大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ 2003



 7  越後の夏/越後の冬


夏、妻有に行ってみごとな山里の風景のなかを車を走らせ、アート作品を見て回るのは、とても楽しい。
でも、夏だけ行くのは、おいしいとこどりというのか、ズルいというのか、ものの一面きり見ていないというのか、いけないのかなと思うようになった。

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越後の内陸部は雪の多い地域で、妻有(つまり)に隣接する塩沢の人、鈴木牧之(すずきぼくし 1770-1842)は雪国の様子を「北越雪譜」(ほくえつせっぷ)に書き残している。

 暖国(だんこく)の人の雪を賞翫(しょうがん)するは前にいへるがごとし。江戸には雪の降(ふら)ざる年もあれば、初雪はことさらに美賞し、雪見の船に哥妓(かぎ)を携(たづさ)へ、雪の茶の湯に賓客を招き、青楼(せいろう)は雪を居続(いつずけ)の媒(なかだち)となし、酒亭は雪を来客の嘉瑞(かずい)となす。雪の為に種々の逸楽をなす事枚挙(あげてかぞえ)がたし。雪を賞するの甚(はなはだ)しきは繁花(はんか)のしからしむる所也。雪国の人これを見、これを聞(きき)て羨(うらやま)ざるはなし。我国の初雪を以てこれに比(くらぶ)れば、楽(たのしむ)と苦(くるしむ)と雲泥(うんでい)のちがひ也。

鈴木牧之は江戸に2度行っている。郷里の人が圧倒的な雪の存在に抗して懸命に生きているのに、雪の少ない地域の人たちはのんきに雪で遊んでいる。「あなたたちとは違う暮らしをしている人もあるのだ」という対抗意識のようなものを感じる。
しかし、鈴木牧之が雪のことを書いた本を出版するには、江戸をたよりにするしかなかった。出版が実現しかけては、仲立ちをしてくれた滝沢馬琴十返舎一九が亡くなってしまうようなことが繰り返され、山東京山(さんとうきょうざん 1769-1858)の尽力でようやく出版されたのは牧之が78歳になる1837年であった。

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それからおよそ100年後のこと。
ナチスが政権をとったドイツから逃れてきて日本に1933年から1936年まで滞在した建築家、ブルーノ・タウト(1880-1938)は桂離宮をはじめとする日本の建築に大きな感動を受けている。
タウトの日本文化観は歓迎され、1936年には「日本文化私観」が翻訳・刊行される。
新潟に生まれ、叔母と姉が松之山の村山家に嫁ぎ、何度かこの地を訪れ、作品の舞台にもしている坂口安吾(1906-1955)は、1942年にタウトの著と同名の「日本文化私観」を書く。

 僕は日本の古代文化に就(つい)て殆(ほと)んど知識を持っていない。ブルーノ・タウトが絶賛する桂離宮も見たことがなく、玉泉も大雅堂も竹田も鉄斎も知らないのである。況(いわ)んや、泰蔵六だの竹源斎師など名前すら聞いたことがなく、第一、めったに旅行することがないので、祖国のあの町この村も、風俗も、山河も知らないのだ。タウトによれば、日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑(い)み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代りには、猥(みだ)りに酔い痴(し)れることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。

こういう書き出しで、生真面目なタウトを酔っぱらいの繰り言のようなふりをして批判する。
このところブルーノ・タウトにひかれていて、タウトや、タウトを支援した井上房一郎の行跡をたどってみたりしているので、とまどうのだけれど、この文体の威勢のよさもおもしろい。

庭や建築に「永遠なるもの」を作ることは出来ない相談だという諦めが、昔から日本には、あった。建築は、やがて火事に焼けるから「永遠ではない」という意味ではない。建築は火に焼けるし人はやがて死ぬから人生水の泡の如きものだというのは『方丈記』の思想で、タウトは『方丈記』を愛したが、実際、タウトという人の思想はその程度のものでしかなかった。

坂口安吾がタウトを批判したことの根拠を風土性にだけみることはできないが、雪国の人が「みやこ」の文化に違和を覚える流れの1つに数えることはできるだろう。

鴨長明(1153-1216)が移動式の方丈の庵に暮らし、「方丈記」を書いたのが13世紀(1212年)。
14世紀には吉田兼好(1283-1352)が「徒然草」(1330頃)に

家のつくりやうは夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。(55段)

と書く。
京都の冬が底冷えする寒さだとしても、雪国の雪の深さ、北国の寒さには及ばないだろう。雪国や北国の暮らしでは、徒然草の定義とは夏冬そっくりいれかえなくてはならない。「方丈記」や「徒然草」が日本人一般の生活意識、美意識を代表しているかのようにいわれるが、それは違うという人たちの暮らしもあった。

