上、ほかほかと、
甘やかに湯気をたてたる薩摩芋、
親子三人、軍国の今日の糧ぞと、
配りおこせし一貫目の芋なり。

芋にして
紅赤をわれは好む。
紅赤の蒸焼(むしやき)せるをほくと割れば、
さらさらとさめこまかなる金むくの身の
いかに健かにも頼むに足るの現実ぞや。
鹿児島の蒸(ふ)かせるは
わが娘とりわけこれを喜ぶ。
鹿児島の肉は粘稠(ねんちう)
あまき乳煉れるがごとき味わいは
これぞ祖国の土の歌、
かの夏の日の勤労の詩なりかし。

紅赤の、 はた鹿児島の、
そのいずれをも妻はとるなり。
妻は主婦にして、また人の子の母なれば、
好みは言わじ、選(え)りもせじ。
ひたすらに、分つ者、与うる者の満足もて、
おおらかに、ねんごろに、
手馴れしさまに食(と)うぶるなり。

芋はよきかな、
薩摩芋はよきかな。
これをくらう時
人おのずからにして気宇闊大、
時に愛嬌こぼるるがごとし。

大君の墾(はり)の広野(ひろの)に芋は作りて、
これをしも節米の、
混食の料(しろ)とするちょうかたじけなさよ。
つわものは命ささげて
海のかなたに戦う日を、
銃後にありて、身は安らかに、
この健かの、味ゆたかなる畑つものに
舌を鼓(こ)し、腹打つ事のありがたさよ、
うれしさよ。

芋なり。
配給の薩摩芋なり。
その形紡錘(つむ)に似て
皮の色紅(べに)なるを紅赤(べにあか)とし、
形やや短かくして
紅の色ほのぼのたるを鹿児島とす。
(『詩集此の糧』 尾崎喜八 二見書房 1942)

戦後の食糧不足のときには、芋や豆が米のかわりにほとんど主食になり、「また芋か..」と恨めしい思いで食べたらしい。この詩集は1942年刊行だが、もう「節米」のために食べていたことになる。この詩を読むと、ほかほかの芋を食べたくなるほどだが、このあとも詩人が飽きずにこんなふうに芋を食べ続けられたかどうかは、わからない。
ともかく、尾崎喜八も知らなければ、戦争詩についての関心もとくになかったから、意表をつかれる詩だった。

見よ、皇軍の征くところ、艨艟も寸断され、
千古の密林坦道と化し、
幾百の堅壘ことごとく潰えて、
汝等が東亜劫掠最大の牙城、不落の要塞、
シンガポールは陥つたり。
(「シンガポール陥落」 前掲書)

こういう文語調のいわばハードな戦争讃美詩もあるが、それに対してソフトな讃美詩とでもいおうか。
詩集「此の糧」におさめられた詩には、むきだしの好戦的な表現はあまりない。むしろ戦いは正しいものであるという信念に支えられているので、そういう見方からすれば倫理的で格調高いとさえいえるくらいだ。崇高な理念、その実現の任務に決意をもって向かっていくりりしい若者たち、それを支える女たち。
実際には、理想をとなえた戦争は、大量の残酷、悲惨、腐敗をおびていた。尾崎の詩にも、若者の死や、母の悲しみは影をさすが、それすらも尊い犠牲として、浄化された言葉になる。
同志としての国民に対してさえそんなふうだから、まして悪であり殲滅されるべき敵への想像力など働いていない。

