大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ 2003−秋


7-2  平野から棚田をふりかえる





■ 頸城平野って社会科で習った覚えがある

うかつで気がつくのが遅いのはいつものことなのだけれど、ただ毛綱毅曠のおもしろそうな建築を見てみよう、そう遠くなさそうだし、と思ってくびき駅に行ったのだが、着いてみたら、もう妻有地域ではなくなって、山地を抜けてしまっているのだった。

くびき駅から先は、線路は高架から下っていて、その先には平らな地平線が見えている。たぶんその地平線のあたりからは、すぐ先に日本海の水平線が見えているはずだ。
もうトンネルなんかないだろう。
松代駅からは、ほくほく大島−虫川大杉−うらがわら−大池いこいの森−くびき駅の順になる。24.4kmで、所要20−30分(単線なので、待ち合わせ次第で時間がずいぶん違う。)
くびき駅の次は、5.9km行くと、ほくほく線の西側終点の犀潟(さいがた)駅で、ここはもう日本海に面した町になる。
小学校だったか、中学校だったか、社会科とか、地理とかの時間に、「頸城平野」というのがあったことを思い出す。頸城なんていう字を読めるのも、そのおかげだと思う。

■ 頸城平野って社会科で習った覚えがある
■ 越後は米どころ
■ 平野と山地
■ 農業にアートが関わる?








この先には凸凹がない地平線
犀潟駅方向に向かって右(東北方向)の真正面に米山(よねやま)がある。そこまで続いていきそうなくらいの一面の田。
標高差がない。坂道がない。
棚田は不定形の雲の連続のようだけれど、ここの田は、きっかりと四角に区切られている。
妻有を車で走っていると、棚田が当然のように、あちこちで目に入っていたが、こうして広い田を眺めてみると、あらためて、急な斜面に田を作り、維持することのたいへんなエネルギーに思い至った。






■ 越後は米どころ

越後の米づくりで思いあたることの1つは、味方村(あじかたむら)の笹川邸
僕が今まで見たなかで、いちばん大きなため息をついた建築の1つだ。
豪農の館だが、ただ古い、大きいというのではなく、屋根の連なり、次々と部屋が続いていく展開のしかた、各部の均衡など、とても美しいものだった。
それほど大きく、それほど美的配慮を尽くして建築できる豊かさ。
そのあたりを車で走ると、田の間のまっすぐな道を、両側に一面の田を見はるかしながら走って、うっすらハイな気分にさえなることがある。荒野を馬を駆ってとばしていくような、西部劇的高揚感とでもいうか。(そういう経験があるわけではないけれど。)
かなりな速度でも、しばらく一直線のまま走っていけるほど、むしろ、先に見えているあそこまでなかなか着かない−ともどかしくなるほどの、広々とした平地に田が作られている。

また別な1つは、低湿地で米を作っていた亀田郷のこと。
司馬遼太郎 「街道をゆく」の「潟のみち」に、司馬が潟地方の米作りの映画を見て衝撃をうけたことが書かれている。

 亀田郷では、昭和三十年ごろまで、淡水の潟にわずかな土をほうりこんで苗を植え(というより浮かせ)、田植えの作業には背まで水に浸かりながら背泳のような姿勢でやり、体が冷えると上へあがって桶の湯に手をつけ、手があたたまると再び水に入るという作業をやっていたことを知った。
 映画を見了えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ一つの目的のためにこれほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにはそれを生涯くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。
(司馬遼太郎 「街道をゆく 9 信州佐久平みち、潟のみちほか」 朝日新聞社 1979)

こんなふうに米を作っているところもあった。
(今の亀田郷は、排水施設を完璧に張り巡らせている。地形と排水網を再現した模型を見ると、地域一帯が巨大な人工の生産施設に感じられるほどだった。新潟市に近く、住宅地になったところも多い。かつて厳しい農作業に従事しながら排水施設の整備を推進した人たちには、一部に潟を残すべきではなかったかと、過去の歴史を全くうかがい知れなくしてしまったことを悔やむ声もあるという。)

そして中山間部の棚田。
潟の農作業とどっちがたいへんかという比較をしても仕方がないが、急な斜面にいくつも小さな田を刻み、季節季節の作業をしていくのも、楽なことではないだろうと思う。

越後は米どころというけれど、僕の限られた見聞でも、こんなに大きく違った生産風景がある。
まだ知らない、別な暮らしぶりをしているところもあるかもしれない。

→ [ 角田山から新潟市(とその近郊)のミュージアム 7-1笹川邸+曽我・平澤記念館 ]

→ [ 五頭山から水の駅「ビュー福島潟」と、映画「芦沼」を探す旅 ]




■ 頸城平野って社会科で習った覚えがある
■ 越後は米どころ
■ 平野と山地
■ 農業にアートが関わる?






■ 平野と山地

思いがけず、ふっと妻有地域から抜け出してしまったときに、心地よい夢から目覚めてしまったような気分になった。
平野の田と、傾斜地の棚田を相対的に比べてみるような意識がでてきて、帰ってから、ほくほく線で乗った両端の町、松代町と頸城村の統計を比べてみた。

すると、電車でおよそ20分の距離間で、際だった違いがあった。
一方は人口が大きく減り、高齢化率も急上昇。
一方は人口が増え、高齢化率は上昇するがゆるやか。
村のほうが町より人口が多いが、たぶんどこかの時点で逆転したのだろう。

人口(人)
2000/1985年
増減(人) 増減(%) 老齢化率(%)
2000/1985年
松代町 4,240/6,026 -1,786 -29.6% 37.3/18.9
頸城村 9,538/8,238 1,300 15.8% 20.0/13.8
(1985年と2000年の国勢調査による)

