入笠山から (旧)富士見高原療養所・富士見町高原のミュージアム



3-2  尾崎喜八   
 ■■■■■ 分水荘と洗心亭−尾崎喜八と井上房一郎・ブルーノ・タウト 


高崎の井上房一郎の人のつながりをめぐって、竹久夢二が亡くなった地である富士見に行ったのだが、そこで出会った尾崎喜八は、井上房一郎とも、また井上が世話して高崎に住まわせたドイツの建築家、ブルーノ・タウトとも共通するところがある。

     ◇          ◇

井上房一郎とは音楽の点で。
井上はまだ西洋の音楽が珍しい頃にマンドリンに興味をもち、1918年に高崎市公会堂で群馬県で最初のレコードコンサートを開いた。それを知って、やはりマンドリンに興味をもち、自分も師についてならってマンドリン奏者になろうとしたくらいの萩原朔太郎が、井上房一郎を訪問している。

尾崎喜八と宮沢賢治に似たようなことがあった。
『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』によれば、1925年か6年ころ、東京・上高井戸の尾崎の住まいを宮沢賢治が訪れている。賢治の生前唯一の詩集『春と修羅』をもち、3日でセロを弾けるように教えてもらいたいと教えを請いにいったというが、あいにく尾崎は不在だった。
賢治は、尾崎邸に行く前に、高村光太郎も訪れている。

     ◇          ◇

ブルーノ・タウトとは、1つには、つましい生活 という点で。
尾崎喜八が富士見で暮らした分水荘は、娘・栄子の結婚相手の石黒家の縁で借りることができた渡辺伯爵所有の別荘だった。明治天皇が泊まった本陣の建物を移築した大きな住まいだったが、一部だけを使わせてもらっていた。水は離れたところから汲み、風呂は屋外に置いた五右衛門風呂なので、寒さの厳しい冬は何日も入浴できないことがあったという。
それでも、もともと若い頃からソローやヘッセに親しみ、いつか自然の中に暮らしたいという憧れをいだいていた尾崎にしてみれば、不便や、冬の厳しい寒さも大きな苦にはならなかったようだ。

タウトが暮らしたのは、寺の中に作られた洗心亭という名の茶室−といえばきこえはいいが、実質は簡素な家屋に過ぎなくて、外国人が生活するには、窮屈なほどの小さい家だった。
それでも榛名山や浅間山を望む好展望の丘に位置していて、やはり自然に親しむ、ほとんど隠遁的傾向をもつタウトにしてみれば、素晴らしい住まいに感じられていた。

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2つには、2人とも、詩的−科学的の2面をあわせもち、しかも精神性への強い希求をもっていた点において。
八ヶ岳を望む富士見の分水荘に暮らした尾崎喜八は自然科学者的詩人であった。
高崎郊外、少林山に暮らして榛名山や浅間山を眺めていたタウトは詩人的建築家でった。

タウトは1919年に『アルプス建築』を発表している。幻想的宇宙的な建築画をおさめていて、最後は建築がなくなり、言葉だけになる。

  星の建築

    星
幾つもの宇宙世界
    眠り
    死
  大いなる
    無
 無名なるもの

(『タウト全集第6巻 アルプス建築』水原徳言訳 1944)

タウトは同郷ケーニヒスベルクの哲学者カントを若い頃から尊敬していた。
井上房一郎が住まわせた少林山の達磨寺は、北辰鎮宅霊符尊(ほくしんちんたくれいふそん)と達磨(だるま)大師を祀っている。北辰鎮宅霊符尊というのは、天と地の神、太陽や月や星の総帥として天の中心に位置する北斗七星を神格化したもので、妙見菩薩ともいう。
  「わが頭上の星、内なる道徳律」
というカントの墓碑銘を心に刻んでいるタウトにとっては、遠い日本まできて不思議な符合のある地に暮らすことになったと感じられている。
(達磨寺には、その墓碑銘を記したカントの色紙が残されている−もちろんドイツ語だが。)
高貴なものに憧れる精神、高みを求め、愛する心においても共通している。

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3つ目には、夫の苦しい時期をささえた聡明で魅力的な女性をもつ点で。
尾崎が富士見に暮らしたのは、心身ともに苦しく、経済的にもどん底の状態の時期だった。
しかし妻の實子は、そんな貧しい暮らしを楽しく充実したもの転換してしまうような明るい心性に恵まれ、また乏しい材料で豊かな食卓を用意してしまう魔法のような知恵と技をもった人だったようだ。
タウトとともにいたエリカ(正式な妻ではないが、日本に来る前から長く一緒に暮らしていた)も、聡明で明るく若々しい感性をもった人だったようだ。