     ◇          ◇

戦争後、尾崎喜八はこのことを悔いる。

 祖国は戦争に敗れた。物質の上でも、精神の面でも、無数のもの、さまざまなものが崩壊した。いわゆる「銃後」の国民の一人として、詩という仕事によっていささかでも国に尽くしたいと思った私の念願も、『此の糧』や『同胞と共にあり』の二冊のささやかな詩集と一緒に今はむなしい灰となった。その無残な荒廃の跡に立って、私は元来人間の幸福と平和とに捧げるべき自分の芸術を、それとは全く反対の戦争というものに奉仕させたおのれの愚かさ、思慮の浅さを深く恥じた。私は慙愧と後悔に頭を垂れ、神のような者からの処罰を待つ思いで目を閉じた。そしてもしも許されたなら今後は世の中から遠ざかり、過去を捨て、人を避けて、全く無名の人間として生き直すこと、それがただ一つの願いだった。
(『自註 富士見高原詩集 尾崎喜八 星雲社 1984(1969)』 以下、この項の引用はすべて同書から)

戦いを肯定する詩を書いたことで、親しかった人が離れていき、あるいは批判を受ける。体調も悪くし、経済的にも苦しい状態で、長野県富士見にある別荘の一部を借りられることになり、1946年に移り住む。


土 地

人の世の転変が私をここへ導いた。
古い岩石の地の起伏と
めぐる昼夜の大いなる国、
自然がその親しさときびしさとで
こもごも生活を規正する国、
忍従のうちに形成される
みごとな収穫を見わたす国。

その慕わしい土地の眺めが 今
四方の空をかぎる山々の頂きから
もみじの森にかくれた谷川の河原まで、
時の試練にしっかりと堪えた
静かな大きな書物のように
私の前に大きく傾いてひらいている。

富士見は、ただ自然に恵まれているだけではなく、文学や科学に深い関心を寄せる人にとって、いい意味で油断がならない、刺激的でもある土地であった。


老 農

友達の若い農夫が水を見にゆくと言ふので、
一緒に歩いて山あひの彼の田圃へ行つてみた。
稻が青々と涼しくしげり、
どこかで晝間のくひなが鳴いてゐた。
友達は水口(みなくち)の板へ手をかけて、
田へ落ちる水の量を調節した。

用水のへりを通ると、一人の年とつた百姓が
山ぎわの岸の崩れをつくろつてゐた。
若い友人は私を紹介して、「此の先生は詩人で、
植物や鳥なんかにも詳しいかたです」とつけ加へた。
老農は「おゝ それは」と言つて挨拶しながら、
流れにゆらいでゐる白い花の水草を抜いて示した。
「梅花藻(バイモソウ)ですね」と私が言うと、目を細めてうなづいた。

數日たつて私はその老農に招かれた。
彼の古い大きな家は大勢の若い家族で賑はつてゐた。
酒が出、馳走がならび、蕎麦が打たれた。
そしてその廣い座敷の大きな書棚を見て私は驚いた。
そこには辭書や圖鑑や地誌類の列にまじつて、
トゥンベルク、シーボルト、シュトラスブルガー、カンドール等
植物學の古典の厚い訳本や復刻本がずつしりと並んでゐた。

毎日、田を耕してだけいるかのような人が、じつはとんでもない植物の知識を持っているというようなことが、この詩の農民だけの特異な例ではなく、このあたりでは当たり前のこととしてある。
僕もこういう富士見の人に実際に出会ったことがあって、いったいどういうことだろうととまどっていたのだが、尾崎喜八を読んでいて、信州のこの地方の独特の風土であることを知った。その風土がなぜできたのかは、やはりわからないままだが。

(→[釜無山から井戸尻考古館](準備中))

およそ10年前に、やはり病気と、窮乏とで富士見に来て高原療養所に入院した竹久夢二は、そのまま回復することなく亡くなったのだが、尾崎は、家族と、富士見の自然と、好意をよせる人々の援助もあって、回復していく。

     ◇          ◇

落ちこんだ状態からの回復ということについて、僕も身に覚えがある。
10年ほど前、仕事のストレスで肝臓を患った。
そのころ、母親が癌にかかっていて、死がほぼ確実に迫りつつあった。見舞ったり、ときおり家に帰る母を病院まで車で送り迎えしたりしながら、僕は癌ではなかったけれど、母の癌とまったく同じ位置に病因があり、ときおり発作的に痛みがくると、今度は自分が妻の運転する車に乗せられて病院に行った。