別に農業統計をみても、松代町の農業による生産額は、農家1戸あたりでも、農民1人あたりでも、面積あたりでも、頸城村より低い。
棚田では急傾斜地に狭い単位で作られるから、生産性が低い。そのほか、気温が低い、日照時間が短い、水の確保の困難など、平野と山地の違いから生産にとってのさまざまなマイナス要素が生じている。

妻有地域内でも市町村によって状況は異なる。


人口(人)
2000/1985年
増減(人) 増減(%) 老齢化率(%)
2000/1985年
十日町市 43,002/48,005 -5,003 -10.4 23.5/13.3
津南町 12,389/13,464 -1,075 - 8.0 32.2/18.6
川西町 8,185/ 9,423 -1,238 -13.1 27.3/16.7
中里村 6,422/ 6,821 - 399 - 5.8 29.4/17.7
松代町 4,240/ 6,026 -1,786 -29.6 37.3/18.9
松之山町 3,184/ 4,345 -1,161 -26.7 42.1/21.3
圏域合計 77,422/88,084 -10,662 -12.1
(1985年と2000年の国勢調査による)

過疎化と高齢化がどの市町村でも進んでいるが、なかでも松代町と松之山町が深刻なことがわかる。
2003年のトリエンナーレに向けて、中心地の十日町市のほかには、松代町と松之山町に施設が建設されたが、経過はわからないけれど、域内のこういう状況が考慮されたのかもしれない。

■ 頸城平野って社会科で習った覚えがある
■ 越後は米どころ
■ 平野と山地
■ 農業にアートが関わる?



■ 農業にアートが関わる?

松代町や松之山町では、15年間に人口の1/4とか、1/3近くがいなくなっている。当然、高齢者より、若年者が出ていく例がほとんどだろう。ポツリポツリといなくなることもあるにしても、卒業の春には、かなりの人たちがまとめていなくなるのだろう。
通りかかった者は夢見心地でいられるが、住む人たちにとってはそれどころではない。

そういう地域で、大地の芸術祭が開催された。

自分たちが何百年も農業をやってきたところを、意味がないと日本は切り捨てたわけです。それが今回、田圃はいいとか、里山は美しいといって大勢の人たちが来てくれた。自分たちがずっとやってきたことを、みんながいいといってくれたわけです。彼らが一番喜んでいるのはそのことなんです。ぼくは、それが今回の最大の成果だと思っています。
( 「造景」 No.30 2000年12月 平良敬一との対談における北川フラムの発言)
 

2000年のトリエンナーレのあと、総合ディレクターの北川フラム氏はそう話している。
それは、「まれびとのむろほぎ」として、日本古代の研究において折口信夫が繰り返し説いたことの現代版とみることができる。
客=まれびとは村を訪れて、そこで受けた感動や厚意やさまざまな恩恵の返礼に室(むろ)むろほぎをする。家を誉めたたえ、人の健康を祝福し、実り多いことを祈念する。
むろほぎを受けて、村人には、誇りや、自信や、希望や、健康や、繁栄がもたらされる。

それに加えて、北川フラム氏は、2003年に向けては、こういう考え方をしている。

いろんな意味で、地域の将来の礎を作ろうとしてやっているのが、新潟の妻有なんです。妻有は今度はいよいよ農業などの本格的な問題に入ってきました。

妻有で大体分かってきたテーマは、基本的に中山間地、山村と都市の交換(エクスチェンジ)ですね。それぞれが補い合わないとダメであると。

(「文化のプログラムによって新たな『公共』事業の概念を創る/北川フラム」
文化環境研究所Cultivate Vol.18 2002.10.15)


うかつで気がつくのがいつも遅い僕には、「農業などの本格的な問題に入って」「将来への礎として」2003年夏のトリエンナーレがどう作られていたのか、よくみえなかった。
「里山学会」をはじめたキョロロや、まつだい雪国農耕文化村センターの活動のことだろうか?
作品を設置して終わりというのではなく活動を続けようとしている日比野克彦−明後日新聞社や、水内貴英−ミーツや、中瀬康志−儀明/劇場に、今後の展開への芽があるだろうか?

3年後のトリエンナーレには、また人が集まるだろうが、一過性のイベントが3回あっただけで終わってしまう心配もある。
残されて、蓄積されていく作品は貴重なものだが、ただ観光名所の一部になっては、どれだけの力があるか、心許ない。
この秋にも、「会期終了後、訪れる人がすっかり減った。もう少し期待したけど、これほどとは。」とがっかりする声を聞いた。旅館や飲食・土産物の店ではとくに切実だろうと思う。
訪れる側の気持ちを考えてみても、越後妻有アートトリエンナーレに関心があって、この夏行って十分楽しんだとしても、「ではまた3年後に来よう」というのが、ふつうのことだろう。

農業のこと、米のことは根が深い。(と言い切るほど、僕は縁がないのだけど、どうもタイヘンらしい。)
過疎や高齢化の問題もそうとう深刻な状態にある。
アートが、農業を含めたこの地域の暮らしに、一過性のイベントをこえて、どう関わることができるのか。
一見、関わりようなんてなさそうだが、棚田での米つくりを含めて、この地域での暮らしすべてが文化なのだからと考えれば、それにアートが関わることはできるかもしれない。
むしろ生産のみに関与しようとして失敗してきた、展望のない場当たり農政より深いところを突いていて、もしかしたら妻有では凄いことが進行しているのかもしれない。

などと構えた言い方をすると、つい深刻でキマジメな気分になってしまいかねないのだが、妻有の美しい眺めを楽しみながら、見ていきたいと思う。
■ 頸城平野って社会科で習った覚えがある
■ 越後は米どころ
■ 平野と山地
■ 農業にアートが関わる?




TOPこのコースのはじめに戻る