その女性たちの料理をめぐる記録が、やはり共通して印象に残る。

富士見では、富士見高原療養所に入所していた音楽や文学を愛する若者たちが、ひんぱんに分水荘を訪れているが、尾崎との会話はもちろんとして、そこで必ず何かごちそうになるのも楽しみだったという。
また、この頃、この地の女学生たちが行くおしゃれな場所が、療養所と分水荘だったというが、その女学生たちも、分水荘に行くと何かしらおいしいものを用意されたという。
もちろん経済的にも苦しく、買い物も不便な土地だったから、實子のくふう、手際のよさがしのばれる。

尾崎家の食卓についてはさまざまな人が語っているが、白崎俊次氏(東京民芸協会理事長・故人)は「尾崎喜八詩碑建立記念誌」 に次のように書いている。

「食糧事情とぼしい終戦直後の頃、ご迷惑も考えずに押しかけて行っては無遠慮にご馳走になっていた。ある時の夕食はお粥だったが、それがみごとな洋食に見えた。皿によそわれた粥は薄いカレー粉で色着けられ、小さく刻まれたじゃがいもが入っていた。それをスプーンで食べるのであるから立派な洋食である。しかも洒落た寡囲気をかもし出した尾崎家の食卓の演出にひとしおの味であった。そこには一椀の粥という言葉の貧しさはなかった。むしろ豊かな精神による心あたたまるもてなしであり、何年たっても忘れられないほどの感銘をうけ、その後の豪華なご馳走よりも強い分水荘の想い出となっている」
(『夏の最後の薔薇−詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯』 重本恵津子 有限会社レイライン 2004)


エリカについても、高崎に住む俳人で、何かとタウトの世話をした浦野芳雄がこんな文章を書いている。エリカが婦人の友社の講演のために数日間、洗心亭を離れるので、タウトの食事の手配をまかされたが、ふだん西洋人がどんなものを食べているのかわからない。さりげなく装って偵察に行く場面だ。
これは分水亭での食事の様子とはちょっと違うのだが、同じ食べることをめぐって印象的な部分なので、長く引用する。

「今夜は、もう私達は御飯をすましてまいりましたから、御遠慮なくなすつて下さい」
 と、目的ここにありとも云へぬが、こそこそ其処へ迫らねばならぬので、水原君の用事もさしたる事でなさげなので、切掛けた。
 敏子さんも、ひよつこり勝手から現れた。二人はよし始まるぞ、と云ふ心構へである。
「ぢやあ失礼します」
 とタウトも云ふ。
 そこで、夫人が勝手へ下りた。そしてタウトの前へ差出されたのはスープである。彼はそれを啜つた。
「それは何ですか」
「ビーンズから摂りました」
 と夫人が答へた。
「ビーンズ」
 と私は、敏子さんに目くばせをする。
 スープが終ると、又皿に繭玉の三つか四つ位の大きさのが二個、片端にのつたのが出された。夫人は杓子で煮汁をかける。温い湯気が上る。
彼はそれをつつき始めたが、量にして鶯餅二つ位である。タウトが何か云ふと、夫人は又杓子で煮汁を運んだ。
「これは何ですか」
「粉です」
「粉だけですか」
「挽肉と、人参の下ろしたのが入つてゐます」
 語りながら、夫人はその皿の隅へ馬路薯を五六片運んだ。
「大変おいしく作つてあります。どう」
と云つて、先づ水原君にすすめた。
「占めた」と私は思つた。食つて見れば一番安全である。一体どんな煮方をしてゐるのだか。
所がつまんで見ると、非常に美味ししく作られてゐるのだ。
「これは砂糖で煮てあるんですか」
「いいえ」
「砂糖でなくて、よくこんなに甘く煮えるものですね」
 実際その言葉は、根掘り葉掘りしようとして、発したのではなく、馬鈴薯なんて、そんなに美味いものではないと思つてゐる私達から発した驚嘆であつた。
「敏子さん。おいしいよ。一つ貰つて食べてごらん」
 一々我等の方図は当つて行く。所が夫人は愈得意の独壇場だと云はんばかりに、料理の腕誇らかに、すすめるのであつたが、その馬鈴薯は確かにうまかつた。どうせ日本で出来たのに間違ひはなく、ドイツから持つて釆たのではあるまいが、私が食べた馬鈴薯の中では、生れてこの方一番うまいものであつた。それに砂糖も使つてないと云ふのだ。
 成程料理の先生だなあと思つて、二片れ目を食べてゐると、
「紅茶。お茶」
 と云つて、夫人は私達をもてなさうとするのであつた。
「いや。御遠慮なく、お行りなすつて」
「いいえ。これで済んでゐるのですよ」
「夕飯が?」
「ええ」
 私も敏子さんも吃驚した。それよりも驚いたのは青年であった。ドイツ人の夕飯を食べるのが見られると思つて来たら、何のことはない。日本では三時のお茶受でも、もつとうまい物をもつと沢山やつてゐるではないか。余りの飽気なさに互に顔を見合せて了つた。
 「肉も人参も、よく営養が摂れるやうに、挽いたり、おろしたりするのです」
 タウトも、さもうまかつたと云ふやうな顔をして、些の不平も無いらしい。
(『ブルーノ・タウトの回想』 浦野芳雄 長崎書店 1940)