ふつう肝臓を傷める原因である酒にも薬物にもウイルスにも縁がないので、ストレスと遺伝で傷んでいるとしか思えなかった。
母が亡くなって、翌月、僕も手術を受けた。ようやく退院したら、その夜また出血して翌日に再入院というようなこともあって、もともとストレスで傷んでいた気持ちが、あらためて打ちのめされるようだった。
退院後、しばらく静養した。穏やかに日を送っているだけだが、気力がなかなかよみがえらない。
とくにひどい状態だったと思うのは、のんびりと映画のビデオでも借りてきて見ようとしても、サスペンスやスリラーなんてとんでもないことだが、コメディでさえ安心して見ていられなかったことだ。主役が、何か失敗したりして、その事情を隠しておかなくてはならない−というパターンがよくある。いつばれるか、ちょっとはらはらさせられる。他愛もないことなのに、それがたえられない。身構えながら見ていて、少しでもはらはら的展開になりそうだったら、すぐにやめる。
散歩にでて、藤棚の下で藤の花の香りをうっとりとかいだりするのは、気持ちが安らいだが、遠くの山を眺めても、いつかまた山を歩けるだけの体力、気力をもてるだろうかと、とても遠い気分になった。
夏、ようやく仕事に出られるようになって、毎日通りかかる公園で白い木槿(むくげ)の花が、暑い日射しに負けずに花びらを空に向けているのに励まされる思いを受け取ったりした。
なんとか山歩きもできるようになるまで、ゆっくりと時間が経過するのを待たなくてはならなかった。
(今でもちょっとしたはらはらが耐えられない傾向が消え残ってしまっている。)

尾崎喜八の富士見での詩作と、そのときどきの思いを自註として加えた「自註 富士見高原詩集」(星雲社 1984)を読み進むと、自分自身の回復の記憶を思い出した。

     ◇          ◇

高原療養所に入院していて、文学や音楽に関心がある人たちが、分水荘に行くのを楽しみにしていて、尾崎もまたその人たちを喜んで迎えたのは、もちろんそうした文学や音楽への愛好という共通性もあるだろうが、回復していく者どうしの共通する思いもあったろうと思う。

療養所から退院する人がでるたびに、分水荘で別れの会が開かれたという。やがて、尾崎自身も、東京に復帰させたいと願う娘が用意した東京都世田谷区上野毛の住まいに、1952年に移る。
富士見には6年あまり暮らした。

展 望

今私たちは夏のおわり 秋のはじめの
濃い朝霧と燃える夕日の季節を生きている、
生きる事が他のもっと恵まれた土地よりも
はるかに厳しい労働をもとめる土地、
この山坂多い 冬の長い国の田畑で
忍苦と過労とに面やつれした人々と一緒に。

都会からの身が習慣を変え、
いくらかは精神の風土にさえ
この国の雨や日光を反映させて、
すでに早くも幾年がすぎた、
永遠をかいま見させる美にやしなわれ、
喜びの一層痛切なものを味わいながら。
人や土地への敬虔なこまかい接触が
ついに此処をふるさとのようにした。
冬のきびしい凍結にも馴れ、
石多い山坂の道にも馴れながら
それぞれの季節の意味を汲み上げて来た私たちに、
今この国の夏のおわり 秋のはじめの天地がある。

高原療養所に入院していた青年達と尾崎喜八のいわば同窓会は今も続いていて、尾崎喜八が名づけて穂屋野会という。
尾崎喜八が亡くなったあとは、その命日(2月4日)に近い2月の第1土曜日に、その旧・青年たちを含め、尾崎を慕う人々があつまる蝋梅忌(ろうばいき)も催されている。



TOPこのコースの先頭に戻る次へ→