司馬遼太郎(1923-1996) は「街道をゆく」の「北海道の諸道」で、1966年に函館の近くの湯川(ゆのかわ)の宿に泊まり、「体が圧しつぶされるほどに厚い大ぶとんをかぶって」寝ていても、寒さで身動きができず、「ひたいが痛む」ほどの寒さにあう。


(これはすごい文化だ)
と思わざるをえなかった。
 この宿はこの当時湯川でも代表的な老舗で、軽快な京風の数寄屋建築が自慢だった。数寄屋というのは高温多湿の夏をしのぐためのもので、冬むきの建築ではない。和人が「ワクリ」として多数道南に移住するようになった鎌倉・室町以来、一度も北方の冬をしのげるような建物や装置を考えだしたことがなく、本土の南方建築で間にあわせてきたというのは、驚嘆すべき文化といっていい。
(中略)
 −奥羽や道南では、日本の他の文化と、家屋そのものからしてちがっている。
というふうに見られたくないという意識−逆にいえば中央と均一化したがる意識−がこれ(寒冷地向きの建築をつくること=引用者注)をはばんできたのではないか。日本には、本格的な意味で独自な地方文化が育ったためしがないということは、この一事でもわかるような気がする。

「みやこ」のもの、「標準」のものが、巨大な圧力をもって、「独自」なものを抑えて、均一にならしていくことを司馬遼太郎はいっている。

自分がなじんでいるのとは違う文化があるかもしれないという感覚、地域にはそれぞれの地域の文化がありうるはず−という視点をもっていたいと思う。

          ◇

最近、たまたま幸田文(1904-1990)の「崩れ」という本を読んでいたら、妻有地域の松之山もでてきた。

この作家は、70歳を過ぎてから、山が崩れることに魅入られ、年齢による体力の衰えと戦いながら、あちこちの山崩れを見に行くようになる。ところが山崩れハントを始めるより前の1962年頃、松之山に大きな被害を与える地滑りがあったときに、のちの山崩れハントの予兆のように、見にでかけている。
今、町の観光パンフレットなんかを見ると、美しい棚田はでてくるけれど、地滑りなんてでてこない。実際に車で走っていても、見事な棚田きり目に入らない。
でも、実は地滑りで流れてきた地味の豊かな土を棚田にしていて、それは水をたくわえるから、次の地滑りを防ぐ一助にもなるという関係にあるという。
簡単に見えるところだけぼんやり見ていてはいけないのかもしれない。

「崩れ」にはこういう文章がある。

自然を見るには、どうしても最低で一年四季は見ておかなくてはうまくない。

前回、2000年の夏、やはりトリエンナーレの開会早々に初めて妻有にきて、作品もいいし、この地域もいいところだと感激して帰った。
その後、会期の終わり頃に行った人から、夏のはじめとはすっかり田の稲の色が違っていることをきいて、夏だけでは様子がわからないのだなと、チラと思いはしていたのだが、この文章でとどめをさされたような気がした。

87海老塚耕一の作品「水と風の皮膚」を庭に置く旧家の大きなもみじは、秋にはきれいに色づいているだろうか?
松之山の「森の学校」キョロロは冬には雪に埋もれて潜水艦になっているだろうか?
高柳の「陽の楽家」(ひかりのらくや)は、寒い季節にも、司馬遼太郎が凍えそうになった旅館のようにならずに、人が集っているだろうか?
屋外に残った作品は、しっかり雪囲いをされたろうか?
夏のはじめに光いっぱいのさわやかな風景を作っていた山や田や川は、秋は、冬は、春はどんなだろう?

この季節にはあの作品があるあそこに行こう−と、あれこれ考える。すると、トリエンナーレが開かれる3年に1度の夏を楽しみにしていたのに、もっと楽しみの機会が増えていることに気がついて、うれしくなる。


参考:
「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ2003 ガイドブック」 大地の芸術祭・花の道実行委員会東京事務局 2003
北越雪譜 鈴木牧之 ワイド版岩波文庫 1991
「鈴木牧之 北越雪譜に生涯かけた人」 田村賢一 新潟日報事業社 1985
日本文化私観―ヨーロッパ人の眼で見た ブルーノ・タウト 森*郎(としろう)訳 講談社学術文庫 1992
日本文化私観 坂口安吾全集第3巻 筑摩書房 1999 
「新潮日本文学アルバム 坂口安吾」 新潮社 1986
国境の超え方−比較文化論序説 西川長夫 筑摩書房 1992
「北海道の諸道 街道をゆく15」 司馬遼太郎 朝日文庫 1981
崩れ 幸田文 講談社文庫 1994




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