     ◇          ◇

尾崎もタウトも住む所を幾度か変えたという共通性もあるが、どんなふうに住んでいたかは、ずいぶん違う印象を受ける。
尾崎には、住むところに自分の世界を作り上げてしまう、自分の趣味をかなえる生活を築いたという印象がある。居心地悪く短期間で立ち去ったところもあるが、数年間とか落ち着いた土地では、自分なりの生活の拠点にしていた。
それにともなって妻の實子も土地になじんでいたし、そのなじんだ土地の1つ、鎌倉で穏やかな晩年を送った。

一方、タウトは、とくに後半生、自分とは根本的なところが違う人々が住む地に、まぎれこむようして生活することが続いた。
自由な社会主義的志向をもってソ連に行くが、ソ連では官僚主義が支配的になっている。
ドイツに帰国するとナチスが支配している。
ナチスから逃れてきた日本では、その文化をたいへん愛したが、軍国主義が強まりつつある時代で、社会主義的傾向をもったタウトは建築の仕事に恵まれない。(その一方で、桂離宮をはじめとする日本文化を讃美する文は、国粋主義的観点から強く歓迎されるというねじれた関係になる。)
そしてトルコに迎えれられ、日本で建築家としての実作の機会に恵まれなかったのを取り戻すように精力的に設計するが、そこで急ぎすぎたかのように亡くなる。
少林山を出たのが1936年の10月、わずか2年後の1938年12月であった。
付き添ったエリカも安住の地を得られないまま、平穏とはいえない晩年を送ったようだ。

     ◇          ◇

洗心亭は今も残っていて、そのあたりを歩くとそのたびに切ない思いにとらえられる。
分水荘は、人が住まなくなり、もとが本陣の立派な建物で屋根が重いために崩壊の危険があるので取り壊され、あたりはすっかり森にくるまれたという。
次に富士見に行く機会があったら、近くまで行ってみようと思う。





尾崎喜八 略年譜:

生没年 1892−1974
1892 東京・京橋に生まれる
1912 高村光太郎のアトリエ(本郷駒込)を訪れる
1915 塚田隆子との恋愛に反対され廃嫡
1919 塚田隆子、スペイン風邪で亡くなる
1923 関東大震災 火災にあった父を助けたのを機に、父と和解
1924 水野實子と結婚
1933 第4詩集『旅と滞在』
1935 『山の絵本』
1938 散文集『雲と草原』
1942 『此の糧』
1944 『同胞と共にあり』
1946年9月−1952年11月 富士見滞在
1958 串田孫一とアルプ創刊
1974 2月4日死去 鎌倉明月院



参考:

詩集此の糧 尾崎喜八 二見書房 1942
山の絵本 尾崎喜八 岩波文庫 1993(1959)
尾崎喜八詩文集 1-10巻 創文社 1959-1975
自註 富士見高原詩集 尾崎喜八 星雲社 1984(1969)
あの頃の私の山 尾崎喜八 二見書房山岳名著シリーズ 1971
名もなき季節−富士見からの手紙 尾崎喜八 創文社 1976
花咲ける孤独−評伝・尾崎喜八 重本恵津子 潮出版社 1995
夏の最後の薔薇−詩人尾崎喜八の妻 實子の生涯 重本恵津子 レイライン 2004
「日本人をもっと知ろう 尾崎喜八 高村光太郎 水野實子と長沼智恵子」 季刊アーク 第6号 レイライン 2004
山書散策 川村正之 東京新聞出版局 2001
八ヶ岳 マウンテンガイドブックシリーズ10 山口耀久 朋文堂 1954
定本北八ッ彷徨 山口耀久 平凡社 2001(1960)
尾崎喜八文学館 http://kihachi.at.infoseek.co.jp/ (web上の文学館)

・重本恵津子氏の2冊の評伝はたいへん参考にさせたいただきました。
・竹久夢二・堀辰雄・井上房一郎・ブルーノ・タウトに関しては、
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